「ドイツとの戦争に勝利した5月9日は、プーチン政権にとって重要な記念日です」。キヤノングローバル戦略研究所研究員の吉岡明子さんが選ぶ、「ロシア・ウクライナ情勢がよく分かる本」。1回目は『ファシズムとロシア』。2700万人が亡くなった対独戦勝利は国民統合の唯一の神話。ロシア側の論理を読み解きます。
ロシアはファシズムなのか
少し前、アメリカの歴史学者ティモシー・スナイダーが、著書『自由なき世界 フェイクデモクラシーと新たなファシズム(上)(下)』(池田年穂訳/慶応義塾大学出版会/2020年刊。原題『The Road to Unfreedom: Russia, Europe, America』2018年刊)において、「ロシアはファシズムに向かっている」と説いて話題になりました。イワン・イリインやアレクサンドル・ドゥーギンといったファシスト的な思想家に、プーチンは多大な影響を受けているというものです。同書に限らず、2014年にロシアがウクライナのクリミア半島を併合して以降、こうした見方は急速に増えたように思います。
一方、ファシズムというレッテル貼りにより、思考停止に陥る危険性を指摘するのが 『ファシズムとロシア』 (マルレーヌ・ラリュエル著/浜由樹子訳/東京堂出版。原題『IS RUSSIA FASCIST?』)。著者のマルレーヌ・ラリュエルはポスト・ソビエト空間における政治思想の専門家で、ユーラシア主義(ロシアはヨーロッパでもアジアでもなくユーラシアであるとする主張)やファシズム 研究の第一人者として知られています。
この本が訴えているのは、ロシアはファシズムではなく反リベラリズムとして捉えるべきということ。若者たちの言動やアンダーグラウンドな集会なども含め、ロシアの思想を一つ一つ検証しながら、確かにファシズム的な要素もあるが、それは常にロシアの中で傍流だったと結論づけています。
ロシアがウクライナに侵攻した今、ファシズムか反リベラリズムかの議論は空虚に響くかもしれません。それでも、本書第4章「記憶をめぐる戦争」の議論は重要です。プーチン大統領は侵攻の理由の一つとして「非ナチ化」を挙げていますが、これを読めば、それがロシアにとって何を意味するかが分かると思います。
神話になった「対独戦勝利の日」
プーチン政権は、5月9日の対独戦勝記念日を極めて重要な日と位置付けています。以前から国民的な記念日でしたが、プーチンが大統領に就任した2000年以降、いっそう神話化されて大々的なイベントが行われるようになりました。
先の独ソ戦(ロシアでは「大祖国戦争」と呼ばれている)で、当時のソ連国民は2700万人が犠牲になったともいわれています。およそ国民の7~8人に1人という、とてつもない数です。これほどの規模になると、家族の中で必ず誰かが亡くなっている感じでしょう。対独戦勝記念日には、その死を悼む意味も込められているので、多くの国民にとっても大変重要な日なのです。
この本では、その記念日を「国民を束ねることができる唯一の神話」と表現しています。逆にいえば、今のロシアにはこれ以外に国民を結び付ける“ストーリー”が存在しないのです。だからこそプーチンは、この日を国民統合の土台として最大限に活用しようとしているわけです。
この“ストーリー”を重視する以上、ロシアはナチスと戦って勝った反ファシストの国ということになります。そればかりか、ヨーロッパをナチスの脅威から解放した大国でもある。その結果として築かれたのが戦後のヤルタ体制で、これは西側から見れば冷戦構造の始まりですが、ロシアから見れば高い代償を払った末に獲得した、国際社会における正当なアクターとしての地位という認識なのです。プーチンにとってもロシア国民にとっても、これが否定されることはあり得ません。それはロシアという国家の唯一のアイデンティティーを失うことになるからです。
ところが2000年以降、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)やポーランドなどの中東欧諸国は、こうした歴史認識を否定するような動きを見せるようになります。彼らにしてみれば、第二次大戦後に西欧は自由と資本主義を享受して繁栄の道を歩めたのに、自分たちは共産主義体制に組み込まれて苦難の歴史を歩んだという思いがある。つまり、ナチスからソ連に引き渡された被害者であると認識しているわけです。彼らにとっては、ナチスもソ連も同列の脅威でしかなかったのです。
だからベルリンの壁が崩壊し、さらにソ連が解体されて混乱する中、これら中東欧諸国は次々とEU(欧州連合)、NATO(北大西洋条約機構)へと加盟。さらに、中東欧諸国にとどまらずEUまでもが、「第二次大戦の密約により、ナチスドイツとソ連がヨーロッパを分断した」という歴史認識を示し始めました。
当然、ロシアとしてはこれらの動きを看過できません。中東欧諸国のNATO加盟が軍事的に脅威であるだけではなく、国民統合の唯一の“ストーリー”を守るためにも、断固として対峙(たいじ)するしかない。だから中東欧各国を、歴史そのものをねじ曲げようとする「歴史修正主義」として批判するわけです。
ナチスとソ連を同一視する言動を禁止
さらに2021年、プーチン政権は国内でナチスドイツとソ連を同一視する言動を一切禁ずる法律を新たに制定しました。なぜそこまで厳しくするのか。その背景にあるのは、2000年以降に欧州とロシアの間で繰り広げられてきた、こうした第二次大戦の「記憶をめぐる戦い」なのです。
ウクライナへの侵攻に際して「非ナチ化」という大義を強調しているのも、その延長線上です。確かにウクライナは第二次大戦時、民族主義者ステパン・バンデラが台頭し、ソ連に対抗するためにナチスに協力した時期があります。また昨今では、ロシアへの反発の裏返しとして、そのバンデラを英雄視する動きもあります。
ロシア側は、その点を捉えてウクライナに「ネオナチ」のレッテルを貼ろうとしているわけです。見方を変えれば、80年前と同様に「ナチスと戦うロシア」をアピールすることで、“ストーリー”を守ろうとしているといえるかもしれません。「非ナチ化」にはそれだけの深い意味があるということを、この本から読み取れると思います。
なお、この本の日本語版が出たのは、ウクライナ侵攻が始まった直後で、タイミングとしては不運だったと思います。「ロシアはファシストではない」という言葉だけが独り歩きをして、場合によってはロシア側を擁護する本と捉えられるかもしれませんが、決してそうではありません。一読すれば、淡々とファクトを積み重ね、現状を冷静に分析しようという著者の矜持(きょうじ)と良心を感じることができるでしょう。
文・取材/島田栄昭 写真/木村輝