その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はマイケル・オービッツさんの 『LEGEND(レジェンド) ハリウッド最強のエージェント、マイケル・オービッツ自伝』 です。

【プロローグ】

 昨夜は寝つけず、階下に降り、テレビで「ターミネーター2」を見はじめた。世界中が眠っているかのように思える静かな夜更けだ。ビバリーヒルズの高台、自宅のリビングルームから見るロサンゼルスのきらめきは、無人の防音スタジオを照らすまばゆい照明のようだった。

 アーノルド・シュワルツェネッガーが敵をブルドーザーのようになぎ倒す様子を見ながら、私はふと気づく。あれは私だ。私はターミネーターだった。

 ハリウッドで映画タレントエージェンシー「クリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー(CAA)」を立ち上げてからというもの、私は殴られ、壁に投げつけられ、爆撃で粉塵が舞う中にいた。瓦礫の中から立ち上がると、赤い目をギラつかせ、今度は相手を壁に叩きつける。ライバルが感じていた恐怖は、無力感が根源だった。疲れを知らず、容赦ないヤツには勝てない。人間離れした相手にどうやったら勝てるというのか?

 細心の注意を払い、ターミネーターのようなイメージをつくり上げた。私だってそんなイメージは嫌だ。誰が好き好んで人を心底おびえさせたいのか。けれどとても効果があった。我々の売り文句はシンプルだ。あなたがエージェントだろうと、クライアントだろうとCAA側につくなら、24時間体制ですべての望みに応えよう。当時はクライアントにつきひとりのエージェントが担当するのが普通だったが、我々は各クライアントに4人か5人のチームで対応した。

 ほかより長く、賢く、懸命に働き、我々は強靭な要塞を築いた。我々につくか、敵対するか。道は2つにひとつだ。敵対するなら、我々は要塞からエージェントを送り出し、戦争も厭わない。我々の最高峰の監督を使いたければ、500万ドルを要求した。これは他社の倍の金額だ。「ゴーストバスターズ」「フォレスト・ガンプ/一期一会」「ジュラシック・パーク」といったヒット作を手がけた役者や作家、監督を組み合わせた映画をパッケージ提案して、スタジオにつくらせた。役者のイザベル・アジャーニ、ビリー・ゼイン、監督のペドロ・アルモドバル、ロバート・ゼメキス、さらにはテニスプレイヤーのアンドレ・アガシ、ロックバンドZZトップまで、CAAは1350のクライアントから年間3億5000万ドルの報酬を得ていた。

 こんなことができたのは、我々に強力な武器があったからだ。その武器は、我々の言う通りにしなければ、制作をボイコットし、ヒット作はよそに奪われ、業界中の笑い者になると取引先にほのめかした。私はCAAのエージェントたちに毎日その武器に手を伸ばすように言った。

 武器とは、つまり私だ。取引先を説得する際にもっとも効くセリフはこうだ。「その内容で契約を締結する権限は私にはありません。マイケル・オービッツと交渉していただくことになります」。これは相手がもっとも避けたいことだった。彼らは、私がさらに法外な要求をすると知っていた。納得できなくても早めにまとめたほうが、マイケル・オービッツと相対するよりマシだ。CAAの175名のエージェントのほとんどが、日に5度はそう口にしていた。私の名前は一種の魔法、あるいは呪いのようなものになった。

 わずか20年で私は無名の状態から、ハリウッドでもっとも権力のある男として称賛されるまでになった。メディアは決まって、すきっ歯で台本に忠実、異常な秘密主義のスーパーエージェントと書いた。それが数年続くと、街でもっとも恐れられる存在となった。そして私がCAAを去ってからは、もっとも嫌われる存在となった。

 脅し文句がよく効いたのは、「マイケル・オービッツ」が亡霊だったからだ。レッドカーペットを歩かず、パーティには裏口から出入りし、私を撮影した写真の権利はすべて自分で保有した。最初の10年はまったく広報活動をせず、その後もほんの少ししかしなかった。

 実際に会うと私は話しやすく、相手は思わず椅子を近づけた。めったに怒らず(完璧主義者の私にとって、これは多大なストレスだった)、酒をほとんど飲まず、ドラッグもやらない。ダンスすらしない。こうした性格のおかげで、私は異様なほど冷静で統制のとれた人間に見られた。そして事実、私はその通りの人間だ。

 クライアントはスクリーンで演じるのが仕事だが、私はスクリーンの外で演じた。100人中99人は、自分で自分の役を演じる。しかし、私は、相手によって演じるキャラクターを変える。相手を安心させ、契約をまとめるために演じるカメレオンだった。基本キャラクターはしっかり者、情報通、用意周到、聡明、忠実、不屈だ。しかし、ポール・ニューマンの前ではいとも簡単にスポーツカーの熱狂的なファンを演じ、投資銀行家のフェリックス・ロハティンの前では熱心に財務政策の話をし、ソニー代表の盛田昭夫とはウォークマンの具体的な仕様の話に飛び込めた。対して、一緒に働く人たちにとって私はすべてを支配しようとする人間だった。はたから見れば、形状をいとも簡単に変える機械、ターミネーターだった。

 けれど、プライベートの私は、些細なことにも過剰反応し、あらゆる脅威におびえる心配性だった。腰痛と苦い記憶を持つ私という男は、1955年のジャスパー・ジョーンズの傑作絵画「ホワイトフラッグ」を眺めるために居間へと向かう。何年も前に破綻した日本の建設会社からこの油絵を購入した。その会社は破滅的な財政状況を隠すためにホワイトフラッグを1年間、公に見せないことを購入条件とした。そのため、グリム童話の青ひげが秘密の部屋を守るかのように、私はこの絵を鍵のかかる部屋にしまっていた。毎日ホワイトフラッグを見に行き、ジョーンズの才能、表現力豊かな筆使い、そこから感じられる彼の並外れた意志の強さと想像力を愛でながら、幻想のひとときを過ごす。すばらしい芸術は私の中の少年、なんでも知りたがる好奇心の強い子供心を引き出す。

 芸術への憧れはあるものの、私にアートの才能はなかった。絵を描くのも、彫るのも、音楽の才能もない。ましてや演技なんてできない。アルバート・ブルックスの依頼で、彼の監督作品「リアル・ライフ」にカメオ出演した際も、私は完全に固まってしまった。だから、私にとって次に意義のあることに人生を費やした。アーティストと仕事をすることだ。彼らが才能を十分発揮して、最高の演技をするために私は力を注いだ。彼らがありとあらゆる事態を切り抜けられるよう、私は彼らの砥石となったのだ。

 CAAの売り込みはこうだ。「もっといい題材、情報、取引。夢のプロジェクトを叶えます」。ジェームズ・クラベルの「将軍 SHOGUN」は、私とパートナーのビル・ヘイバーが見つけてミニシリーズ〔訳注:数日連続で放送する番組〕の大ヒット作にするまで、4年もほこりをかぶっていた。「トッツィー」の脚本もまた、私がダスティン・ホフマンのエージェントとなり、彼の苦手なシドニー・ポラック監督との制作を取りつけるまで6年も使われないでいた。

 けれども、エージェントが夢を叶えるには途方もない代償が要る。画家ならほかの画家に嫉妬しても、その筆使い一つひとつが自分の人生を破滅させるとは思わない。アートはゼロサムじゃない。それぞれが最高の仕事をする余地がある。けれどエージェントの仕事は取引規模に比例して、恨みを抱く人間が増える。新しいクライアントを獲得すれば、別のエージェンシーから恨みを買う。ある映画をユニバーサルと契約すれば、他の6つのスタジオが我々を恨む。CAAの目標は全クライアントと契約することであり、よってすべての争いを引き受けた。「争いがなければ、利益もない」と我々はよく言っていた。これは勇猛な目標だが、代償が伴う。

4人の監督が降りたレインマン

 たとえば、バリー・モローが脚本を書いた映画「レインマン」は、1986年にCAAにやってきた企画だ。精神障害を抱えるレイモンド・バビットと、その弟でハードボイルドな詐欺師チャーリーの物語だ。私は即座に、チャーリー役にダスティン・ホフマン、レイモンド役にビル・マーレイを考えた。1982年の「トッツィー」以降、ホフマンは1作品しか出演していない。伝説の失敗作「イシュタール」だ。この作品はあまりにひどかったので、彼の書類手続きを拒み、報酬を受け取らないことで、なんとか彼の出演をなしにしようとしていたくらいだ。ホフマンの次回作は、なんとしても良い役にしたかった。それに650万ドルとなるCAAの年間報酬分を稼いでもらわないといけない。

 ホフマンはレイモンド役をやりたがった。想定外だが、それでも構わない。彼は私の呼ぶところの「モーター」だ。ひとりだけで十分な影響力を持ち、プロジェクトを進ませられる。映画の制作会社グーバー・ピーターズとファーストルック契約を取りつけていたワーナー・ブラザースが制作を見送ったのは残念だった。私はピーター・グーバーに「レインマン」の制作を進めたいと言い、彼は喜んで承知した。プロジェクトは行き詰まっていたので、私が引き継いでもいいだろう。レインマンの脚本にはセックスもカーチェイスも盛り上がるクライマックスもなかったが、予算を2500万ドル以内に抑えられたら、夜に映画を見るデート客や大人の観客から5000万ドルを稼げると確信していた。私はプロジェクトを実現するために方々で話をした。ハリウッドではプロジェクトを形にできなければ、なにもしていないのと同じだ。形にするには、関係者が成功を信じていると周囲に見せなくては始まらない。絶対に映画になると言い続けたら、時折だが、最終的に映画になるのだ。

 レインマンには2人目のスターと優秀な監督が必要だ。私は親しい友人でもあるバリー・レビンソン監督とホフマンを引き合わせた。彼らはすぐに親しくなった。

 社内の企画ミーティングで、エージェントのポーラ・ワグナーとジャック・ラプケはトム・クルーズの配役を提案した。「ハスラー2」でポール・ニューマンの助演で成功したトム・クルーズはチャーリー役にぴったりだった。このスターの組み合わせはレインマンを特別なものにするだろう。だが、ハリウッドの誰もがこの企画をあざわらった。2人には大きな年齢差があり(ホフマンは50才、クルーズは25才)どう兄弟を演じるのか。普通ならCAAのパッケージ提案はその重さに耐えられずに頓挫し、クライアントたちはCAAをクビにするだろう。

 ところがレビンソン監督は「グッドモーニング、ベトナム」を撮るためにプロジェクトを降りたので、私は「ビバリーヒルズ・コップ」の監督、マーティン・ブレストを連れてきた。CAAのクライアントで脚本家のロナルド・バスが台本を書き直した。バスの書いた構成が良く、ユナイテッド・アーティスツが参画を決めた。

 それからホフマンは、レイモンドの設定を自閉症にした。自閉症は完治しにくいので、話の結末に救いはないが、ホフマンは難しい仕事を好んだ。今度はブレスト監督が「ミッドナイト・ラン」を撮るために降り、スティーブン・スピルバーグが参加した。彼もまたしばらく案を練ったが、インディアナ・ジョーンズの撮影のために去った。トム・クルーズには「カクテル」のモテるバーテンダー役を見つけてきて、忙しくしてもらった。クルーズが映画を撮っている間、レインマンはほんの少し前進した。シドニー・ポラック監督が4人の新しい脚本家と共にやってきた。けれど、彼もまた降りた。

 映画の企画は、プロジェクトの重要な信奉者である最初の監督が降りると、そこで頓挫するのが普通だ。この映画では4人もの監督が降りた。けれど私は諦めなかった。ホフマンがこの役を強く望んでいた上、私は彼と彼の家族を親身に思っていた(その思いを誰かに見せたことはない。ホフマンにさえもだ。私はそれが致命的な弱点になることを心配していた)。

 私はバリー・レビンソン監督に電話をした。「最初からあなたしかいなかった」。彼は最新の脚本を読み、ロードムービーにすることを決めた。「3幕ではなく、1幕の映画だ」と彼は言った。「登場人物たちは旅に出る。紆余曲折を経て、旅は終わる。けれどそれが終わりではない。レイモンドは変わらないし、弟とは同居できない。悲しい結末だけれど、それがこの物語だ」。レインマンにはわかりやすいアクションはなく、ホフマンとクルーズはプライベートでこの映画を「車に乗る2人のうすのろ」と呼んだ。けれど、レビンソン監督の映画で重要なことは水面下で起きるのだ。

 ユナイテッド・アーティスツは2500万ドルの予算を組んだが、それ以上は1セントも出すつもりがなかったので、超過したらCAAが補填することにした。CAAは報酬を失うどころか損失もありうる。資金、仕事上の関係、友情がリスクにさらされていたので、私は取りつかれたようにセットに通い、プロデューサーのマーク・ジョンソンに日々の進捗を聞いた。レビンソン監督に進捗を聞いてもあてにならない。ビューファインダー以外の世界は忘れるからだ(「グッドモーニング、ベトナム」の撮影中は、レビンソンの妻が放って置かれていると感じないよう、私が代わりに「あなたが恋しい」というメッセージ付きのバラの花束を送っていた)。

 ある日、ホフマンは役づくりで「恐怖と苦痛と自己嫌悪でいっぱいだ」と言った。ロケの最初の週、レビンソン監督はレイモンドが住む施設の外、カモが泳ぐ池の側でのシーンを撮影した。レイモンドとチャーリーが並んでベンチに座り、チャーリーはそれまで存在さえ知らなかった兄と話そうとする。レイモンドはどこを見つめるでもなく「わからない」と何度もつぶやく。私は10テイクを見て、少なくとも5つはまったく問題ないと思った。クルーズの演技は完璧だった。けれど、ホフマンが不満そうにしていることをそこで気づくべきだった。

 ロサンゼルスに戻った後、私はホフマンに電話した。「調子はどう?」

「良くない」

「どうした?」

「役が掴めないんだ」ホフマンの声は震えていた。「掴んだように思ったが、わからなくなった」

 3日間、ホフマンは数時間おきに電話をかけてきた。焦りが募っているようだった。しまいには代役を薦めるところまで追い詰められていった。

「今までやった中で最悪の仕事だ」とホフマンは嘆いた。心の整理がつくまで撮影を一時中断したほうがいいかと私は聞いた。1日10万ドルかかっていても、後で撮影し直すより、費用を抑えられる。

「いや、続けたい」と彼は言った。ホフマンをわがままだと言う人もいるが、彼はいつも作品の完成度だけを気にしている。

 私はレビンソン監督に電話した。「ホフマンが役を掴めないでいる」

「わかっている」とレビンソンは言った。「けれど、自分の演技で気に入っている部分があるかどうかさえ教えてくれない。彼がなんとか掴むまで続けるしかない」

 仕方がない。

 レビンソン監督はホフマンに、撮影した映像から5秒でも納得できる演技があるか見つけてほしいと言った。そしてホフマンが役を掴んだとき、作品の土台が整った。下着のシーンを撮影した頃には(「ボクサーショーツはKマートで買うんだ」)、ダスティンの演技は完璧だった。

 監督と俳優の組み合わせが良ければ、たとえ馬が合わなくても、互いの才能を引き出せる。レビンソンの冷静さはレインマンにとって不可欠だった。ホフマンはカメラが回っていないところでも役に入り込み、人と目を合わそうとはしなかった。レビンソン監督は常に穏やかで、ホフマンが突然叫んでもレビンソンは雑音を除去し、平静に対応して次に進んだ。脚本にはない面白いシーンや感情的な瞬間を見つける余白を役者に与えた。レイモンドが暗いホテルの部屋に入って、チャーリーとガールフレンドがセックスをしている音をまねるシーンは、すべてホフマンの創作で、笑える印象的な場面になった。

 レインマンは1988年、ほとんど注目されずに公開し、全世界で興行収入4億ドル近くを叩き出して周囲を驚かせた。利益を共有する我々のクライアント(バックエンド参加と呼ばれる)のダスティン・ホフマン、トム・クルーズ、バリー・レビンソン、マーク・ジョンソンは、通常の何倍もの報酬を受けとった。さらに、映画はアカデミー賞8部門にノミネートされた。

 1989年3月、オスカーの授賞式に参加した私と妻ジュディはダスティン・ホフマンの一列後方に座っていた。バリー・モローとロナルド・バスがその日の夕方、すでに脚本賞を受賞していて幸先の良いスタートだった。すると主演男優賞にホフマンの名前が呼ばれた。私は誇りと興奮で胸がいっぱいになった。私の友人がオスカーを複数回受賞したエリートの仲間入りを果たしたのだ。ホフマンは私より10才近くも年上だが、私はほかのクライアントと同じように、彼の父親のような気持ちだった。まるで初めて自転車に乗る子供の後ろで、自転車を支えながら「ペダル、ペダル!」と叫ぶ父親だ。

 トッツィーはホフマンがCAAに持ち込んだ作品だったが、レインマンは私が彼に提案した作品だった。ホフマンの受賞スピーチを聞いて、私は驚いた。「エージェントのマイケル・オービッツに感謝したい。作品が頓挫しそうなとき、そうならないようノリでつなぎとめてくれた」。オスカーで名前を言及されたことがあるが、このようなことは初めてだった。その後、バリー・レビンソンが監督賞を受賞し、「この映画が死にそうなとき、何度も存命させるために手を尽くしてくれたことに対して、マイケル・オービッツに感謝を伝えなければなりません」と述べた。作品賞を受賞したマーク・ジョンソンも、何週間も何年もこの作品に付き合ってくれたとして、私への感謝の言葉を述べた。バラエティ誌のコラム編集者はその時のアカデミー賞の記事の見出しに「マイケル・オービッツ、オスカーの英雄」と書いた。これ以上うれしいことはない。

 授賞式後、ガバナーズ・ボールに入ると私は祝福しに来た人たちに囲まれた。ホフマンとトム・クルーズもその中にいた。その晩、最優秀男優賞にノミネートされたトム・ハンクスがやってきて、私の肩に腕を回した(それから間もなく彼もCAAのクライアントになる)。

 しかし、その傍らに「ミシシッピー・バーニング」に主演したジーン・ハックマンとアラン・パーカー監督の姿が見えた。2人とも私のクライアントで、私が自ら契約した人たちだった。その夜は敗者であり、明らかに憤っていた。毎日の対応はCAAのほかのエージェントが担っていたが、ほかのクライアントと同様、彼らの成功と失敗にも私に責任の一端があるように思っていた。特に、ホフマンの古いルームメイトで、葛藤するFBI捜査官の難しい役柄を見事に演じたハックマンに対しては申し訳なく思った。私は、兄弟のひとりをえこひいきしているのがばれた父親のようなバツの悪い気分だった。

 私はうまく諍(いさか)いを収められる。少なくとも私はそう思っていたので、彼らのところに行って、祝福しようとした。ところが彼らは背を向け、私を冷たくあしらった。レインマンが受賞するよう私が仕組んだと思っていたのだ。私の票は自分の心に従ってレインマンに入れたが、投票結果を思い通りにすることなんてできない。CAAの問題は、ほぼすべてを牛耳っていたことだ。レインマンは勝ったが、ミシシッピー・バーニングは負けた。人生最高の夜は、同時に人生最悪の夜になった。

 仕事のパートナーで親友のロン・メイヤーが数メートル離れたところに立っていた。誰もが口を揃えて言うようにロンがCAAの良心であり、私はろくでなしだった。ロンはセーターにジーンズ、足元はコールハーンのローファー姿だ。対して私は青いスーツで身を固めていた。ロンはいつも日焼けしていて、余裕があり、親しみやすい人柄だ。対して、私はいつも青白く、緊張し、警戒していた。ロンが柔和に交渉する一方で私は強硬に交渉した。しかし、2人は結合性双生児のようにハートと頭脳を共有していた。私がロンのところに行って、今しがた起きたことを話すと、彼は苦笑いを浮かべた。それを見て、いつものように少し救われた。「この仕事にはつきものだ」と彼は言った。昨年、ロンは彼の随一のクライアントでよき友人として接していたマイケル・ダグラスとシェールのために猛然と働き、彼らはその年の主演男優賞と主演女優賞を獲得した。クライアントが同時に2つの賞を獲得することはとても稀だったが、ダグラスもシェールもロンに感謝することはなかった。ロンはひどくショックを受けていた。シェールは彼女の美容師には感謝していた。

信頼、裏切り、大ヒット

 エージェントは何かをつくり出す仕事ではない。営業するのみだ。クライアントに時間と専門性を売り、クライアントのためにスタジオやテレビ局に営業した。時間が我々の資産だ。寝る間を惜しんで働き、凄まじいペースで時間を消費した。心臓外科医や車の手配、クライアントの子供たちを名門校に通わせるといったことまで、クライアントのためにほかのすべてを投げ出した。私はクライアントみんなの主任精神科医、法律顧問、財務顧問、フィクサー、文化通訳者であり、泣きたい時に肩を貸す存在だった。クライアントの人生が我々にかかっているように感じられ、彼らの人生、そして自分の会社に何か悪いことが起きないか私はいつも気に病んでいた。80年代のある日、探偵がCAAのゴミを漁っているのを見つけてからというもの、すべてのメモは破棄、あるいは鍵のかかった場所に保管してあるかを確認し、電話も盗聴されていないか、いつも気にするようになった。あきれたアシスタントたちが密かに私をまねたフレーズは「電話は盗聴されていないか?」だった。心配しすぎるに越したことはない。競合は我々を負かそうとしている。そしてクライアントは簡単になびいてしまうと思っていた。

 私は完璧なコントロールを追い求めていたが、実際はクライアントのほうが私をコントロールしていた。クライアントの自宅、プロダクションのオフィス、楽屋で何が起きているかについて私の知ることは少なかったが、それでも時折聞く噂話には辟易した。ハリウッドは無慈悲なビジネスで、才能と美しさにつけ込むよう設計されたマシンである。噂によると、私の担当していた俳優が若い女性を性的な対象として扱っていたそうだ。私のオフィスでハラスメントがあれば、すぐに解決できる。女性アシスタントから男性社員に付け回されていると相談があったとき、私はその男性社員を呼び、徹底的に叱り飛ばして1週間の謹慎処分を言い渡した。それから女性アシスタントを私の担当に異動させ、その後10年間、彼女はとても生産的に働いた。戻ってきた男性社員は反省した様子で、私の知る限り、同じ間違いを犯すことはなかった。しかし、クライアントとの力関係は違った。私を解雇できるのは彼らのほうだった。私はクライアントの親代わりだったが、子供のほうが権力があった。それに加え、私は社会的正義よりも自分たちの事業を重んじたため、こうした問題に介入することはなかった。深く後悔している。ハーヴェイ・ワインスタイン時代が終わりを告げ、私よりも勇敢な女性たちが主導して裁きが下された。これは絶対に必要なことであり、もっと早くになさなければならないものだった。

 噂話を看過してしまったのは、クライアントに尽くしたいという強い思いが私の中にあったからでもある。クライアントたちは気難しいところもあるが、家族のようなものだ。それに、クライアントに感謝されると、私は落ち着かなかった。友人たちは私のために過去に2回、誕生日パーティを開催したが、そこで私は祝杯の言葉を禁止した。私は贈り物を渡すのは好きだが、受け取るのは苦手だった。私は成し遂げたことや実現した数々の奇跡について認められたいと思っていたし、そうならないと腹を立てた。けれど、稀にそのような機会があると、ひどく恥ずかしい気分を味わった。だからほとんどの場合は私が与え、人々は受け取った。毎日、クライアントが私の体に栓をつけて、全開にしているかのようだった。そうした栓は1350もあったため、私はいつも昼過ぎには気力を使い果たしていた。感謝されない仕事だったが、表立ってそうは言えない。報酬を受け取っているのだから、それが感謝の代わりだ。

 私はCAAのエージェントにこう言っていた。「クライアントには友人だと思われるように振る舞うこと。ただし、本当の友人でないことを忘れるな」。だが、たいていの場合、裏切るのは親しい友人のほうで、信頼し続けてくれるのはクライアントのほうだった。

 たとえば、部下のジェイ・モロニーは私が息子のように思い、いつか後継者にと考えていた男だ。彼は私の着ていたアルマーニのスーツから、リヒテンシュタインの絵画を買うところまで、私を慕っていた。CAAで特に有望な若手のひとりとして頭角を表したが、私がCAAを去ると私と縁を切った。友人でディズニーの社長を務めたマイケル・アイズナーは、彼のナンバー2として私を雇い、その後、公で私に恥をかかせ、14ヵ月後に解雇した。そして、共にCAAを創業し、血を分けた兄弟のように思っていたロン・メイヤーは、私たち2人で就任すると交渉していたユニバーサルの重役にひとりで就き、20年に渡って街中で私を批判し続けた。

 人々を理解し、突き動かす理由を探ることが私のライフワークだった。私は信頼できる人を見誤るほどうかつではないし、ダマされるには賢すぎると信じてきた。なので、こうした裏切りはランダムに起き、悪意には根拠がなく、私は温かな人間関係さえも破滅させるねじ曲がった衝動の犠牲になったのだと考えたい。単にトップに上り詰めるために私が用いた方法や戦略が悪かったのだと思いたい。その過程で、私と成功を共にした者たちからさえも、必然的に恨みを買ってしまったのだと。誰もが勝者を嫌うからだと。私は金と権力を求め続け、人々に恐れられようと私の進むところは変わらなかったからだと。

 けれど、もちろん変わった部分もある。私はどのスタジオも気に止めなかった映画をヒット作にできた(スタンド・バイ・ミー)。一般人をスターにした(武術インストラクターだったスティーブン・セガール)。さらには、スタジオ買収の仲介役にもなった(コロンビアとMGMは1回ずつ、ユニバーサルは2回)。CAAを後ろ盾に、一時の間、私はレバレッジと正しい判断力、そして純粋な信念を持って、ありとあらゆることをハリウッドで実現できたのだ。


【目次】

画像のクリックで拡大表示
画像のクリックで拡大表示