業界を支配する巨大企業はなぜ衰退したのか。「イノベーションのジレンマ」を描く経済小説から、直木賞を受賞した歴史小説まで。経済学やビジネスの面白さも味わえる幅広いジャンルの小説を、経済学者で政府の「新しい資本主義実現会議」有識者構成員など公職を多数務める柳川範之・東京大学大学院経済学研究科教授に挙げてもらいました。

巨大企業はなぜ滅ぶのか

 連載3回目は経済学を楽しめる小説3冊を紹介します。

 まずは 『象の墓場』 (楡周平著/光文社文庫)です。こちらは世界的なフィルム会社・ソアラの日本法人に勤務する主人公が、銀塩フィルム全盛期にデジタル製品の販売戦略立案を命じられるというストーリーです。小説という形をとっていますが、著者の楡さんの経験がふんだんに盛り込まれていてリアリティーがあります。

 小説の中ではソアラというメーカー名ですが、コダックをモデルにしていることは明らか。コダックは世界最大のフィルムメーカーで、世界で初めてデジタルカメラの開発に成功したにもかかわらず、デジタル化の波に乗り遅れて、経営破綻しました。小説の中には富士フイルムとおぼしきメーカーも登場し、両者の比較が書かれています。

 経済学の観点から見てこの小説がすごく面白いのは、「イノベーションのジレンマ」(業界を支配する企業が革新的技術に対応できずに衰退していくこと)が描かれている点です。銀塩フィルムという旧分野での成功が大き過ぎたため、デジタル化という新しい時代の波に乗り遅れてしまったんですね。

 そうすると「旧態依然の経営陣がいたせいで、改革が遅れたんじゃないか」と思いがちですが、実はコダックの経営陣は相当早い段階からデジタル化への危機感があり、いろいろな取り組みをしているのです。しかし、うまくいかず、他メーカーとの競争に敗れていく。

 ビジネスでは意思決定が求められる場面が多々ありますが、決定が正しくても、スピードが速くても、結果が出ないこともあると思い知らされます。

「イノベーションのジレンマ」を面白く描いた『象の墓場』
「イノベーションのジレンマ」を面白く描いた『象の墓場』
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 今はどの企業にもデジタルトランスフォーメーション(DX)の波が押し寄せ、組織の構造改革が必要になってきています。そのときに、果たして本当に自分の会社で改革ができるのか。トップダウンで改革を進めるのか、それともボトムアップで改革を進めるのか。そういった部分を重ね合わせて読むと、より心に迫るものがあるでしょう。

 小説として読んでも面白く、ビジネス書としても示唆に富む1冊です。

ゲーム理論を思わせる心理戦

 2冊目は『黒牢城』(米澤穂信著/KADOKAWA)です。こちらは直木賞も受賞して、4大ミステリーランキングも制覇した話題作ということで手に取りました。

 本能寺の変の4年前、織田信長に反旗を翻した荒木村重は、城内で起きる難事件に翻弄(ほんろう)されます。悩んだ彼は土牢(どろう)に閉じ込めている織田方の知将・黒田官兵衛に謎解きを依頼する──というストーリーです。黒田官兵衛が牢から一歩も出ずに謎解きをしていく……という姿は、映画『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士のようでもあります。

 戦国時代の歴史を描いた重厚な歴史小説であるだけでなく、本格的なミステリーでもあり、骨太な構造の作品。物語中で展開される心理戦は、経済学のゲーム理論を思わせます。

 ゲーム理論とは簡単にいうと、さまざまなプレーヤーの利害がからみ合う状況で、どのように行動するのが最適かを考察するものです。誰しもビジネスではそのようなことを考えなければならない局面がありますよね。自分なら相手の動きをどう読むか、推理する楽しさを堪能できる1冊です。

 3冊目は『光秀の定理』(垣根涼介著/角川文庫)。

 これは不思議な歴史小説です。明智光秀が主人公なのですが、意思決定理論、確率論の要素が入った物語が進んでいきます。普通はそうした数学的な要素と歴史小説は合わないのですが、見事に融合しているところに垣根さんの手腕を感じます。

 もともとは現代ミステリー系の作品に定評があり、歴史小説を書いていた人ではないので、意外な方向転換だと驚き、読んでみて、再び驚きました。同じシリーズで『信長の原理』もあるので、気になっています。

仕事に役立つ本ばかり選ばない

 今回挙げた小説はビジネスに直接関連するものもありますが、普段は「これは自分の仕事に役立つかもしれない」という視点で本を選ばないようにしています。

 本を読む最大のメリットは、「アンラーン(これまでの思考のクセや思い込みから脱却すること)」にも通じますが、「自分の知らない世界に触れること」。

 この分野は知らない、この世界が面白そうだと手にした本から知識を得て、それが何かのタイミングでアイデアになるのだと思います。

「本を読めば自分の知らない世界に触れることができます」と話す柳川範之さん
「本を読めば自分の知らない世界に触れることができます」と話す柳川範之さん
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 反対に、「この本は仕事に役立ちそうだ」という視点ばかりで本を選んでいたらどうでしょう。選択肢が偏り、結果として視野を狭めてしまうのではないでしょうか。

 特に小説は自分の好きなものを自由に選べばいいと思います。私も、その世界にどっぷりと浸れる超長編としては、北方謙三さんの『水滸伝』(集英社文庫)や、宮本輝さんの『流転の海』(新潮文庫)などが好きです。

 1日のなかで数分、数十分でも本のなかの世界観に触れると、気分転換や頭の切り替えになります。今は在宅勤務が増え、「起きたらすぐ仕事」という生活パターンになりやすいからこそ、そうした時間が大事だと感じます。かくいう私も、以前は通勤時間に40〜50分ほど読書をしていましたが、今は在宅勤務になり、読書量が減ってきています。

 ビジネスパーソンの皆さん、もっと本を読みましょう! 自戒を込めて。

取材・文/三浦香代子 写真(人物)/洞澤佐智子 写真(本)/スタジオキャスパー