「本がきっかけで、『人間とは何か』を探る“読書の旅”を始めた」為末大さん。その旅のなかで出合ったのが、人間の脳の不思議さに迫る1冊。脳がどのように人間の体を認識しているのか。「ありのまま」とはどういうことか。為末さんの解説とともに、脳と認知について考えます。
脳が認識しているのは、本当に「ありのままの現実」なのか?
1回目で紹介した『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』(下條信輔著/中央公論新社)を読んだのをきっかけに、この15~20年ほど、心理や脳に関する本を芋づる式に読んでいます。
この 『脳のなかの幽霊』(V・S・ラマチャンドラン著、サンドラ・ブレイクスリー著/山下篤子訳/角川文庫) もその1つ。世界的な神経科学者と幻肢(生まれつきや事故、病気が原因で四肢の一部を失った人が、ない四肢があるかのように感じる錯覚)の専門家が、謎多き脳の世界に迫る内容です。
僕はこの本を読みながら、「自分が見ているこの世界は、本当はいったい何なのか?」と不思議でたまらなくなりました。この本は多くの人にとって、世の中に対して好奇心を持って見るきっかけになると思います。
事例として、切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を他人のものだと主張する人、交通事故後に両親を本物と認められなくなって偽者だと主張する青年など、さまざまな患者さんが挙げられています。
その、交通事故後に両親を偽者と主張するようになった青年は、別に、親の存在を認識できなくなったわけではありません。電話で話せば、確かに自分の親だと認められる。もちろん、目が見えなくなったわけでもなく、視覚的な認知能力にも問題はなかったそうです。
だから両親を見て、その存在を認識することはできるのですが、「その2人が自分の親だ」という感覚や、多くの人が親に対して感じる「親しみ」は湧いてこない。だからその2人を、「親に似た誰か」だと判断してしまうのだといいます。事故によって、目で見た情報から正しく認識するためのプロセスの一部が壊れてしまったのです。
脳による勝手な「編集作業」
仏教には、「如実知見(にょじつちけん)」という言葉があります。「如実知見」とは、「現実をありのままに見る」こと。ありのままに見ることの大切さを伝える言葉です。
でも、現実にはそもそも、「目に映ったものをありのままに見る」ことは不可能です。僕たちの脳は、目に映った情報を自動的に整理して、整理したものを意識に上げて本人に認識させる、というプロセスを自動で行っています。
目に映ったもの → 脳の編集 → 意識というルートをたどり、目と意識はダイレクトにつながっていない。つまり、物事を「ありのままに」見ているわけではありません。これは幻肢の患者に限らず、みんな同じです。
「目に映ったものをありのままに見ている」というのは思い込みであって、現実には誰もが、自分の脳が自動編集したものを見ているにすぎないんだ。「これが、この本の一番強いメッセージではないかと思います」
この本のタイトルにある「幽霊」は、その自動編集する存在のことです。
幽霊とは言い得て妙で、脳の世界は現代科学をもってしても解明されていないことがたくさんあります。つまり僕たちは、詳しく分かっていない脳による、どういうメカニズムか分からない自動的な編集がなされた世界を現実として解釈しているというのです。言い方を変えれば、脳が勝手に編集した世界を現実だと思っているわけです。
その点をすごく面白く感じながら、読み進めることができました。最後まで読み終えたとき、目線を上げて映る世界に、脳はどんな編集を加えて見させているのだろう、と自問せずにはいられませんでした。
私の「幽霊」、あなたの「幽霊」
自分が確かなものとして捉えているこの世界は、確かではないのか。
隣の人は、どんな世界を脳の「幽霊」に見させられているのだろうか。
誰かと話していて、同じものを見ている前提で話していても、実は同じものを見ているとは言えないんですよね。人それぞれの脳の中の「幽霊」が、勝手に編集した別のものを見ているわけですから。
そうと知らずに、同じものを見ている前提で話していて、なぜか会話が成立する、と。とても不思議なんだけど、それが僕たちのしているコミュニケーションというものだと思います。
ただ、「幽霊」は人の脳の数だけ存在しますが、その「幽霊」同士がそれなりにつながっていて、全人類に共通するストーリーを持っているのではないか、というのが、かの有名な心理学者のユングが提唱した「集合的無意識(普遍的無意識)」でしょう。かたや、全人類に共通するストーリーはなく、人種や文化、地域、集団ごとにぶつ切りのストーリーがあるだけだ、という説を唱える専門家もいます。
僕自身は、両方ある気がします。全人類に共通するストーリーもあれば、人種や文化ごとにぶつ切りのストーリーも。
読みたい本が増えてしまうわけ
そういうことを調べていったら、このかいわいの専門家のなかには「人間機械論」なる説を提唱する人たちが結構いることを知りました。文字通り、「人間は機械である」という説です。
AI(人工知能)は、人間の知性を理解するプロセスで生まれました。一段と飛躍した説に思うかもしれませんが、仮に理解でき実現できるなら、人間自体が一種の機械であると考えることもできます。手足を動かすのも、何かを見て感動するのも、脳から電気信号が発せられた結果ですからね。
一方で、「知性は機能ごとに分かれているのではなく分けることができない統合された中にある。だから機械的にはなり得ない」という意見もあります。というふうに、僕の心理や脳に対する好奇心は続き、読みたい本が増えていくのです。
取材・文/茅島奈緒深 構成/宮本沙織(日経BP 第1編集部) 写真/尾関祐治