「土地は四角形」というのは当たり前と思うかもしれない。しかし、世界では帯状やひも状、三角形などの土地がざらにある。日本に方形や碁盤目状の土地が多いのは、8世紀に確立した土地制度や、平たんな水田中心の土地利用の影響がある。歴史地理学の第一人者、金田章裕(きんだあきひろ)・京都大学名誉教授に『なぜ、日本には碁盤目の土地が多いのか』(日経プレミアシリーズ)執筆の動機や研究事情を聞いた。
もともと歴史と地理は1つだった
私は歴史地理学の入門書として、『 地形と日本人 私たちはどこに暮らしてきたか 』『 地形で読む日本 都・城・町は、なぜそこにできたのか 』、そして『 なぜ、日本には碁盤目の土地が多いのか 』(いずれも日経プレミアシリーズ)を執筆してきました。
まず、歴史地理学とはどういうものかをお話ししましょう。一言でいうと、「歴史は時間」「地理は空間」についての学問です。しかし、古代中国や、西洋でも紀元前5世紀のヘロドトスの時代以降、歴史と地理はずっと一体でした。ところが、ヨーロッパで近代科学が確立される18世紀になると、「方法論によって分野を分ける」という考え方が広まり、別々の学問になりました。
ただ、「地形と人間との関わり」「人はどのように土地を分割してきたのか」といった問題を考えるとき、歴史的な視点は欠かせません。つまり、空間軸と時間軸の両方から物事を捉えるのが歴史地理学なのです。地理学だけでも大変、歴史学だけでも大変なのに、その両方をやろうという無謀な学問でもあります(笑)。
ところで、「日本の土地はなぜ四角形や碁盤目が多いのか」と、疑問に感じたことはありませんか。奈良の平城京や京都の平安京は碁盤目状に街路が区画され、水田地帯も多くが碁盤目です。
私は大学生のときからこの謎を解き明かしたいと思い、研究に取り組んできました。いわば自分にとっての研究の出発点ともいえます。
世界には帯状やひも状の土地区画がある
日本に碁盤目状の土地が多い理由として、まず考えられるのは「条里制」と呼ばれてきた土地制度です。7世紀後半に始まった「班田収授制」によって、土地を区画するために導入されたと考えられてきました。
その後、723年には「三世一身法」が成立し、3世代にわたって墾田の保有が認められました。さらに20年後の743年には「墾田永年私財法」が成立し、農民が自分で開墾した土地は私財として永久に保有できることになりました。
個人の所有地が口分田(6歳以上の男女・身分ごとに面積を決めて分け与えられた田んぼ)などと重なってしまうとトラブルになりますから、より正確に土地の場所や面積を記載する必要があります。そのため、1町四方の区画を「坪」(奈良時代は「坊」)、坪を縦・横に6個ずつ並べると「里」、里の列を「条」という条里プランが8世紀中ごろには確立していました。
土地を正方形の碁盤目に区切り、民衆に与える──という地割は、実は世界では当たり前ではありません。古代ローマでは退役軍人に碁盤目の土地を譲渡し、入植させる「ケンチュリア」という土地計画がありました。しかし、これは広大なローマ帝国の一部分でのことであり、定着しませんでした。中国の西安北東部の集落の農地は帯状ですし、西ヨーロッパでは三圃(ぽ)制農業を行うために長大なひも状の農地が見られます。
米国では西部開拓時代、先住民との戦争に参加した退役軍人に土地を分け与える「タウンシップ」という制度が成立しました。当初、タウンシップの土地は不整形でしたが、後に第3代米国大統領となるトマス・ジェファソンが土地を正方形に区画する「ハンドレッド」という土地区画案を構想しました。これを基礎に、1785年にはセクションとタウンシップという土地区画が実施されました。これにはさらに修正が加えられ、現在、多くの州で碁盤目の土地制度が展開しています。州の境界線に直線が多いのも、ジェファソンの案を基礎としたものです。
ただ、米国のタウンシップは畑中心の入植地を決めるためのもので、日本の碁盤目はもともと水田の位置や面積を記録するためのものです。その成り立ちからして、規模や土地利用が異なります。
日本の水田にも棚田など不整形なものがありましたが、時間がたつにつれ整形される例が増えてきました。水田は湛水の必要があるので、土地を平たんにしていかなければなりません。そのうえで近年、農機を使いやすくするため、地形に沿って作られていた棚田を統合し、碁盤目状や方形にする整備が進んでいきました。
また、平地が少ない日本では、宅地を作るにしても狭い土地を最大限に利用しなくてはなりません。そのため、傾斜地を平たんにならし、なるべく広く面積を取ろうとします。一方、土地に余裕のある国々では、傾斜地をそのまま生かすのが普通です。例えばオーストラリアのパースにあるデパートは、1階の入り口から入り、反対側の出口から出ようとすると、1階分、階段を上る必要があります。
条里制は100年以上続く研究テーマ
碁盤目状の土地ができるきっかけとなった「条里プラン」は、8世紀中ごろに確立しました。明治時代に帝国大学(現・東京大学)で教授を務めた堀田璋左右先生が、「条里制」とは何かを定義しました。1つ目は、民衆に土地を分け与え、税を取る班田収授。2つ目は、碁盤目の地割を行うこと。3つ目は、碁盤目の土地を表現するために何条、何里、何坪という土地を表現する「条里呼称法」。この3つが一緒に存在する状況を「条里制」と定義しました。私はこのうち、条里地割と条里呼称法の2つの要素を条里プランと表現しています。
現在も条里プランの研究は続いており、古代遺跡の発掘調査をしたり、GPSを使って地図の計測をしたりする研究者もいます。GPS機能の発達は目覚ましいですから、実際の「条」・「里」や「坪」の位置や大きさがどれほどのものであったのかが正確に分かるのです。
40年ほど前から「条里制・古代都市研究会」という学会があり、地理学、歴史学、考古学の研究者が参加し、研究を進めています。考古学の研究者から「発掘調査で古代の水田が出てきた」と連絡があれば、私も現地に向かいますし、いろいろな研究者が協力することも多くあります。
もしかしたら、碁盤目の土地は、正方形や平たんを好む日本人のきちょうめんさが関係しているのかもしれません。条里プランはまだまだ謎も多いのですが、「なぜ、日本には碁盤目の土地が多いのか」の疑問に答える研究を続けていきたいと思っています。
取材・文/三浦香代子 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/木村輝
『 なぜ、日本には碁盤目の土地が多いのか 』
「見慣れた形」を捉え直す。世界には様々なタイプの土地区画がある中で、日本の碁盤目志向は際立つ。条里制や地形条件、新田開発、圃場整備などの要因から考察。好評の歴史地理学第3弾!
金田章裕著/日本経済新聞出版/990円(税込み)