「冷戦期に旧ソ連でどんな議論が交わされていたかを知る意味が増しています」。東京大学先端科学技術研究センター専任講師の小泉悠さんは、ロシア専門家であるとともに、「軍事オタク」を自称する戦争研究者でもあります。その小泉さんに現代の戦争を理解するための本を挙げてもらいました。第1回は『死神の報復 レーガンとゴルバチョフの軍拡競争(上)(下)』です。このシリーズは4回連続で公開します。 2回目は5月16日 3回目は5月17日 4回目は5月18日 です。

綿密取材に基づく大著

 ロシアのウクライナ侵攻で、「ロシアが核兵器を限定使用するのでは」「生物兵器を使うかもしれない」「プーチンが死んだら自動報復システムが作動する」といった説が出ていますね。それが現実のものとなるのかどうか、今回紹介する 『死神の報復 レーガンとゴルバチョフの軍拡競争(上)(下)』 (デイヴィッド・E・ホフマン著/平賀秀明訳/白水社)が答えとなるかもしれません。

『死神の報復』(上巻400ページ、下巻456ページ)。元ワシントン・ポスト記者による調査報道の傑作。ピュリツァー賞受賞
『死神の報復』(上巻400ページ、下巻456ページ)。元ワシントン・ポスト記者による調査報道の傑作。ピュリツァー賞受賞
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 著者のホフマンは元ワシントン・ポストの記者でモスクワ支局長を務めた人物。米ソの冷戦時代について関係者への取材と膨大な資料をまとめあげたのが、この本です。1970年代以降の冷戦期について書かれた本はたくさんありますが、この本がユニークな点は核兵器と生物兵器に焦点を当て、交互に説明しながら進行していくところです。

 ホフマンの調査によって、ソ連崩壊後の旧ソ連の核や生物兵器の管理をどうするかが、非常に緊迫した状態だったと分かりました。

 今も「ロシアが生物兵器を使うのでは」と言われていますが、この本を読むとロシアが計画しそうなことが予測できます。

 また、この本にも少し書かれていますが、ロシアではかつて農業省が中心となり、穀物を攻撃し、病気を引き起こす生物兵器を製造していました(皮肉なことに「エコロジー計画」という名前です)。

「ロシアは生物兵器でウクライナの穀物を狙う可能性があります」と話す小泉悠さん
「ロシアは生物兵器でウクライナの穀物を狙う可能性があります」と話す小泉悠さん
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世界の食料価格に影響か

 今回のウクライナ侵攻を考えると、ウクライナは世界有数の穀物生産国で、穀物・植物油などがGDPの多くを占めています。私が思うに、ロシアは穀物を標的にした生物兵器を使用し、ウクライナが外貨を得られないようにするかもしれません。生物兵器を使用せずとも、ロシアの侵攻ですでに作付けができていないとも聞きますし、同じく穀物大国であるロシアは小麦の輸出規制をかけています。今後、世界の食料価格はかなり影響を受けるかもしれません。

 2011年に中東・北アフリカ地域で起きた民主化運動「アラブの春」も、穀物不足でパンの価格が上がったことに端を発しているので、今回の穀物不足が旧ソ連圏を中心にグローバルな影響を及ぼす可能性もあると思います。

今も存在する自動報復システム

 そして、さらに恐ろしいのが核兵器の使用です。冷戦が終わり、核抑止によって核戦争の恐怖はとっくに過ぎ去ったはずでした。しかし、今回のウクライナ侵攻でロシア軍は苦戦しています。侵攻作戦を仕切り直して東部に兵力を集中させましたが、それもうまくいっていない。そうなると核を限定使用して、無理やりにでも戦局を一変させるかもしれません。

 私も2019年に 『「核の忘却」の終わり 核兵器復権の時代』 (秋山信将・高橋杉雄編/勁草書房)という本を分担執筆しましたが、その2年前の2017年には北朝鮮がICBM(大陸間弾道ミサイル)を打ち、6回目の核実験にも成功しました。その翌年の2018年にはトランプ政権の下、アメリカの核戦力体制の見直しがあり、核抑止に焦点が当たった時期でもあります。『「核の忘却」の終わり』というタイトルは、そうした状況を反映したものでした。

現代における核戦争の危機を分析した『「核の忘却」の終わり』
現代における核戦争の危機を分析した『「核の忘却」の終わり』
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 つくづく思うのは、人間、似通った状況になると考えることは同じなんですね。この本にも出てきますが、冷戦時代にアメリカはいわゆる「スターウォーズ計画」で宇宙配備型のミサイル防衛システムをつくろうとします。対するソ連は巨大なICBMをつくり、多数の核弾頭を積み込もうとします。これはまさに今年4月、ロシアが初の発射実験に成功した「サルマト」です。

 結局、われわれがとうの昔に乗り越えたと思っていた核兵器の恐怖が、21世紀に戻ってきてしまった。何か非常に不気味なものが墓場からよみがえってしまったような感じがしますし、今回の戦争を理解する上でも、『死神の報復』を読むと、ものすごく現実味があります。

 ちなみに原書のタイトルは『The Dead Hand(死者の手)』。これはソ連にあるとされた自動報復システムのことです。どんなシステムなのか、なぜそんなものが導入されたかを知りたい人は、この本の下巻を読んでください。

「冷戦期に旧ソ連が何を考えていたかを知る意味が増しています」
「冷戦期に旧ソ連が何を考えていたかを知る意味が増しています」
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 今も、「体調不良説のあるプーチン大統領が亡くなったら、自動報復システムが発動するのでは」と言われています。確かにシステム自体は現存します。ただ、常に作動しているわけではなく、危機事態になり、「大統領とも参謀本部とも連絡が取れない」「地震計、放射線計、光センサーが同時に反応する」などある一定の条件を満たさないと作動しません。死してなお報復を行おうとする様子は、まさに「死神の報復」。邦訳版のタイトルも秀逸です。

 世界は冷戦期のパラノイア的な核兵器や自動報復システムを、きちんと葬ってこなかった。だから今の時代になって、また死神と向き合うことになってしまった。その教訓をかみしめる1冊とも言えます。

取材・文/三浦香代子 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝