ロジカル思考やデータ分析を駆使し、ギチギチのスケジュールで頑張っているのに、何かがうまくいかない──そんなとき取り入れたいのが、山﨑晴太郎さんが提唱する「余白思考」です。著書『余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術』を基に、山﨑さんと「余白」について掘り下げます。今回は1回目。(聞き手は、「日経の本ラジオ」パーソナリティの尾上真也)
要素を削り、できた余白もデザインする
尾上真也・「日経の本ラジオ」パーソナリティ(以下、尾上) 今回から、『 余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術 』を取り上げます。ゲストは著者の山﨑晴太郎さん。山﨑さんはアートディレクター・アーティストで、株式会社セイタロウデザインの代表でいらっしゃいます。そのセイタロウデザインでは、どのような事業をされているのでしょうか。
山﨑晴太郎(以下、山﨑) デザインを使って企業やサービスのブランドをつくる仕事をメインにしています。具体的には、会社の理念からロゴや広告、テレビCMを制作するなど、デザインでできることをつなげながら、ブランドイメージをつくっています。

尾上 一方で、山﨑さん自身はアーティストとしても活動されているのですね。
山﨑 現代アートという領域で活動しています。基本的には海外で発表することが多くて、年に5回ほどのグループ展と、1、2回の個展を中心に作品を発表しています。
尾上 そのアートとデザインという言葉がサブタイトルに入っている本書のメインテーマとなるのが、ビジネスで大事にしている技術としての「余白」。山﨑さんにとって、余白とはどういうもので、どういう意味があるのでしょうか。
山﨑 「余白」はとても大切にしている概念で、僕のクリエーションに共通して存在している、一番大事な表現の軸みたいなものだと思っています。
尾上 余白というと周りにある空間みたいなものを想像するのですが、それが軸になっているというのは、どういうことなのでしょうか。
山﨑 ものづくりやデザイン、アートには、大きく分けて2つの方向性があると思っています。1つは要素を削っていって本当に大事なものを残す、ミニマリズムに通用するような表現の仕方。もう1つは、ポップカルチャーに代表されるような足していく表現で、ごちゃごちゃしていて、でもそこには秩序があるように見えるというものです。
僕の作風は、デザインもアートも削っていくタイプです。削っていくと要素が少なくなるので余白ができて、余白自体もデザインしないといい作品になりません。なので、余白と要素をどうやってデザインするか、つくり上げるかというのが表現の軸になっています。
尾上 余白もデザインしないと、単なるスペースになってしまうということでしょうか。
山﨑 そうですね。日本では、例えば神社の拝殿に行くと、その奥に何もなくても、何かの存在がそこにあると感じてお祈りをしますよね。一方海外では、そもそも余白という概念がないように思います。
というのも、余白そのものを表現する英語がなくて、ネガティブスペースやブランクスペースと翻訳されることが多い。何かが置いてあるところがポジティブスペースだとしたら、それがない場所はネガティブスペースと言ったり、ただ単に何もないとブランクスペースと言ったり。日本で我々が思っている余白に対する考え方とは、全然違うように思います。
余白を使って、もっと生きやすく
尾上 では、山﨑さんが本書『余白思考』を出されたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
山﨑 もう少しみんなが余白というものをうまく使えたらいいのに、と思うことが多かったのです。
そもそも僕はやりたいことが多い人間で、人と一緒に何かをするという感じで生きてこなかったので、フワフワしているように思われがちで。でも、デザインやアートでは人と同じことをするとパクりやまねと言われる場合もあるので、自分にしかできないもの、自分の中にある本質に向き合って作品をつくることが宿命なのです。そうすると、社会と足並みをそろえることがちょっと苦手と感じることも多いんですよ。
それは言い方を変えると、「気にしない力」みたいなものかもしれません。僕自身は、自分の周りに余白みたいな概念があって、それを通じて社会とコミュニケーションしていると感じていたんですね。そうすると、「何を言われても自分は自分だ」「自分なりの道を行こう」と思えるのです。
でも、ビジネスでいろいろな方とお話をしていると、生活や考え方に余白がないように感じます。タスクはどこまでも細分化され、スケジュールもギチギチで、タイムパフォーマンス重視の話になりがちで。余白があれば、もう少しおおらかに「まあ、いいか」と物事を許容できて、生きるのがすごく楽になり、自分が大事にしているものを優先できる。だから、みんなも余白を使えるようになれば、もっと生きやすくなると考えたのです。
尾上 なるほど。やはり多くの人に余白や余裕がないと感じますか。
山﨑 そうですね。僕が子どもを育てていても、宿題は何ページから何ページまで何分でとか、塾では何分で何をやるとか。そういう場面を見ていると、余白がないと感じますね。昔は、放課後の予定なんて何もなくて、友達の家へ遊びに行ったり、誰かがボールを持っていたら校庭でサッカーをしたり、余白の時間があったと思うのです。だけど今は、習い事があって、宿題があって…という感じで、子どもたちからも余白の時間がなくなっているような気がします。
尾上 まさに、大人だけでなく子どもたちの空間や時間にも余白や余裕がなくなっているということですね。
山﨑 社会全体に余白がなくなっていますよね。
尾上 ネットやSNSの空間は、いつも追い立てられている感じがします。
山﨑 情報が嵐のように迫ってきますよね。だからデジタルデトックスみたいな言葉が生まれるのだと思います。本能的に「余白がない」「やばい」とみんなが思い始めているけど、逆に社会全体が余白を怖がっている感じもあります。物事が細かくセグメントされて、曖昧さが許容されなくなっているというか。
例えば、昔はなかった病気が出てきて、以前は頭が痛くても寝てりゃ治るみたいな曖昧さがあるからこそ衝突しなかったことが世の中にはたくさんあったのに、境界線が明確にされて「この線から向こうはお前、こっちは俺」と、厳密になり過ぎてしまっている気もするんですよね。
尾上 過度にセグメントされることで、余計な壁もできてしまうわけですね。
山﨑 「隣人ガチャ」という言葉は、まさにそうだなと思います。昔は1軒分だったスペースを区分けして2軒、3軒と家が建ち、そうすると室外機やピアノの音がうるさいとか、問題が出始めるわけです。これはまさに生活と生活の間に余白がなくなったからだと思いますね。
ふんわり存在する余白を肯定しよう
山﨑 余白って、非言語の領域なんですよ。今は、すべて言語化してロジカルに説明しなきゃいけない空気があるけど、余白はふんわりと存在できて、何が入ってきてもなんとなくいいよね、というのが許される概念だと思うのです。
僕、映画はたいてい1人で見に行くんです。というのも、人と行くと見終わった後にすぐ感想を言わなきゃいけないでしょう。もうちょっと自分の余白の中でそしゃくしたいのに。最初は「なんかすごかった」くらいしか言えなくて、そのうちいろいろな概念が湧き上がってくるけど、そういう非言語領域を飛び越えていきなり感想戦みたいなことが始まるから、あまり人と行きたくないと思っているんです。
尾上 余韻がないですよね。余韻の「余」も余白の「余」ですし。
山﨑 そうですね。すぐに輪郭を欲しがるのは、不安だからかもしれません。非言語領域の余白が怖くて、相手はこの映画をどう思ったんだろうとか、一緒に行ってよかったのかなとか、答え合わせをして「私も同じ」みたいなことを早く言いたいんですよね。
尾上 なるほど。ふんわり存在する余白がイメージできた気がします。
山﨑 それを取り入れることで、“なんとなくの自分”をもっと肯定できると思います。自分の気持ちってそれほどロジカルにはできていないのに、ロジカルな部分しか人には伝えられなかったりしますよね。でも、ロジカルではない部分も肯定できる人生のほうが豊かになると思います。
尾上 人に伝えようと思うと、ロジカルな部分しか伝えられない、伝わらないというのは、確かにありますね。
山﨑 変な例えかもしれないですけど、付き合っている彼女や彼に「私の好きなところを20個言ってみて」と言われて、それに答えようとするとします。すると、20個考える時点で曖昧さが排除されて、「優しいところ」とか概念の頂点しか拾えなくなる。本当は、「なんか好きなんだよな」「なんか居心地がいいんだよな」という曖昧さに、相手のことを思う本質があると僕は思うんですけどね。
尾上 おっしゃる通りですね。そこが今、世の中から失われつつあるのかもしれません。
山﨑 僕も会社を経営していて、ロジカルで動くセクションも多くありますし、ロジカルを否定しているのではありません。ただ、やはりロジカルと同様に余白思考が必要だと思っています。
文/佐々木恵美 編集協力/山崎 綾