その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」をご紹介します。今日はアリス・シュローダー(著)、伏見威蕃(訳)の『 スノーボール[改訂新版] ウォーレン・バフェット伝(上)(中)(下) 』。上巻の前口上と「第1章」の一部を抜粋してお届けします。
ウォーレンが九歳の冬のことだった。雪の降る庭で妹のバーティといっしょに遊んでいた。
ウォーレンは雪片を受けとめていた。最初はひとかけらずつ。やがて、両手にいっぱいすくいあげた。それを玉に固めた。雪の玉(スノーボール)が大きくなると、地面に置いた。玉がゆっくりと転がりはじめた。ウォーレンが押すと、玉に雪がくっついてきた。芝生の上をずっと転がして、雪をどんどんくっつけた。すぐに庭の端まで行った。ほんの一瞬迷っただけで、ウォーレンは進みはじめ、雪の玉を隣の庭まで転がしていった。
そのときからずっと、ウォーレンは雪でいっぱいの全世界に目を向けて、進みつづけている。
【第1章 格好悪いほうの話】
──二〇〇三年六月 オマハ
父ハワードのものだった粗末な木のデスクの向こうで、ウォーレン・バフェットが長い脚を組んで座り、体をそらす。高価な〈ゼニア〉のスーツの上着が、出来合いの安物みたいに、肩のあたりでくしゃくしゃになる。一五人いるバークシャー・ハザウェイ本社の社員がどれほどカジュアルな服装をしていようと、バフェットはどんな日でも一日ずっと上着を脱がない。いつも白と決めているワイシャツは襟(えり)をくつろげてあり、小さすぎる襟からネクタイがはみ出している。この四〇年間、首回りを測り忘れているのか、若きビジネスマンのころからずっとおなじワイシャツを着ているように見える。
白くなった髪を梳(す)くようにして、両手を頭のうしろで組んでいる。無造作に梳かれた髪の大きなひと房が、頭のてっぺんでスキーのジャンプ台みたいに跳ねて、右耳の上で空を向いている。べっこう縁の眼鏡の上から覗くもじゃもじゃの右眉が、そっちのほうへ勝手にのびている。この眉毛が、ときに怪しむような、ときに事情を見透しているような、愛嬌のある顔をこしらえる。いまはかすかな笑みを浮かべ、その気まぐれな眉が人好きのする雰囲気をかもし出している。それでも水色の瞳は、一点を見据え、熱がこもっている。
これまでの五〇年を象徴するさまざまな記念品に囲まれて、バフェットは座っている。オフィスの前の廊下には、アメリカン・フットボールのネブラスカ・コーンハスカーズの写真、ソープオペラに出たときの出演料の小切手、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)というヘッジファンドの買収提案書(受諾されなかった)、各地のコカ・コーラ関係の記念品が飾られている。オフィスのコーヒー・テーブルには、昔のコカ・コーラの壜(びん)が置いてある。透明なアクリルの箱には野球のグローブ。ソファの上には、一九五二年一月にデール・カーネギーのスピーチ講座を受講したときの修了証書が掛かっている。本棚のてっぺんには、ウェルズ・ファーゴの西行き駅馬車の模型。彼の投資パートナーシップが所有していたオマハの新聞《サン》が一九七三年に受けたピュリツァー賞の賞状。書物や新聞もオフィスのあちこちに散乱している。家族や友人の写真が、サイドキャビネットやサイドテーブルを埋め尽くし、デスクの脇の本来ならコンピュータを置くべき棚の下にも置いてある。バフェットのデスクの奥の壁には父親の大きな肖像写真が掛かっている。オフィスにはいる人間は、だれでもそれと向き合うことになる。
窓の外では晩春のオマハの朝が差し招いているのに、茶色い木の鎧戸(よろいど)が閉まっていて景色が見えない。デスクの正面にあるテレビはCNBCに合わせてある。音は消してあるが、画面下をゆっくりと流れるティッカーが、一日ずっとニュースを伝えてくれる。長い歳月のあいだ、バフェットはしばしば自分についてのニュースを楽しんできた。
だが、バフェットその人を知る人間は、ごくすくない。私は証券アナリストとしてバークシャー・ハザウェイを取材したのがきっかけで、六年前に知り合った。それからずっと友情をはぐくみ、これからさらに深く彼のことを知ろうとしている。私たちが彼のオフィスで向き合っているのは、バフェットに自叙伝を書く気がないからだ。「きみのほうがずっとうまく書けるよ、アリス。私じゃなくてきみがこの本を書いてくれるほうがありがたいんだ」とくりかえすあいだ、もじゃもじゃの眉毛が、その言葉を強調する。バフェットが固辞する理由は、本書を読み進むうちにはっきりするはずである。まずは、核心からはじめよう。
「どうしてそんなにお金を儲けるのが大事だと思うようになったの?」
バフェットはしばし遠くに目をやり、思いをめぐらす。心のファイルをぱらぱらとめくっている。やがてバフェットが物語をはじめる。「すべての莫大な富の背後には犯罪がある、とバルザックはいった。それはバークシャー・ハザウェイにはあてはまらない」
その考えの正しさを示すかのようにさっと立ちあがり、大股で二歩進んだ。金襴(きんらん)の肘掛け椅子に腰かけ、七二歳の投資の達人ではなく初恋を自慢するティーンエイジャーみたいに身を乗り出した。その物語をどう解釈するか、ほかのだれをインタビューするか、なにを書くのかは、私に任されている。バフェットは人間の本性や記憶のあやふやさについてしばらく話をしたあとで、こういった。「アリス、私の話とだれかの話が食い違っているときには、格好悪いほうの話を使ってくれ」
数ある教訓のなかでも、もっとも優れた教訓は、バフェットを観察するだけで得られる。教訓その一、謙遜は相手の心を捉える。
結局、格好悪いほうの話を選ぶ理由はあまり見あたらなかったのだが、そういう選択をしたときは、たいがいの場合、あやふやな記憶のせいではなく人間の本性に由来するものだった。
【目次】



