その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は諸田玲子さんの 『登山大名』(上)(下) です。第一章の抜粋をお届けします。
【第一章】 娘狩り
娘は、山腹の雑木のあいだから、ふいにその姿をあらわした。くっきりとした二重(ふたえ)まぶたの大きな眸(ひとみ)を煌(きら)めかせ、頬を桜色に上気させて、軽く息をはずませている。
ひと目見るなり、わたしは息を呑んだ。娘の顔が、日ごろ見なれた女たちの顔とは異なっていたからだ。そのくせ、なぜだろう、生き別れた身内にふたたびめぐりあったかのようななつかしさが胸にこみあげている。
双眸(そうぼう)は漆黒ではなく褐色に近い。頬骨が高く、鼻筋もすっととおって、顎が少し尖(とが)っていた。白い歯がのぞく口元にはえくぼが刻まれ、ふっくらとした下唇が紅くぬれたように光っている。ここは山中だから浅黒い肌のほうが自然なのに、日焼けの跡らしき赤味や茶色のしみが散見されはするものの、顔も首も耳たぶまでが透きとおらんばかり。汗をおさえようとして額へ当てた手の、手甲(てっこう)におおわれていない指さえ白い。
崖の上のアカマツの大木の陰にいるわたしに、娘は気づいていないようだった。くるりと背をむけ、急勾配に怯(おび)えるふうもなく「雲が晴れたんでお山がよう見えるよ」と下方のだれかに話しかけた。連れがいるようだ。
竹籠を背負っているところをみると、キノコでも集めていたのか。色褪(あ)せた小袖の裾をまくりあげ、二重三重に帯をしめて固定している。蹴出(けだしの下からのぞく足は脛巾(はばき)に甲掛草鞋(こうがけわらじ)、頭には手拭いをかぶっていた。
近隣の娘であるのはまちがいない。が、それなら鳥屋山(とやさん)で大規模な狩りが行われていることも知らされていたはずだ。わたしは領民を危険な目にあわせるのを望まないし、なにより狩りの続行中は、たとえ十代の娘であろうと人を近づけぬよう、見張りを徹底させている。
狩りの一行は家臣と勢子(せこ)あわせて百名ほど。日程は三泊四日。野営地はここから東南へ下った廃城の本丸で、獲物は猪と鹿。
といっても、獲物の数を競うことが目的ではない。狩りは、すなわち軍事訓練である。
この日はこちらとは反対の、山の東面一帯で狩りが行われていた。ときおり呼子笛(よびこぶえ)の音が聞こえるのは、獲物を発見または仕留めた合図だ。
娘の後ろ姿の先には、山麓からつづく平原が広がっていた。十一月上旬の今は枯野が大半だが、田畑や林の合間に集落が点在している。岡(おか)城と城下町は左手の南方なので、ここからは見えない。遠くで帯を流したようにうねるのが芹川、そのかなたにくじゅうの山脈が連なっている。
娘が口にしたとおり、朝のうちかかっていた雲は晴れ、霧も消えて、山々は影絵のような雄姿を空に描いていた。山の西端、かつて三の丸があったこの場所から見えるのは、右手北方から黒嶽(くろだけ)、大船山(たいせんざん)、尾根つづきにくじゅうの山々……。
ここへ来たのは二度目だ。伏見と江戸を行き来して成長したわたしは、二十八年前に初めて国許である豊後国岡を訪れた。
あのときも狩りの最中だった。父にうながされて狩場をはなれ、廃城の残骸をふみしめて、山腹の西端の、この崖っぷちまでついてきた。
父はわたしに背をむけ、まさに今、娘がいる位置の上方にたたずんで、景色をながめていた。父は小柄で、並べば十四のわたしのほうがひとまわり大きかったが、わたしの目に、父の背中は千の矢をはじく盾のように見えた。
ややあって、父はわたしに声をかけて隣へ並ばせ、真正面の山を指さした。
「あの山、あれが大船山だ」
岡城は山城だが、西方の尾根に建てられた武家屋敷にさえぎられて大船山は見えづらい。
無言でいると、父はつづけた。
「大船山のむこうがなにか、わかるか。肥前国。長崎があるところだ」
それだけだった。父はもうその場をはなれようとしている。
せっかく二人きりになれたのに話らしい話をしてもらえず、わたしは落胆した。が、藩主となった今ならわかる。父がなにをいいたかったのか。それゆえにこそ狩場を抜けだし、供も連れず、あえてここへやって来たのだ。父のことばを反芻(はんすう)するために……。
ザクザクと土をふむ音がした。娘の連れがようやく追いつこうとしている。
もう一度、娘の顔を見たかった。声をかけようかともおもったが、驚かせたくない。まして連れがいるなら、このまま退散すべきだろう。
きびすを返そうとしたときだった。
娘が身をすくませた。寸刻をおかず、蛙をふんだときのような異様な声と共に、ドサッと人の倒れる音がした。
「爺(じい)ちゃんッ、爺ちゃんッ」
娘は金切り声をあげて駆け寄ろうとする。あわてて駆け下り、片手で娘の腕をつかんだ。
「動くなッ」
いいながら目の隅で、四、五間もはなれていないところ、センブリでおおわれた山肌に半ばずり落ちそうになりながら斃(たお)れている杣人(そまびと)らしき姿を認めていた。うつぶせなので顔は見えない。が、菅笠(すげがさ)が脱げ落ちて、白髪があらわになっている。小蓑を着た背に矢が突き立っていた。
とっさに、矢が放たれたとおもわれる方角へ目をやった。幼少期より楠流(くすのきりゅう)の兵法を学び、軍学や剣術にうちこんできた。一国の城主である前に壱人(いちにん)の武者である。
岩の上で人影が動いた。つづけざまに矢を放ってこないのは、邪魔者の出現に驚いたのか。わたしを狙えば娘に命中する恐れがあり、それでためらっているのかもしれない。
瞬(まばた)きをするほどのあいだに、別のことにも気づいていた。いや、気づくまでもない。追手が迫っている。二方向、もしくは三方向から、何者かが崖を登ってくる気配がした。矢を放った刺客の仲間か。邪魔者を射殺した上で、娘を拉致(らち)する計画が練られていたのだろう。
「逃げるぞ。来い」
「放してッ。爺ちゃんが……」
「殺(や)られたいか」
腕をふりほどこうともがく娘を強引に崖の上へ引きあげようとした。
娘が抵抗するのは当然だ。突然あらわれて自分の腕をつかんだわたしこそ、娘にとっては曲者(くせもの)に見えたにちがいない。
狩り装束である。水干(すいかん)―上下にわかれ、下衣(したごろも)は裾のつぼまった袴(はかま)―の左腕に射籠手(いごて)を、腰から下には革製の行縢(むかばき)をつけ、頭に綾藺笠(あやいがさ)をかぶって、太刀をおび、矢筒(やづつ)を背負い、〈ゆがけ〉と呼ばれる手袋をはめた片一方の手で弓をつかんでいる。足ごしらえは鹿の毛皮でつくった物射沓(ものいぐつ)。狩りの一行からはぐれ、妙なところをうろついている怪しげな輩(やから)とおもわれたか。
もみあっているうちにも、追手はすぐそばまで迫っていた。布頭巾をかぶった頭や、裾短にまくりあげた布子、裁着袴(たっつけばかま)をはいた足が、雑木や藪、岩のあいだからちらちらと見える。いでたちからして、勢子にまぎれて山へ入ったのだろう。長棒と見えるのは、おそらく刃が仕込まれた長槍だ。追手は少なくとも三人。
「行けッ。登りきったら一目散に駆けよ」
娘の腕から手をはなし、弓を捨てて太刀の柄(つか)をつかんだ。矢を射る間はもうない。
娘もここへきてさしせまった状況を理解したようだ。わたしの背後にぴたりと身を寄せた。が、崖を登るのはためらっている。
「急げッ」
「なにやつ……」
追手のことか。
「わからん。が、やつらの狙いはおまえだ」
「なぜ……」
「知るか。いいから、ぐずぐずするなッ」
三方からせまりくる敵と対峙していたので、娘がどんな表情でわたしの命令を聞いたかをたしかめる暇はなかった。さぞや動転していたはずだ。怯えていたにちがいない。安否がわからぬまま祖父を置き去りにするには悲壮な覚悟がいる。
それでも、娘は命令にしたがい、崖を登りはじめた。娘がはなれるや、ヒューッと風を切る音がして鈍い光を放つ矢が飛んできた。わたしをめがけて。射抜かれそうになったものの、すんでのところを太刀で払う。たてつづけに第二、第三の矢が飛んできた。
その間にも追手が目の前に迫っていた。身をかがめて矢をよけ、同時にくりだされた長棒を太刀で払いのける。急な崖をものともせずに登ってきた追手だ、只者とはおもえない。しかも多勢に無勢。ここでまともに戦えば、勝ち目がないのは火を見るより明らかだ。
とはいえ、もはや退却はできない。背中を見せれば即、突き殺されるか、射殺されるか。助かるすべはなさそうだ。が、それならそれで、せめて娘が逃げ延びるまでの時をかせぎたい。
「うぬら、何者だ。余を岡城主、中川久清(なかがわひさきよ)と知っての狼藉(ろうぜき)か。望むところがあるならいうてみよ」
【目次】


