その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は安藤優一郎さんの 『お殿様の定年後』 です。

【プロローグ】

隠居という名の「定年」制

 江戸時代、全国各地で君臨した諸大名は世襲の身分だが、家督相続には将軍の許可が必要なため幕府に人事権を握られていた格好である。しかし、家督相続が認められ、ひとたび大名として認定されれば、不行跡(ふぎょうせき)がない限りその地位は保証された。

 今で言う定年もなかったが、家督を譲って隠居する場合は幕府の許可が必要だった。ただし、その時期は当人の意思に任せられていた。みずから出処進退を決められたが、彼らはその後どんな隠居生活を送っていたのか。

 江戸時代は泰平の世でもあり、高齢化が非常に進んだ社会だ。一般庶民に比べれば、大名の生活レベルははるかに上で充実した医療も受けられた以上、長命の可能性は高かった。隠居後の長い人生を謳歌できる資産もあった。

 隠居すると、現役時代のように政治向きに関与することはほとんどなく、著述活動のほか、文化財の収集や保護といった文化事業に力を入れるのが通例だ。そうした活動を可能にする資産があったればこそだが、パトロンとして保護を期待した文化人が集まってくる背景にもなっていた。そんな文化人を駆使して文化事業を展開したのである。

 現役時代にはできなかった娯楽に興じるお殿様も多かった。隠居後は江戸で余生を送るのが定番で、上屋敷を跡継ぎに譲って中屋敷や下屋敷で生活したが、屋敷内の巨大庭園がその拠点だった。屋敷外での行動も束縛がなくなり、歌舞伎小屋に連日通うお殿様もいた。江戸は日本最大の娯楽街であり、お殿様たちが江戸での隠居生活に憧れる大きな理由となっていた。

 文化や娯楽に投資した費用が巨額にのぼり、藩の財政を傾かせる要因となった事例までみられる。徳川光圀が端緒をつけた『大日本史』編纂は水戸藩の財政に重くのしかかった。となれば、お殿様たちの文化・娯楽活動が江戸の経済に与えた影響も無視できない。『大日本史』編纂を通じて創り上げられた水戸学が歴史を動かす原動力となったことは、はからずも幕末の歴史が証明している。政治への影響力も見逃せない。

 本書は、五名のお殿様の「定年」後のアクティブな活動を通して、知られざる江戸時代の姿に光を当てるものである。


 各章の内容は次のとおりである。

 第1章「大名のご公務―江戸と国元の二重生活」では、現役のお殿様の日常生活の様子を概観する。参勤交代制に基づき、大名は江戸と国元の二重生活を強いられたが、特に江戸では堅苦しい日々を余儀なくされた。

 第2章「水戸藩主徳川光圀―水戸学を創った名君の実像と虚像」では、「水戸の御隠居」の愛称で今も親しまれる水戸黄門の文化事業の歴史的意義を明らかにする。『大日本史』編纂は幕府の存立基盤を脅かすための事業ではまったくなかったが、幕府の威信が衰える幕末に入ると、『大日本史』は倒幕のバイブルへと変貌する。

 第3章「大和郡山藩主柳沢信鴻(のぶとき)―庭いじりと歌舞伎の日々」では、柳沢吉保の孫として生まれた大名が、隠居後は巨大庭園の整備と歌舞伎の世界にどっぷりつかった様子を追う。信鴻は荒廃していた名園・六義園の整備に情熱と財力を注ぐとともに、連日のように芝居小屋に通ったのである。

 第4章「白河藩主松平定信―寛政改革後の多彩な文化事業」では、政治家としてのイメージが強い定信の旺盛な執筆活動や文化財の収集・保護活動に注目する。家臣には画家として名高い谷文晁(ぶんちょう)もおり、定信の文化事業を支える一人であった。

 第5章「肥前平戸藩主松浦静山(まつらせいざん)―『甲子夜話』(かっしやわ)執筆に捧げた余生」では、江戸時代の代表的な随筆集『甲子夜話』を編纂した松浦静山の生涯に焦点を当てる。編纂を開始したのは隠居後だが、その裏には静山が現役のお殿様だった時の切ない思いが秘められていた。

 第6章「薩摩藩主島津重豪(しげひで)―蘭癖大名による文明開化」では、西洋文化の摂取に努めた島津重豪による開化事業を通して薩摩藩が明治維新の主役となった背景に迫る。重豪は幕末の英主とうたわれた島津斉彬(なりあきら)の曽祖父にあたる人物であった。

 エピローグ「幕末の政局を動かした隠居大名」では、幕末における隠居大名の政治活動に注目する。激動の時代に政治力を発揮したお殿様には松平春嶽や山内容堂など隠居身分の大名が少なくなかった。

 以下、定年後のお殿様たちの様々な生き様を通して江戸時代の歴史を読み解いていく。


【目次】

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