その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は兼原信克さんの 『安全保障戦略』 です。
【はじめに】
本書は、令和2年(西暦2020年)に、筆者が現代安全保障戦略について同志社大学法学部の学生諸君に対して行った講義をまとめたものである。
皆、志の高い優れた若人であり、筆者の方が彼らから力をもらうことが多かった。
彼らは、令和の日本を担うことになる。激変しつつある国際社会のなかで、これから難しい舵取りを任されることになる。中国の台頭、製造業の流出、少子高齢化と難問は山積している。令和は平成よりはるかに厳しい時代になる。学生諸君には、自分たちの将来をこの国の将来に重ね、たくましく生き、日本を少しでもより良い国にしていってほしい。
筆者は、数十歳も年の離れたこの恐るべき後進たちに、筆者たちの世代は、一体何を伝えることができるのかと自問してみた。筆者たちの世代が責任を負っていた平成の時代、世界はどう変わってきたのか、そこで筆者たちは何をやろうとしたのか、何を成し遂げたのか、そして何を失敗したのか。筆者たちの世代が遺すことになる道を振り返りながら、粛然として毎回の講義に臨んだ。幸い学生諸君は強い関心を示してくれた。驚いたことに、そして嬉しいことに、学生諸君からは、筆者たちの世代は一体何をしてきたのかと、問い詰めるような質問が多かった。
筆者は、学生諸君に、64万人の職員を抱える日本政府という巨大な組織を運営するとはどういうことか、国民の意思をくんで政治や行政を行うとはどういうことか、民主主義国家において安全保障政策を司るとはどういうことかを伝えたかった。それは決して安全保障の微細にわたる各論ではない。国家のリーダーが、安全保障に関し国民に対して持つ責任の意味を伝えたかったのである。
それはいかなる組織にあっても必要なリーダーとしての資質を教えるということであった。彼らには、将来、いかなる大きな組織にあってもトップリーダーとして活躍できる人材に育ってほしいと願う。政治家なら総理大臣、企業なら社長、自衛隊なら統幕長、新聞社なら主筆、何処でもトップが務まるリーダーとして育ってほしい。また、国際社会に出ても、堂々と日本人として誇りを持って、日本のリーダーシップを発揮してほしい。筆者は、そう願って講義してきた。彼らの高い志を以って万事の源となし、勇気を持ってたくましく生きてほしいと願う。
筆者が彼らに一番伝えたかった大きなメッセージは、次のようなものである。
戦後、日本は、先進工業民主主義国家の主要な一員となった。20世紀後半に立ち上がった自由主義的な国際秩序は、欧米諸国を中心とするものであった。アジアの国々は独立と開発のために苦闘していた。1980年代の後半から、多くのアジアの国々が開発独裁の段階を抜けて、次々と誇り高く民主主義に舵を切っていった。フィリピン、韓国、台湾、インドネシア、タイ、マレーシアなどである。皆、いまだ多くの問題を抱える若い民主主義国家・地域であるが、自分たちの民主主義に強い誇りを持っている。今、ようやくアジアに自由主義的な国際秩序が立ち上がりつつある。
アジアの成長と成熟は歴史的必然である。英国に始まった産業革命は、地球的規模で工業化の津波を生んだ。それから200年を経て、工業化の波は、ヨーロッパ人がかつて永遠の停滞に呪われていると信じたアジア全域に広がった。それは1980年代の韓国、シンガポール、香港、台湾から始まり、やがてASEAN諸国に広がり、今や巨竜の中国が天翔けるようになった。中国よりも平均年齢が10歳も若い巨象のインドが、すぐに後を追うであろう。
初期の工業化には負の側面が伴っていた。工業化の過程で、国内の富の格差があまりに拡大すると、社会全体の改造を求めるようになる。全体主義や共産主義のような独裁思想が生まれる。独裁は、ヒトラーのようなポピュリストによる独裁であったり、ロシアや中国のような共産党一党独裁であったり、あるいは、軍人のクーデターによる独裁であったりする。
全体主義や独裁政治は、20世紀の間、急激な工業化を目指す国々に感染した。それは20世紀前半の後発工業国家である日独伊露のみならず、20世紀後半に独立を果たしたアジア、アフリカの新興工業国家でも同じである。
さらに19世紀から20世紀前半にかけて、産業革命による急速な工業発展は、欧米諸国に誤った民族的優越意識や人種的差別意識を生んだ。たかが200年工業化に先んじただけで、人間の遺伝子に優劣があるという愚劣な人種差別論が罷り通った。また、急速な工業化に伴う国力伸長は、強いナショナリズムと拡張主義を生んだ。19世紀以降、先行工業国家は、工業化に遅れたアジア、アフリカの様々な民族を植民地支配して収奪した。つい半世紀前の20世紀後半まで、世界は、欧米宗主国という天上世界とアジア、アフリカの植民地という地上とに二分されていたのである。
人類は、このような過ちを一つずつ克服して、今日のフラットで自由主義的な国際秩序を築いた。一人ひとりの尊厳は絶対的に平等であり、一人ひとりが幸せになる権利があり、政府はその道具にすぎないという当たり前の考え方が、20世紀後半、瞬くまに地球上に広がった。その姿がくっきりと見える。
今日から振り返れば、ラスカサス、ルター、カルヴァン、ロック、ルソー、ギャリソン(米国奴隷解放運動家)、トルストイ、リンカーン大統領、ガンディー、キング牧師、マンデラ大統領など、数百年にわたり多くの偉人を生み出した自由主義的な世界思想の広がりとつながりがはっきりと見える。それは霊性と理性の覚醒が交錯する系譜である。
ところで工業化のもたらす最も重要な変化は、近代的個人の大規模な覚醒と、巨大な近代国家の出現である。人は生き延びるために集団をつくる。工業化は、その集団を国民国家という形に巨大化する。工業化は、富を激増させ、通信、交通、教育の手段を劇的に変化させる。伝統的な社会が近代的な共同体につくり替えられる。
工業化された新しい共同体のアイデンティティが模索され、近代的な国民国家が登場する。工業国家は、国民国家である。工業化が進み、近代的な国家が立ち上がると、国民の一人ひとりが国家に忠誠を誓う国民になる。国家に自分のアイデンティティを重ねるようになる。外敵に遭遇すると国民の凝固が加速される。それは近代的な現象である。
国民は、やがて政府とは、自分たちがつくるものだと考えるようになる。その過程で、多くの人々が、身分、門地、社会階級、肌の色、目の色、民族、人種に関係なく、個人の尊厳は絶対的に平等であることに気づきはじめる。そして、近代的な国民は、国家に忠誠を誓うと同時に、国家に対して、自らの固有の権利を主張するようになる。天賦人権、国民主権である。工業国家は、政治意識の高い発言する近代的国民を持つようになり、ゆっくりと時間をかけて必ず民主化する。民主化のプロセスが完遂するには100年かかる。しかし、それは歴史の必然である。
近代国家は、3つの顔を必ず併せ持つ。工業国家、国民国家、そして、民主国家である。今日のアジアにも民主化の波が訪れている。21世紀前半は、アジア最古の工業国家であり、近代的国民国家であり、民主主義国家である日本が、アジアにおける自由主義社会のリーダーシップを取る番である。唯一人、非欧州文明圏から工業化の第一波に乗った日本には、そして成功も失敗も経験してきた日本には、その責任がある。
平成時代は、昭和の時代から続く官僚主導の政治が廃れ、政治主導が復活した時代であった。それは大きな混乱を伴ったが、令和に至ってようやく落ち着きを取り戻しつつある。後世の人々は、政治主導の復権した平成の時代を、大正デモクラシーに比肩する平成デモクラシーの時代と呼ぶであろう。霞が関(官界)の関係省庁や永田町(自民党本部)の党執行部や族議員に権力が分散していた昭和の時代、日本政府は八岐大蛇(やまたのおろち)のような化け物だった。誰がどこで何を決めているのか、誰が国民に国政の責任を取るのか分からなかった。
今ようやく権力は総理官邸に集約され、国民が選んだリーダーが、国民に対して政治の責任を果たすという近代民主主義の理論通りの政治が実現できるようになった。国民が政治に世論という風を送り、その風を受けて帆を膨らませた政治指導者が、64万人の職員を抱え、100兆円の予算を執行する巨大な日本政府という巨艦を、自らの意思で走らせる時代になったのである。平成デモクラシーは、令和デモクラシーとして完成されるであろう。日本は、自由主義社会のリーダーとして、世界史を演出できるだけの国力を有し、かつ、自由主義を奉じて倫理的成熟を示す国となった。
本書では、このような問題意識を各章の通奏低音として、日本が、これから安全保障政策において何をなすべきかを考える。
まず、第Ⅰ部で、政治主導下の安全保障政策過程のあるべき姿、安全保障に関する政府組織、特に、総理官邸や内閣官房のあり方、国家安全保障会議および国家安全保障局の機能、正しい政軍関係(シビリアンコントロール)のあり方について考える。また、日本ではあまり論じられないインテリジェンスの基本についても触れておく。
続いて、第Ⅱ部で、自由主義的な国際秩序とは何か、国家戦略の立て方、戦略的安定の重要性、国家の安全、日米同盟の変遷、自由貿易の重要性、ありうべき西側の対中関与大戦略、最近の対韓外交の説明に移ることとする。
最後に、本書は日本外交および安全保障の入門書でもあるので、第Ⅲ部において、サイバー戦、宇宙戦、科学技術・経済安全保障、日本の抱える歴史問題、領土問題などの多様化する外交課題についても触れる。なお、日本は領土問題として認めていないが、近年、中国の現状変更の試みの故に緊張の高まる尖閣諸島について触れることとする。
なお、本書の上梓に当たっては、日経BP日本経済新聞出版本部の堀口祐介氏にまことにお世話になった。10年前に堀口氏の編集で上梓した『戦略外交原論』と同様に、この『安全保障戦略』も堀口氏の御助力と励ましなくして世に出ることはなかった。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
【目次】