日本のエンタメ史に輝く伝説のヒット作はいかにして生まれたのか。エンタメ社会学者の中山淳雄氏がテレビ、マンガ、ゲーム、音楽などのプロデューサーたちにインタビューした最新刊 『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』 から一部を抜粋する。第1回は『電波少年』を作った「狂気のテレビP」土屋敏男氏。
中山:自己紹介をお願いします。
土屋:土屋敏男と申します。1979年に日本テレビに入社してから半分は番組制作、もう半分はそれ以外の制作の畑におりまして、現在は社長室R&Dラボでスーパーバイザーをやっております。44年間、何かしら作ってきました。再々雇用で現在までいましたが、今年(2022年)でそろそろ退職しようかなと思っているところです。
いかに毎回違うことをやるか、しか考えなかった
中山:やはり土屋さんといえば『電波少年』ですよね。当時あまりに衝撃の番組でした。視聴率はどのくらい伸びていったのでしょうか?
土屋:右肩上がりでしたね。最初は「アポなし」から始まって、ヒッチハイク、懸賞生活などコンテンツをどんどん変えていって、1993年から98年までずっと上がり続けて、ピークは視聴率30%までいきました。その年の平均視聴率は25%を超えていた。そのあとは下がり始めましたが、常に新しいことを仕掛けて、走り切った感じです。
中山:土屋さんの番組は私も中学高校時代にテレビにかじりついてみていました。とても個性的な番組でしたが、こういった企画には、どなたかメンターやベンチマークをしているプロデューサーなどがいらっしゃったのでしょうか?
土屋:いえ、特に他をみていた感じではないです。いかに毎回違うことをやるか、いかに過去の自分を超えるかしか考えてこなかったですね。
中山:あれだけ多くのアイデアは誰が出すんですか?
土屋:基本自分ですね。放送作家やディレクターが毎週ネタを出しますが、決めるのは自分1人です。もちろんボールの打ち返しとかディスカッションはしていて、放送作家などといろいろ話しながら進めますが、決めるときに多数決などはしません。100%自分。そこは大事なところです。
入社から13年間はダメダメだった
中山:『電波少年』を撮るまでの、最初の13年間はどんな感じだったんでしょうか?
土屋:ダメダメでしたね。フジテレビを意識しすぎて『ガムシャラ十勇士!!』とか『恋々!!ときめき倶楽部』とかパクリ企画ばかりをやって、ゴールデンタイムなのに視聴率1.4%という散々な結果で、2年間編成に飛ばされてました。だから暇だったというのが逆に『電波少年』に結びついた背景でもあります。
中山:若い頃に何か特別な才能を発揮していたとか……。
土屋:ないない(笑)。若い時にイケてる奴のほうが逆にダメになりませんか? おとなしくても、虎視眈々と上司の背中をみて、盗んでいる奴が伸びるんです。
権威になり始めたテレビのアンチテーゼ
中山:編成から制作に戻って「暇だった」土屋さんに声がかかって、『進め! 電波少年』が始まるわけですよね。
土屋:実はあれは『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』の枠だったんですが、ここでもフジテレビが絡んでいて、『七人のオタク』の映画撮影があるから3カ月だけ映画に集中させてくれって内村・南原の事務所が言ってきたんですよ。「こっちはレギュラーだよ!?」というのがありましたが、その無茶が通るくらい当時のフジは強かったんですよね。
それで1992年の7~9月がぽっかり空いてしまった。「どうする?」となって、ちょうど暇をしていた僕に「土屋、何かやれないか」と言う話が来たのが5月末です。
中山:え!? ほぼ1カ月で新しい企画って、ありえないスケジュールですね。
土屋:それもタレントは渡辺プロダクション(当時)の松本明子と、太田プロの松村邦洋という、全く無名の2人だけのアサインが決まっていました。僕も編成に異動させられる前の企画の失敗もあるし、逆に吹っ切れましたね。もう時間もないし、「誰も見たことがないことをやろう」と。行きたいところに行く、見たいものを見る、諦めない、その3つだけを決めて進めたんです。
ドタキャンされ、突撃したら成功し、アポなし番組に
中山:最初はどんな企画から始まったんですか?
土屋:どんな人に会いたいかって話をしてたら、あっこ(松本明子)が「浜松町からモノレールに乗っていくときに、見たこともない大きい人がいた。あの人に会いたい」と言うので、調べたら住友金属のバスケットボール選手の岡山恭崇さんだったんです。それでアポイント取ったら、番組の悪い噂でも聞いたのか、前日になって「やっぱりダメです」とドタキャンされたんです。
中山:えー、一発目からずいぶん幸先が悪い。どうしたんですか?
土屋:でも、「デカい人なんだろ? 会社の前で張ってたらわかるんじゃない?」ということで、当時仕事もなかったあっこは、そのまま会社の前で1日中張ってたんです。会社に電話したら直帰しちゃうかも、ああ、これは放送できないかも、と皆で意気消沈していたところ、夕方になって通りの向こうからやたらデカい人が近づいてきた。あ、岡山さんだ!とそのままあっこが突撃して「すみません、高い高いしてもらえますか?」。
中山:起死回生みたいな話ですね。なるほど、結果的にアポなしになったんですね。
土屋:それで「これが世界一の高い高いだ」と番組にも落ちがついたところで、岡山さんを見送ったら、隣を見るとあっこがボロボロ泣いているんですよ。初めて自分がメインの番組で失敗するかもという相当なプレッシャーがかかっていたんですね。
これだ!これが誰も見たことのないテレビだ!と。普通にアポをとってたらこんな感動には結びつかなかった。そこからアポなしというコンセプトの番組になりました。
3カ月で終わりの予定だったが……
中山:最初はどのくらい反応があったのでしょうか?
土屋:そこまで大きなものではなかったですね。1カ月くらいでいろいろハガキが届き始めてちょっとずつ騒がれ始める程度でした。3カ月たって予定通りに終了になるかなと思ってたんですが、今でも忘れられないですね。
9月いっぱいで終わるのかな~と8月末の雨の日のタクシー乗り場で待ってたら、ちょうど制作センター長が居合わせて。「『電波少年』いいよな。うちの息子に、今テレビ番組で何が面白いって聞いたら、『電波少年』がダントツで面白いって。驚いたよ。今のうちにそんなのないから、もうちょっと続けるわ」って言ってくれて。センター長は息子から「日テレはつまらない」ってずっと言われていたみたいなんですよね。センター長の息子のお陰で、『電波少年』は続いたんですよ。
1956年生まれ、一橋大学を卒業し、1979年に日本テレビ放送網入社。バラエティー番組の制作に携わるが結果が出せず編成に異動。しかし制作に戻った直後の1992年から手掛けた『電波少年』シリーズは、アポなし、ヒッチハイク、懸賞生活など画期的な企画の連発で、平均視聴率25%という大ヒット番組となり、当時、年間視聴率トップだったフジテレビの追い上げを牽引した(1994年に逆転)。ダウンタウン松本人志の「付き人」のようにフジテレビに出入りをしていたなど、数々の逸話も残している。『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』、間寛平の地球一周プロジェクト『アースマラソン』なども手掛ける。2001年からは番組演出を手掛けながらの編成部長・コンテンツ事業推進部長を経て2006年にインターネット配信の第2日本テレビを推進。2022年に日テレを退社し、Gontentsを設立。WOWOWなど複数社のアドバイザーをしながら、VR技術を使った新しい映像演出に取り組んでいる。
青山ブックセンターで夜中の2時に思いついた
中山:猿岩石のヒッチハイクもすごく印象的でした。アポなしからヒッチハイクにフェーズが移ります。
土屋:アポなしをやっているうちにインターナショナルを作り始めて、その中でキャイ~ンのドイツ・オランダ国境ダジャレヒッチハイクがあって、ヒッチハイクって面白いなと。それでヒッチハイクとドラマをくっつけたらどうだろうと。ドラマのいいところって最終回は必ず数字が上がる。なぜならそれはゴールがあるからだ、と。
そのときにちょうど青山ブックセンターで『深夜特急』が文庫化されて並んでいたのを見たんですよ。午前2時に。これだ!と。香港からロンドンまでヒッチハイクしたら面白いんじゃないかというので、あの企画に至ります。
強烈にこれは面白いという人間が1人でもいれば企画は成り立つ
中山:出演した猿岩石は、どうやって選んだんですか?
土屋:普通のタレントは無理ですよね。何カ月かかるかもわからないし。無名でガッツがあるやつというのでオーディションをやっていたときに、猿岩石の2人が広島から東京にきたときに野宿したという話をしていた。野宿できるのか、これはいい、と選びました。
中山:東京の野宿と香港-ロンドンのヒッチハイクじゃエライ違いですよ(笑)。でもそのくらい、わけわからない感じで進むんですね。
土屋:誰もわからないですよ。思いついた時に絵にもなってない。それがいけるかどうかなんて誰もわからない。当たったから「ヒッチハイクはいい」ってなってますけど、最初は「ヒッチハイクなんていいから、松村にアポなしをやらせろ、何つまらないものやってるんだ」と非難轟轟だった。
『イカゲーム』だって、いろんな局にはねられまくって、最後にネットフリックスが拾った企画です。100人のうち1人でもいい、強烈にこれは面白いという人間がいてくれれば企画は成り立つんです。逆に会議室で全員が賛成するような企画で当たったものなんて1つも見たことないですよ。
中山:土屋さんの師として「テリー伊藤さん」と「欽ちゃん」の名が挙がります。そのお2人は何が飛びぬけていたんですか?
土屋:2人はタイプが違うからなあ……。でも明確に共通している点はあります。「狂気」です。作る人間としての狂気はホント2人とも飛び抜けてますよ。そして僕の場合、2人の師がいたことも大きいと思ってます。1人だけだと、その人の劣化コピーにしかならないんですよ。それぞれからいいところをちょっとずつ盗む。そのほうが自分のオリジナリティが作れるんです。
日テレがフジに勝てた理由
中山:「日テレがフジに勝てた理由」として、よくあがるのがあの緻密な番組分析でした。あの分析の結果などは土屋さんのクリエイティブにも生かされているんですか?
土屋:え~~っと……全く見ておりません(笑)。
中山:あちらのチームと土屋さんが『電波少年』を作っていたのは無関係なんですね?
土屋:はい、あちらはあちらでやっていたし、僕は僕のことで精一杯でした。でも時期的には連動してましたね。共鳴して、違う角度で日テレが攻めていたことで、たまたま重なったという気もします。
中山:長野智子さんとの番組でおっしゃってましたが、今ネットフリックスで海外でも大人気を博している日テレの『はじめてのおつかい』はノウハウの塊だと。あれだけマネしやすそうな番組なのに、他局はやっていない。そのくらい、実は自分たちにしかできないノウハウがある。『電波少年』から『イッテQ』の流れもそうですし、間寛平さんと第2日本テレビでインターネット中継した『アースマラソン』もそうですよね。海外で受けるヤバめな番組というと、必ず土屋さんが絡んでいる気がします。
土屋:その時、その瞬間のチームの温度感でしか作れないものがありますよね。1990年代の日テレは確実にそうでした。テレビ局なんて入社するときは全部横並びで、人材に優劣の違いはない。そうした中で、なぜ1980年代はフジテレビ、1990年代は日本テレビばかりが熱狂できる番組を作れるのか。それはその集団の「体温が高い」状態が、人を突き動かすんだと思うんです。狂気はあとから作られる。
全然目立たなかった自分が、『電波少年』によって、正直止まれないアクセルベタ踏み状態になるような、ちょっと異常な状態だったんだとは思います。
これはnoteにもよく書いているんですが「報連相が日本を滅ぼす」と思ってます。大反対です。
誰にだって天才の芽はあるんです。間違いなく。ただそれは売れているものを安易にパクるとか、報連相の上で出てくる丸まったアイデアからは絶対に出てこない。自分の中にしかないんです。内的に自分がやりたいものを個として突き詰める。そこに到達して具現化する。僕が天才だったわけではなく、僕が内的に突き詰めて、これだったら面白いと思うものを、純度を高めて、誰にも相談せずにやりきった。だからウケたんだと思います。
土屋さんに学ぶポイント
「創造は狂気によって生まれる」
綱渡りは落ちると思うから落ちる、辞表をつねに懐に入れて「止まったら死ぬ」と思って作り続けていた。意見は取り入れるが決めるのは常に自分1人。
「1人の熱狂が100万人に刺さる」
決まった予算に合わせて企画を作る、会議室で全員が賛成する企画を作る、こんなやり方では絶対にヒットは出ない。誰も何が当たるかなんてわかっていない。100人のうち1人でも強烈に面白いという人間がいれば企画は当たる。
「背中から盗む。できれば2人以上から」
丁寧に教える必要はない。できる奴は勝手に背中から学ぶ。技を盗むべき師を2人以上もって、劣化コピーでなく自分だけのオリジナルコピーを作る。
「報連相が日本を滅ぼす」
入社時点では人材なんて横並び。若い時にイケてるやつほど大成しない。周りをうかがって報連相している人間より、虎視眈々と企み、「体温の高い」集団の中で揉まれる人間がアクセルベタ踏みになったときに創造が生まれる。
土屋敏男(『電波少年』の元・日テレプロデューサー)
鳥嶋和彦(『ドラゴンボール』『ドラクエ』の元・少年ジャンプ編集長)
岡本吉起(『ストⅡ』『バイオハザード』『モンスト』のゲームクリエイター)
木谷高明(『BanG Dream!』『新日本プロレス』のブシロード創業者)
舞原賢三(『仮面ライダー電王』『セーラームーン』の映画監督)
齋藤英介(サザン、金城武、BTSの音楽プロデューサー)
中山淳雄(著)、日経BP、1980円(税込み)