2021年10月、半導体を受託生産するファウンドリーの世界最大手、台湾積体電路製造(TSMC)は、日本に初めて工場を建設すると発表した。その裏では、日本政府と同社の2年近くにわたる厳しい交渉があった。
 日本政府がTSMCの誘致にこだわった理由は何か。世界政治を左右する戦略物資となった半導体を巡って各国が激しく争う最前線を、30年以上にわたって国際報道に携わってきた太田泰彦氏(日本経済新聞編集委員)の著書、『2030 半導体の地政学 戦略物資を支配するのは誰か』(日本経済新聞出版)から一部を抜粋、再編集して解説する(敬称略、肩書は執筆当時のもの)。

総額1兆円の投資 2年近くにわたった厳しい交渉

 2021年10月14日、台北――。TSMCが日本で初となる工場を建設すると発表した。2022年に着工し、2024年末に量産に入る。米国アリゾナ工場とほぼ同着。この日の夜に記者会見した岸田文雄首相は「経済安全保障に大きく寄与することが期待される」と歓迎し、総額1兆円に及ぶTSMCの投資を政府として支援する方針を表明した。

台湾のTSMCは日本初となる工場を2022年に着工する(写真:Vidpen/shutterstock.com)
台湾のTSMCは日本初となる工場を2022年に着工する(写真:Vidpen/shutterstock.com)

 このTSMCの決定に至るまで、日本政府と同社は2年近くにわたり、水面下で厳しい交渉を続けていた。

 「まだあきらめてはいません。決して無理やり引っ張ってくるのではありません。日本に来るメリットがあることを理解してもらえるよう、頑張って交渉しているところです」

 2020年6月、経済産業省の幹部はこう告白した。TSMCに日本への工場進出を働きかけ、同社にいったんは保留を告げられた後のことである。これより先の5月に、トランプ政権と台湾当局はTSMCのアリゾナへの誘致計画を明らかにしている。日本は誘致競争で米国の後塵(こうじん)を拝していた。

 「アリゾナにどのレベルの技術を持っていくか。TSMCはジレンマに陥り、今、必死に考えているはずです。米政府に要求されれば、出ていかないわけにはいかない。けれども最先端の技術を渡せば、台湾の工場の競争力が落ちてしまう……」

 アリゾナ工場が動き出すのは2024年である。計画ではTSMCが既に量産を軌道に乗せている5ナノの技術で生産する。だが、同社は5月にさらに微細な3ナノの生産にも入り、その先の2ナノにもめどをつけている。いずれも台湾国内の工場での生産だ。稼働する頃にはアリゾナ工場の技術は最先端ではなくなり、ありふれたチップを作る場所になっているかもしれない。

 そこに経産省の淡い期待があった。誘致競争では米国に先を越されたが、より高度な技術を日本に移転してもらえれば、日本の方が地政学的に有利になる可能性はゼロではない。何よりも、最先端の技術を日本の国内に持つことが大事だった。米国は日本の同盟国だが、TSMC誘致ではライバルだった。

 日本の安全保障のためにTSMCの技術を手に入れたい。そのために政府として何をすればいいのか……。

ソニーとTSMCの工場が近接している重要な意味

 2021年5月31日――。経産省はTSMCが日本で国内の半導体材料や製造装置メーカーと共同で行う先端半導体の研究開発を支援すると発表した。先に発表したのがTSMC自身ではなく経産省であったことが、同省の意気込みを物語っている。

 これに先立ち、TSMCは3月に「TSMCジャパン3DIC研究開発センター」の設立も決めている。茨城県つくば市の産業技術総合研究所に検証ラインを設置し、政府の助成を受けて3次元(3D)技術の研究に取り組むという。

 既に2019年には、東京大学教授の黒田忠広が率いる東大-TSMC連合のプロジェクトが動き始めている。日本での生産はともかく、時間軸が長い研究開発の領域では日本とTSMCの絆は弱くない。日本には次世代の製品の研究拠点としての魅力がある。

 「石油が出ないことが、地政学的な日本の立場を決定的に弱くしてきました。戦略物資である半導体を生産するファウンドリーは、現代の油井です。最先端の技術を追いかけても、日本企業が育つには100年かかるでしょう。足りないものは外国からインプラント(移植)するしかない。TSMCの工場を国内に置くことが、日本にとり死活的に重要だと考えています」

 2021年6月、突貫工事で「半導体戦略」を3カ月でまとめたという経産省の幹部は、誘致にかける意気込みをこう語った。半導体産業を復活させるために、外国企業の力を借りなければならないのが、今の日本の現実である。しかも、かつて半導体王国だった日本に攻め込んで打ち負かした台湾に、日本の方から頭を下げて頼まなくてはならない。歴史は冷酷である。

 粘り強い交渉の成果が実り、TSMCは2021年10月14日に熊本に工場を建設する方針を発表した。総投資額は約70億米ドル(約8,000億円)で、ソニーも約5億米ドル(約570億円)を出資する。2024年末までに量産を始める予定だ。

 そのソニーは「CMOSイメージセンサー」と呼ばれる半導体チップで、世界シェアの50%以上を握る。代表的な用途はスマホのカメラで、全体の売上高の8割を占めている。これからはEV向けの需要も増えるだろう。

 ソニーが採用しているのは、画像を取り込むチップと信号を処理するチップを貼り合わせる2階建ての構造だ。このうち画像を担当する部分は自社で製造しているが、信号処理の部分は外注している。TSMCの工場が近接していれば、独自技術を日本国内で守りながら効率よく生産できるはずだ。何よりも世界市場をほぼ独占するソニーの画像センサーの技術を持つことが、日本の国家安全保障を高める決定的な要素になるだろう。

 台湾だけでなく、隠れた半導体サプライチェーンのチョークポイント(急所)が、熊本にあった。是が非でもTSMCに来てもらいたい理由が、ここにある。

政府が強力に支援する戦略物資に

 TSMCの工場の建設費をどこまで日本政府が補助するか。半分を政府が負担するとすれば、4,000~5,000億円の予算が必要になる。財政負担は軽くはない。基本合意に達した後も、負担の割合を巡りTSMCとの条件交渉がぎりぎりまで続いた。

 経産省は、TSMCが償却後の利益を再投資に回す際に、日本での生産力の増強に振り向けることも期待している。次々とタケノコが生えて竹林になるように工場が増えていけば、ファウンドリーを核とするエコシステムを国内に築くことができるかもしれない。

 2021年6月18日――。政府は菅義偉政権で初めてとなる「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」と「成長戦略」を閣議決定した。デジタル化や脱炭素など4分野に重点を置き、半導体を戦略物資と位置づけた。サプライチェーンの強化に集中投資する政府の方針が明確になった。成長戦略には、経済安全保障の観点から半導体の製造拠点を誘致する目標を盛り込み、米国や台湾の有力メーカーと日本企業の連携を後押しする方向も決まった。

 10月4日に首相に就任した岸田文雄は、新内閣に経済安全保障を担当する大臣ポストを新設し、自民党前幹事長の甘利明を実務面で支えてきた小林鷹之を指名した。小林は、地政学の観点から、半導体サプライチェーン強化策を指揮することになる。

 岸田が自民党総裁選で公約として掲げた「経済安全保障推進法」は、2022年の通常国会に提出される見通しだ。TSMCが日本への工場進出を発表した10月14日、岸田は「総額1兆円規模の大型民間投資などへの支援についても経済対策に盛り込んでいく」とも明言した。

岸田文雄首相はTSMC日本進出への支援を明言した(写真:Naresh111/shutterstock.com)
岸田文雄首相はTSMC日本進出への支援を明言した(写真:Naresh111/shutterstock.com)

 大型予算を組む土台は築かれた。首相がTSMCに政府助成の手形も切った。台湾との交渉と並行し、政官界で攻勢をかけた経産省のもう一つの成果だった。


日経ビジネス電子版 2021年12月13日付の記事を転載]


技術覇権を巡る壮大なゲーム
日本の半導体に未来はあるか

 米中対立の激化に伴い、戦略物資として価値がますます高まる半導体。政府が経済を管理する国家安全保障の論理と、市場競争に基づくグローバル企業の自由経済の論理が相克し、半導体を巡る国際情勢はますます不透明になっている。

 激変する世界の中で日本に再びチャンスは訪れるのか。30年以上にわたって国際報道に携わってきた日本経済新聞の記者が、技術覇権を巡る国家間のゲームを地政学的な視点で読み解き、日本の半導体の将来を展望。

太田泰彦(著) 日本経済新聞出版 1980円(税込み)