ヒヤリ・ハットが報告されない理由
「ハインリッヒの法則」をご存じでしょうか?
アメリカの損保会社の技師、ハインリッヒが発表したもので、1件の重大な事故の背後には29件の軽い事故があり、さらにその裏には300件もの「ヒヤリとした」「ハッとした」ような出来事が存在する、という説です。
ヒヤリとした、ハッとした……いわゆる「ヒヤリ・ハット」といわれる事象です。
たとえば、車の運転中に何かに気を取られてブレーキが遅くなる。刃物を使う作業であやうく手を切りそうになる。死亡事故に至らなかったとしても、こうしたちょっとしたミスというのは日常的に発生するものです。
重大な事故にまで至らないヒヤリ・ハットを未然に防ぐことは、事故の防止のために必須であり、多くの企業が「ヒヤリ・ハットはすぐ上司に報告するように」と指導しています。
しかし、現実には「現場からのヒヤリ・ハットの報告がなかなか上がってこない」という声をよく聞きます。
「ウチはヒヤリ・ハットを報告してきた従業員には何らかの評価を与えています」
「評価制度には『迅速な報告』の項目もあります。それがミスの類いであっても、です」
そういう組織もあるのですが、全然報告がありません。なぜか。
現場の社員にとって、「報告したところで、たいしたメリットを感じられない仕組み」になっているからです。もっといえば、「ヒヤリ・ハットを報告したら、叱責されるから」です。
デメリットのある行動は取らない
前回お話ししたように、「結果にメリットのある行動」を選択するというのが、人間の行動原理です。
そのため、適切なマネジメントを行わないと、人は自分にとって「すぐにメリットを得られる行動」(危険行動)を増やしていきます。
「ヒヤリ・ハットを迅速に報告した」という行動の直後に発生する結果が、「上司の叱責や注意」では、部下はその結果(ペナルティ)を回避するようになります。
「課長、こんなことがありまして……」
「えーっ? おいおい何をやっているんだ!」
これではヒヤリ・ハットの報告は部下にとって自首のようなもの。
そのため、危険なことがあっても「ヤバい、危なかった……でも、まあいいか」と自分だけ、あるいは当事者だけの胸の内に隠蔽(いんぺい)してしまう。
ここで必要なのが、報告という望ましい行動を習慣化させる「仕組み」です。
私が推奨する「組織行動セーフティマネジメント=BBS(Behavior Based Safety)」は、こうした習慣化のための仕組みづくりを推進するものです。
人間の「行動サイクル」から考える
あなたの部下の中には、ミスばかりしてしまう人がいるかもしれません。そうした彼ら彼女らが決められた行動を取ることができず、ミスをするのには理由があります。
それは、職場内に「ミスをするような行動に導くメカニズム」があるからです。
人が行動を起こすには、行動のための「条件」、つまり「なぜ行動をするのか」という理由があり、次に、その条件を満たすために「行動」し、行動の後には「結果」が生まれ、その結果が、また次の行動を促す(あるいは促さない)のです。
これが行動科学の基本である「ABCモデル」と呼ばれる概念です。
A(Antecedent)先行条件……行動を起こすきっかけ。行動する直前の環境
B(Behavior)行動……行為、発言、ふるまい
C(Consequence)結果……行動によってもたらされるもの。行動した直後の環境変化
たとえば、窓を閉め切って暑い部屋にいるときのことを想像してみてください。
「部屋が暑い」(A=先行条件)
「窓を開ける」(B=行動)
「涼しくなった」(C=結果)
では、「部屋が暑いときには窓を開ける」という行動を積み重ねるのは、なぜでしょうか。
影響を与えるのは、Cの「結果」です。窓を開けて「涼しくなった」という結果があれば、部屋が暑いとき(A)には、また窓を開けるという行動(B)を繰り返し、習慣とするでしょう。
では、結果が違ったものだったとしたら?
窓を開けても別に涼しくならなかったとしたら、もう窓を開けるという行動は起こさないはずです。エアコンをつけるなど、別の行動を選択するでしょう。
行動の結果、メリットがある、もしくはデメリットを避けられる行動は繰り返し、メリットがない、もしくはデメリットがある行動は繰り返さない。これが人間の行動原理です。
「条件」→「行動」→「結果」→「条件」……こうしたサイクルのもとで、人間は行動を積み重ねるのです。
メリットがあれば習慣化する
このサイクルを、ビジネスの現場に当てはめてみましょう。たとえば、上司からこんなことをいわれたとします。
「わからないことがあったら、必ずそのつどなんでも質問するように」
部下はその言葉を受け、簡単な事柄について上司に質問しました。
この行動の「結果」として、次の2つのケースを想定してみてください。
結果A:上司が忙しかったので「そのくらいは自分で考えてやってみろ」と叱られた。
結果B:簡単な質問だったにもかかわらず「よく質問してくれたね」と評価された。
さて、その後「わからないことがあった」場合、「そのつど質問する」という行動を繰り返すのは、どちらのケースでしょうか?
もちろん、Bですね。
なぜなら、行動の結果が「上司から評価される」という、自分にとってメリットのあるものだったからです。
先ほどの「ヒヤリ・ハットを報告すれば評価する」という話を思い出してください。
「ヒヤリ・ハットはすぐ報告するように」という指示にしたがって報告という行動を取った結果、評価どころか、「何をやっているんだ!」と怒られる。これでは、報告がなかなか上がってこない=行動が習慣化されないのも当然です。
「行動の結果がデメリットのあるものならば、行動は繰り返されない」
単純なことですが、この原理を理解できていない上司が多いのです。

カギは「ポジティブ」「すぐに」「確か」
「メリットのある結果」について、もう少し説明しましょう。
行動科学マネジメントでは、行動の「結果」を、「タイプ」「タイミング」「可能性」の3つの組み合わせで考えています。
【タイミング】すぐ(Sugu)に生じる結果か?後(Ato)で生じる結果か?
【可能性】確か(Tashika)な結果か?不確実(Fukakujitsu)な結果か?
この組み合わせのうち、もっとも行動が繰り返し発生しやすいのが、「PST」、つまり、「ポジティブな結果が、すぐに、確実に」出るという場合です。
「ヒヤリ・ハットを報告したら、怒られずに感謝された(P)」「しかもその場ですぐに(S)」「もちろん毎回必ず(T)」……という図式ですね。
「特別賞与」は行動への影響が低い
逆に、行動が繰り返し発生しづらい「結果」は、「PAF」(ポジティブ・後で・不確実)と「NAF」(ネガティブ・後で・不確実)の組み合わせのもの。即時性も確実性もないものは、ポジティブ、ネガティブに関係なく、行動の継続、習慣化の効果が薄いのです。
「ミスの報告は評価基準とする」と宣言してもなかなか報告が上がってこない。
これも、「ミスの報告」という行動の「結果」として、「評価の対象となる」こと自体が、ポジティブではあるけれど、評価されるのは年度末、しかも不確実ということならば、「PAF」の組み合わせとなります。
同様に「ミスをしなかったら特別賞与」といった特典も、実は行動を繰り返すためのメリットにはなりづらいのです。
即時性と確実性を持つ。つまり、結果が「すぐに」「確かに」現れるものでなければ、行動への影響は小さい、というわけです。
「ヒヤリ・ハットが上がってこない」という職場では、「ポジティブな結果が、すぐに、確実に」出る仕組みとなっているかの見直しが課題となります。
[日経ビジネス電子版 2022年3月8日付の記事を転載]
シリーズ累計40万部超のロングセラー『教える技術』の著者で、行動科学マネジメントの第一人者が、職場からミスを無くす科学的方法論を豊富な事例と共に解説。
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