日本の道は長い間、軟らかな土の道だった。だから人も馬も草鞋(わらじ)を履いて歩いた。馬車はなく、馬の背に荷物を載せて歩かせた。江戸期になると、牛に荷車をつなぎ引かせるため、硬い路面の車道(くるまみち)が作られた。「道」を切り口に日本の歴史を読み解く『道と日本史』(金田章裕著/日経プレミアシリーズ)より、さわりを紹介します。
江戸時代にあった車道(くるまみち)
京近郊の街道には、牛馬や人が歩く道以外に車道(くるまみち)がもうけられている場合があった。
例えば寛文8年(1668)の『新板平安城東西南北町幷洛外之図』には、京から竹田へ向かう竹田街道に相当する道に、「伏見ゟ(より)の車ミち(道)」と記されている。豊臣秀吉による宇治川の河道付け替えによって、大坂から淀川を遡ってきた荷や宇治からの荷には、宇治川を経て直接伏見の河港に着くようになった場合があった。角倉了以による高瀬川の開削によって、水運でも伏見と京は直接結びついたが、陸上交通では伏見と京を結ぶ竹田(伏見)街道が、物流の幹線の1つとなったことによる。
この竹田街道には、宝永6年(1709)の『京絵図』にも「伏見車道」と記されて、やはり車道であったことを示している。
一方、琵琶湖水運の拠点である大津から、山科を経て京へと至る東海道(中山道・北国街道からも同一)もまた幹線道路であり続けた。『伊勢参宮名所図会』(寛政9年<1797>刊)には、「大津里」の項に『淡海志(たんかいし)』を引用して、次のように記している。
町数九十八町、人家四千余軒、四道の襟喉(きんこう)にして、人馬牛車を以て洛中へ運送する事不絶(たえず)、馬は大津馬とて歌にもよめり、各逢坂山を越行程、ちから車のなヽくるまともなくやりつヾけたりと「挙白集」にも書たり
この「ちから車」というのが牛に引かせた荷車であろう。「大津里」は、多くの要路の喉元で、「人馬牛車」の交通が絶えないというのであるが、これだけでは道の状況は不明である。
しかし同書「逢坂山」の頁における、蔀関月(しとみかんげつ)の挿絵(絵1)によれば、表現はより具体的である。街路の上方をさまざまな旅人、荷を背負う人夫風の人々、背に荷を積んだ駄馬を引いた人々が左右に歩く様子が表現されている。その下方には、牛に引かれた荷車が左(同絵左端、牛の角の方向)へ向かって進んでいる様子が描かれている。
興味深いのは、これらの牛に引かれた荷車、およびそれに関わる人々が、上方の路面より低く掘り窪めた路面をたどっているようで、掘った断面が描かれ、また牛や人の半身が沈んでいるように見えることである。一段低くつくられた車道の様子を描いているとみられる。とすれば、このような車道には特定の設備が施されていたと思われる。
荷車を引くのは「牛」
中世の車借(くるまかし)と馬借(うまかし)に関わる表現に、「牛の頸(くび)」が爛(ただ)れても、あるいは「馬の背」が窪(くぼ)んでも、などというものがあった。牛には軛(くびき)をかけて荷車を引かせていた。その重い荷車を通すためには、硬い路面が必要であった。これが近世の車道の敷設に結びついたと思われる。
しかし、先の大津・京都間のように、その硬い路面の車道と、軟らかい人馬の道は分けられていた。馬には馬車を引かせるのではなく、背に荷を積んで運んでいた。牛に荷車を引かせる車道と、人と、人や荷を背に積んだ馬が通る人馬道が、併行して別々に設定される場合があった。
近世以前の日本では、人が乗ろうと、荷を積もうと、馬が車を引くことはほとんどなかった。古代の駅馬・伝馬も、乗用ないし駄馬であった。『延喜式』主税上に書かれている8・9世紀の「功賃」(運送賃)も、「船賃」を除けば「駄別」つまり馬の背に乗せる単位(1駄=36貫<約135キログラム>)ごとであり、この状況を示している。
中世の馬借も、さらに近世の街道を行く馬も、また軍用の騎馬であれ、公用・私用の乗用であれ、すべて乗馬用か荷物用の駄馬であった。安藤広重による著名な『東海道五十三次』の浮世絵には多くの馬が登場するが、当然ながら描かれているのは駄馬がほとんどで馬車はない。
人も馬もわらじで土の道を歩いた
しかも日本では、いつの時代においても、人が旅行用に用いた履物は、基本的に草鞋(わらじ)であった。現在からは想像できないが、馬もまた、人と同じように草鞋を履いていたのであり、現在の馬のように蹄鉄を打ってはいなかった。馬の草鞋は馬沓(うまぐつ)とも言い、藁(わら)はもちろん、和紙、皮革、馬毛、人毛などでつくられた。
日本のあちこちに沓掛という地名があるが、この馬沓に由来したものであろう。例えば広重の描いた「内藤新宿(中山道)」でも、沓を履いた馬が描かれている(絵2)。蹄鉄を打っていなかったことについては、日本馬の蹄が硬かったことによるとされるが、それ以上に、路面が軟らかい土であったことが関係したであろう。
この状況に対して明治政府の陸軍は、大きな馬の輸入とともに、明治6年(1873)にフランスから装蹄(そうてい)教官を招いて蹄鉄の装着を学んだ。明治23年(1890)には、ドイツ人教官を招聘(しょうへい)して、蹄鉄技術の導入と定着に努めた。蹄鉄工免許規則が制定され、獣医学校や農学校でも蹄鉄工の養成が始まった。しかし、各地の農山村にも蹄鉄が普及したのは大正時代(1910年代)に入ってからとされる。
近世以前、道を行くのは、人であれ馬であれ、いずれも徒歩であった。道は東海道の一部や京都-伏見間のような特定の車道を除けば、硬い路面である必要はなかった。人はもちろん馬さえも、硬い靴や蹄鉄ではなく、軟らかい草鞋や沓を履いていたのである。この状況ではむしろ軟らかい路面こそが、通常の安全な歩行を保障したともいえよう。
日本の道はかくも変転した! 律令国家が作った古代の直線道。藤原仲麻呂の逃亡ルートとは? 耕され、家が建ち、削られていく京都の大路。34回にわたった後白河法皇の熊野詣。京・鎌倉往還の旅人が見た尾張の農村風景──。面白エピソード満載の、「道」から読む日本史。
金田章裕著/日本経済新聞出版/1100円(税込み)


