その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は高尾泰朗さんの 『ANA 苦闘の1000日』 です。なお、2022年11月10日(木)18:00~ ANAホールディングス片野坂真哉会長が登壇する出版記念オンラインイベントが開催予定です。詳細はこちらのリンクをご覧ください>>「日経ビジネスLIVE」ページ
【はじめに】
全日本空輸。略称ANA。
その名前を聞いて、何を思い浮かべますか。大空を飛ぶ、白地に青いラインが入った航空機。自分にとって大切だった旅行やビジネスの道中の記憶。空港内をさっそうと歩くパイロットや、機内でくつろぎの時間を与えてくれる客室乗務員たちの姿──。学生による就職企業の人気ランキングでは上位の常連で、憧れを持っていた人も多いかもしれません。
その持ち株会社であるANAホールディングス(HD)は、2019年3月期に売上高が初めて2兆円を突破し、2兆583億円に。営業利益は1650億円に上り、4期連続で過去最高となりました。日本国内の長距離移動、そして日本と外国の間の移動を支える、日本を代表する企業の1社です。
ところが、ここまでの約3年間、ANAグループはその華やかなイメージとは裏腹な「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の日々を過ごしてきました。21年4月入社の新卒採用活動を中止し、ANAで働く夢を持っていた若者が途方に暮れたこともありました。
原因は、ご存じの通り新型コロナウイルスの感染拡大です。
想像だにしなかったパンデミック
「原因不明の肺炎 中国中部で発生」──
20年1月7日、日本経済新聞の朝刊にこんな見出しが躍りました。一部の海外メディアは19年末から中国・武漢で原因不明のウイルス性肺炎による集団感染が発生していると報じていましたが、この記事は、厚生労働省が渡航者などに感染への注意を呼びかけたことを伝える内容でした。
当時、この未知のウイルスが1世紀前の「スペイン風邪」に匹敵するような世界的なパンデミック(爆発的感染)を引き起こすと誰が予測できたでしょうか。対策を講じる間もなく、ウイルスは世界中に拡散。今日に至るまで、新型コロナウイルス禍は各国の生活様式を一変させてきました。
感染拡大の波が繰り返し押し寄せるコロナ禍は今もなお、社会や経済に大きな影響を及ぼしています。そこでは「勝ち組」も「負け組」も生まれました。
勝ち組となったのは、「密」を避けて「ステイホーム」を徹底するという新たな生活様式に適した企業たちです。巣ごもり需要を取り込んだEC(電子商取引)企業や宅配事業者などは好業績を記録。ビデオ会議システムやオンライン診療など、新たなビジネスチャンスが開花した領域もありました。突如生まれた余暇を埋める動画やゲームなど、エンターテインメント業界も活況に沸きました。
一方で負け組となったのは、飲食や交通、興行など、人々の「移動」や「にぎわい」の手段や場を提供してきた業界です。その中でも苦しんだのが航空業界でした。
リモートワークやオンライン会議の普及で、収益の柱だった出張需要が減少。インバウンド(訪日外国人)の拡大などを背景に盛り上がっていた観光需要も一気にしぼんでしまいました。
未曽有のパンデミックは航空会社の経営を大きく揺るがします。かつてのナショナルフラッグキャリア(国を代表する航空会社)である日本航空(JAL)は、21年3月期の売上高が前の期に比べてわずか3分の1程度となる4812億円に減少。EBIT(利払い・税引き前損益)は3983億円のマイナスという巨額赤字に沈みました。
ただ幸か不幸か、JALは10年に事業会社としては戦後最大規模となる経営破綻を経験しました。財務基盤の立て直しを迫られた結果として、筋肉質な経営モデルを築き上げていたのです。そのおかげもあり、巨額赤字に沈んだ21年3月期末も、財務の健全性を示す自己資本比率は45%と高水準を保ちました。
これに対し、創業以来の危機にひんしたのが本書の主役、ANAHDでした。
事業拡大の「反作用」
公的資金の注入と金融機関の債権放棄で救済したJALとの公平な競争環境を保つため、国土交通省は“ドル箱”とされる羽田空港の新規発着枠をANAHDに多く割り当ててきました。その追い風を受けたANAHDは、インバウンド需要の拡大と歩みを合わせるように路線網を広げ、事業規模を拡大してきたのです。20年3月までの8年間で、従業員数は4割も増え、機材数も3割強増やしていました。JALを上回るペースで売上高を伸ばし、「国内最大の航空会社」へと成長しました。
この間に、政府専用機の整備などを担う航空会社もJALからANAHDに代わっています。“青い翼”は、名実ともにフラッグキャリアの座をほしいままにしていました。その急成長の「反作用」が、コロナ禍で出てしまったのです。
ANAHDの21年3月期の業績は、売上高が63%減の7286億円、営業損益は4647億円のマイナス(前の期は608億円の黒字)でした。悪化の度合いはJALと同程度ですが、金額の大きさを考えると、ANAHDは数ある「売上高1兆円クラブ」の企業の中で「コロナ禍の影響を最も受けた企業」と言える存在です。コロナ禍における売上高の「蒸発度」、そして赤字幅の大きさを考慮すると突出していました。
そして、問題は自己資本比率でした。ANAHDのそれは、1年前の41.4%から31.4%まで急激に低下しました。さらに22年3月期には24.8%まで低下しています。「資本力に乏しい状態」とされる20%未満が目の前です。
ただ、これはもっと悪くなる恐れもありました。もしANAHDの経営陣や社員が何もせずにコロナ禍が過ぎるのをただ待っていたら、もっと低い値になっていたでしょう。コロナ禍襲来直後の素早い「輸血」、すなわち資金調達と、コスト削減という「止血」、そして旅客需要という屋台骨が傷む中で新たな収益源を模索する「体質改善」。その3つをもがきながら必死に進めてきたことで、ANAHDはようやく光明を見いだしつつあります。
赤字幅はJALよりも縮小。21年10~12月期はわずか1億9000万円ながら、8四半期ぶりに営業黒字に転じました。次の22年1~3月期こそ変異型「オミクロン型」の感染拡大によって旅客需要が落ち込み、再び営業赤字に転落しましたが、一部の都道府県に発令されていたまん延防止等重点措置は3月に解除されました。
22年4月29日、羽田空港第2ターミナル。10連休を取得した人も少なくないこの年のゴールデンウイーク(GW)初日、2階の出発ロビーはスーツケースを引く家族連れやグループなどでごった返し、保安検査場には大行列ができていました。
GW期間(4月29日~5月8日)中のANAの国内線利用者数は96万人弱。21年比で約1.9倍と大幅増でした。「GWに入っても予約が増え続けた。観光地の様子などを映像で見て、旅に出たい、旅に出てもいいんだと思った消費者が多いのだろう」。こう振り返ったのは3月末で社長を退いたANAHDの片野坂真哉会長。需要が戻る様子を自宅で見守りながら、確かな手応えを感じたそうです。
以降も航空需要は上向き。感染拡大の「第7波」がやってきた22年夏も国内線は堅調で、国際線需要も回復傾向が続いています。22年8月1日に発表した4~6月期決算では、23年3月期の黒字見通しを据え置きました。
歴史的な復活劇に
ANAHDは結果として、「自力」で未曽有の危機を乗り越えつつあります。休業してもらった社員の給与をカバーする「雇用調整助成金」の受給や、着陸料など「公租公課」の減免措置といった公的支援こそありましたが、一部の海外航空会社のように国による資本注入などは受けませんでした。さらにはリーマン・ショック後のJALのように、経営破綻に陥ることもなかったのです。これは、経営を揺るがす大事件に直面した企業の歴史的な復活劇と言えるでしょう。
ANAHDはなぜ復活できたのか──。
世界が「ウィズコロナ」モードに切り替わって国際線の需要が徐々に回復し、日本でも旅行や出張などの長距離移動へのためらいが少なくなってきたから。もちろんそれもあります。しかし、それだけではないというのが私の見方です。
私は経済誌『日経ビジネス』の記者として、コロナ禍の苦境にあえぐANAHDを長期的に取材してきました。羽田空港や成田空港、本社のある東京・汐留……。日本を代表する大企業の1社であるANAHDの経営陣から現場の社員までが、初めての経験に戸惑い、どうすべきか思い悩み、難局に立ち向かおうとする姿がそこにありました。普段のANAが見せるスマートさとはずいぶん違う姿でした。
ANAHDの中で、誰が、いつ、どこで、どう立ち回ったのか──。復活に至るまでの“1000日”の苦闘を忠実に記録すれば、企業の危機対応の「お手本」として活用してもらえるのではないか。そうした思いから筆をとりました。
「VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)」と表現されることも多い今の時代。現に、ウクライナ危機や為替の急激な変動、エネルギー価格の高騰、異常気象など様々なリスクが企業に次々と襲いかかっています。「レジリエンス(復元力)」が強いかどうかが企業の存続を左右するようになってきました。
いつ危機がやってくるかは誰にも分かりません。できることは、危機を乗り越えた人たちが何を考え、どのように動いたかを知っておくことでしょう。
本書は、コロナ禍の1000日でANAHDやそのグループ会社を繰り返し取材・執筆してきた内容を基に、大幅に改稿・追加してまとめたものです。「需要がほとんど蒸発する」という突然の危機に直面したANAHDの経営者や社員は、そのとき、何を思い、どう動いたのか。その全記録が、変化の時代に奮闘するあらゆるビジネスパーソンの道しるべになることを祈っています。
もちろん、ANAHDの復活はきれいごとばかりではありません。「輸血」の結果、有利子負債額は22年3月末時点で約1兆7500億円と2年間で2倍以上に膨らみました。
月例賃金や賞与のカットという「止血」によって、社員の年収は一時最大で3割ほど減り、グループを去る決断をした社員たちもいました。グループ全体に占める航空事業の売上高はいまだ9割近くと、「体質改善」も道半ばです。
そして、こうした危機の際には「業界再編」がささやかれるものです。今回もご多分に漏れず、大手航空会社は2社でいいのか、という議論が盛り上がりました。復活を遂げつつあるANAHDの課題を分析しながら、コロナ禍を経て日本の航空業界がどのように変わろうとしているのかもまとめています。
企業の危機対応に興味がある方にとっても、航空業界そのものに興味がある人にとっても、参考になる1冊となれば幸いです。最後まで、ぜひお付き合いください。
高尾泰朗
【目次】