その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は榎木英介さんの 『病理医が明かす 死因のホント』 です。
【はじめに】
日常から切り離された「死」
人は死ぬ。例外なく。
そんな当たり前のことを知らない人はいない。生まれたての赤ちゃんも、健康そのものの青年も、いつかは死んでいく。死は、だれにでも例外なく訪れる、きわめて身近な現象だ。
しかし、多くの人が病院のベッドで亡くなるようになり、死にゆく過程を間近で経験する機会は減った。日本では病院で死ぬ人が7割に達する。慣れ親しんだ家で死にたいという人も少しずつ増えているが、それでも病院で死ぬ人が大半である。かくいう私も、家族や親類の臨終に立ち会った経験はほとんどない。電話で死んだことを伝えられただけだった。皆さんの身内や知人はどのように亡くなっただろうか。
核家族化が進み、子どもたちにとって「おじいちゃん」「おばあちゃん」の死は、ある日突然知らされるものになった。葬儀に駆けつけ、初めて見る祖父母の亡骸。死はある日突然やって来る、わけの分からないものとして心に刻まれる。
また、たとえ家で死にゆく過程を見たとしても、体の外側しか見ることはできない。弱りゆく体の中で、何が起きているのかを知るのは難しい。病が体を蝕むという言葉があるが、何が体の機能や形を蝕んでいるかははっきりと分からない。
こうした状況のなか、死は遠い世界の、異常な出来事になってしまった。ドラマや物語で語られる死は「不慮の死」ばかりである。ニュースを見れば、テロや事故、戦争の悲惨な死ばかり取り上げられる。体が破壊された死。苦しい死。
突然、命を絶たれた人たちの無念は察するに余りある。こうしたニュースを見ていると、死を考えるのが嫌になる。死は痛く悲惨で、避けるべきもののように思えてしまう。
法医学者が執筆している死に関する本も、こうした異常な死を取り上げる。法医学は事件性のある死を調べ、原因を特定する学問で、重要な研究である。
時津風部屋力士死亡事件を覚えているだろうか。17歳の若い力士が兄弟子から暴行を受け、亡くなった。力士の父親が不審に思い、新潟大学で法医解剖を行ったことにより事件は発覚した。兄弟子と親方が逮捕され、罰せられた。もし解剖をしなかったら、事件は闇に葬り去られた可能性が高い。このような事件を解明し、原因を作った者を罪に問うことは、社会を維持していく上で重要だ。日本では法医解剖の比率は低く、犯罪者が野放しにされている。作家で元病理医である海堂尊氏は、こうした状況を「死因不明社会」と呼び、警鐘を鳴らしている。
しかし、こうした死に方をする人は少数である。厚生労働省の調査によると、日本では年間138万人(2019年)の人が亡くなるが、殺人や事故による死は少ない。もちろん、先にあげたように、病死としてカウントされている死の中にも殺人死がある可能性もある。解剖率が日本の10倍以上あるオーストリアの調査では、病死の1%は事件による死だという。想像以上に事件死は多い。とはいえ、それでも大半の人は事件では死なない。
グロテスクな死がメディアやウェブで取り上げられるのは、人々の興味を引くからだ。犬が人を嚙んでもニュースにならないが、人が犬を嚙めばニュースになる。同じように、ひっそりと死んでいく人よりも、より悲惨でより苦しい死が取り上げられやすい。
一方で、「普通の死」は日常から遠ざかってしまった。人が死ぬ場所は病院になり、死んでいく人の傍らに居続けることも難しくなった。さらに言えば、だれもが死ぬのに、一度しか経験できないから、だれもが死の未経験者なのである。
医学にとっても、死は「敗北」であり、死が語られることは少ない。医師は患者を助けてナンボのところがある。助けられなかった患者にこだわるより、生きている患者のことを考えろ、というわけだ。
さすがにそれだけではまずいと、緩和医学、緩和ケアが発展してきた。死にゆく人の苦痛を取り除き、心の安寧をはかる。とても重要な分野だ。BSCという言葉を聞いたことがあるだろうか。「ベスト・サポーティブ・ケア」の略だ。死ぬまで苦痛を取り除くなど、患者さんにとって「ベスト」なことをしますよ、という意味で、緩和ケアの別名である。今医療現場では、死にゆく患者さんのケアが重要な課題になっている。
しかし、緩和医療によって、医療現場から死がかえって遠ざかってしまったような気もする。あの患者は緩和ケアに回しておけ、と、治療にあたる医師の関心から外れてしまう。死は死の専門家に任せておけ、というのは、医療現場からの死の排除でもある。医療の専門分化は不可避ではあるが、その分、多くの医師は死を考える機会がなくなってしまった。
「死のプロセス」を伝える意味
私は病理医として、100を超える人たちの死と向き合ってきた。病理医としてはそれほど多くない数だろう。かつて大学病院など大きな病院では、年間200を超える解剖が行われていた。年々解剖率は低くなり、病理医が経験する解剖の数は減っていった。そういう意味で、解剖を堂々と語れるほどの経験をしていないかもしれない。しかし、その分一例一例を丁寧に行ってきたつもりだ。
私たち病理医は生前患者に会うことはない。病理医は患者に関わる最後の医師だ。遺体になって初めて患者と対面する。遺体に残された痕跡を丹念に観察することで、その人たちがどう生きてきたか、そしてどう死んでいったかを知る。
私は病理医として日常的に死と向き合っている経験をもとに、主に著名人の死を題材として、記事を書いてきた。病死という普通の死のあり方を知ってもらい、より良い人生を歩んでもらいたいと思うからだ。
しかし、時に死を開けっ広げに語ることは不謹慎、不適切との批判を受けることがある。遺族の感情を無視し、著名人の死について根拠のない推測を交えあれこれ言うのは問題があろう。しかし、著名人の死が報道されると、一般の人たちは不安に苛まれる。このような死が自分や親しい人たちにも降りかかるのではないか。そういう病気は痛いのだろうか。苦しいのだろうか、と。
こうした人々の声を無視することはできない。私が書いた記事は時に数百万ページビューを超えることもある。数は正直だ。人々は本当のところ死を知りたいと思っている。しかし、死をタブーとする社会では、おおっぴらに関心があるとは言えない。多くの人はそんなジレンマの中にいる。だから私が書いた記事をひっそりと読むのだと思う。
本書では、死にゆく人間の体でいったい何が起こっているのか、死という自然現象とはどのようなものかを、医学的、生物学的に考えていく。ここで取り上げる死は、いわゆる病死だ。私たちの多くがいずれ経験するであろう「普通の死」。法医学で語られる事件の死ではない、ありふれた死である。
本書は『Yahoo!ニュース個人』や『日経グッデイ』などに書いた記事をベースに、大幅に加筆修正し、まとめたものである。すでにウェブで記事を読んだ方にとっても、そうでない方にとっても、死について関心を持つことができると自負している。
なお、ウェブでは亡くなった著名人は実名で記事を書いていたが、本書では匿名にした。アルファベット順であり、イニシャルではない。
本書が、だれにでも訪れる死に関心を持つきっかけとなれば、これほどうれしいことはない。本書を通じて読者の皆さんが、死を知り、死を学び、死を正しく恐れ、そして充実した人生を生きることを願う。さあ、一緒に死を巡る旅に出よう。
【目次】