ウクライナ戦争、米中新冷戦などによって国家安全保障に関する議論がタブーでなくなっている日本において、国際的な議論のスタンダードであるクラウゼヴィッツの『戦争論』を理解することは必要不可欠だ。『 縮訳版 戦争論 』(日本経済新聞出版)の訳者である加藤秀治郎・東洋大学名誉教授が、『戦争論』から戦争の本質に迫る名言を厳選し、平明な訳で収録している日経ビジネス人文庫『 『戦争論』クラウゼヴィッツ語録 』。本記事は同書から抜粋して再構成した。
■戦争では大半のことが不確実だ。真相を見通し、克服する知力が必要だ
戦争は不確実性の世界である。軍事行動の基礎をなす諸事象のうち四分の三までは、多かれ少なかれ不確実で、霧に包まれている。そこで真相を見通すのに何よりも必要なのは、洗練された、鋭い知性(悟性)である。無論、偶然に真相が見いだされることもあるにはあるが、……大半の場合、知性が乏しいとどうにもならない。(1篇3章)
➡ クラウゼヴィッツの「戦場の霧」は有名な概念だ。そのものズバリの表現は見当たらないが、これなどかなりストレートに出ている。
■肉体の疲労の影響は甚大で、判断力と実行力を左右する
肉体的労苦が戦争に及ぼす影響は大きく、それが判断を著しく左右することを、念頭に置いておかねばならない。……肉体的労苦こそ、いわば暗闇のように高級司令官(将帥)の知性(悟性)の活動を阻み、その感情の力を消耗させるものであり、それは誰の目にも明白である。……これも戦争におけるさまざまな摩擦・障害の最も重要な要因の一つである。(1篇5章)
➡ ナポレオンが1日数時間しか睡眠を取らなかった、などというエピソードが好まれるが、クラウゼヴィッツが説くのはコモン・センスの方だ。
■予期せざる新事態には、知性と勇気で立ち向かわねばならない
予期せざる新事態に直面しても、たじろぐことなく戦争を続けていくには二つの資質が不可欠である。一つは知性(悟性)であり、これはどんな暗闇でも常に内的な光を投げかけ、真相がいずれにあるかを見いだすものだ。フランス語で「クゥ・ドゥイエ」という、〔一瞥(いちべつ)での眼力たる〕心眼がそれである。第二は勇気であり、この微弱な内的光を頼りに行動を起こさせるもので、決断のことである。(1篇3章)
➡ クラウゼヴィッツは精神力を重視しているが、それは旧日本軍のような「精神主義」とは異質である。
■名声と栄誉を求める感情は、戦争に魂を吹き込む生命の息吹だ
白熱する戦闘にあって人の胸を満たす感情としては、名声と栄誉を求める感情ほど強烈で恒常的なものはない。だが不当にも、ドイツ語では野心とか功名心などと、品位のない言葉で語られ、副次的な意義しか与えられていない。……しかし、これらの感情は極めて高貴なものであり、戦争にあっては大規模な組織体に精神を与える生命の息吹そのものである。(1篇3章)
➡ 戦闘心を高める源は何か。――クラウゼヴィッツは、安易に「野心」「功名心」などと呼ばれ、軽視されかねないものをばかにはしない。
■戦争では諸々の困難が積もり、「摩擦」を生み、机上の計画を阻む
戦争では確かに一事が万事、至って単純である。しかし、ごく単純というのが曲者(くせもの)で、実は難しいのである。これらの困難が積もり積もると《摩擦》〔障害〕(フリクション)を生み出すのである。……これがどんなものであるかは、戦争を実地に体験したことのない人には、到底思い及ばないであろう。(1篇7章)
➡ クラウゼヴィッツの《摩擦》の概念は有名だ。単純な教えを戦場で実践できる能力が求められる。
■敵の完全打倒には、敵の《重心》の撃破が最も重要である
敵の戦闘力の撃破こそ勝利の最も確実な手段であり、最重要事項である。多くの経験からすると、敵の完全な打倒の条件は次のものと思われる。
一、敵側で軍が重心となっている場合は、軍を撃破する。
二、敵の首都が国家権力の中枢で、政治団体や党派の基盤である場合、首都を占領する。
三、敵の同盟国が敵より有力なら、それに有効な打撃を加える。(8篇4章)
➡ むやみやたらに攻めるのではなく、敵の《重心》を見つけ、そこに攻撃を集中させよ、と説く。
■兵力の逐次投入は戦略では不可だが、戦術レベルではありうる
〔兵力の逐次投入は原則として許されない。〕しかし、それは戦争が現実に機械的な衝突と類似している場合に限られる。戦闘を双方の兵力の継続的な相互作用と解する場合には、兵力の小出しの使用が有利な場合も考えられる。それが妥当するのは、戦術においてである。(3篇12章)
➡ 生半可な軍事オタクは「兵力の逐次投入は不可」とだけ言うが、クラウゼヴィッツの主張は単純でなく、命題は洗練されている。難解といわれる一端はそこにある。
■交戦での防御態勢は、決して単なる楯(たて)のように考えられてはならない
防御的な戦役でも、個々の師団を攻撃的に使うことができる。また、陣地に立てこもり、突撃してくる敵を攻撃的銃弾射撃で迎え撃つこともできる。要するに、交戦に当たっての防御態勢というものは、決して単なる楯のようなものと考えられてはならない。巧妙に攻防両用に用いられる楯のごときものと心得られるべきである。(6篇1章1)
➡ 自衛隊について「専守防衛」ばかりが言われがちだが、こういう言葉に接すると深く考えなければならないことが分かる。
■攻撃力は次第に低減するから、《攻撃の極限点》の見極めが肝心だ
攻撃側の戦闘力は次第に枯渇していく。……攻撃側は講和での交渉のために有利な条件を確保しようとするが、攻撃側の優位は日々減じていく。その中で講和の時まで優位を維持できれば、攻撃側の目的は達せられることになる。……そこで、たいていの場合、防御の立場に回っても戦闘力を維持でき、講和に備えるに足る点まで攻撃が押し進められる。だが、この点を超えると事態は急転し、防御側の逆襲が始まる。(7篇5章)
➡ 『戦争論』の章の構成では中途半端な扱いだが、《攻撃の極限点》がキーワードであるのは間違いない。『戦争論』が著者逝去のため未完に終わっているのは惜しまれてならない。
■戦争では、敵を次第に消耗させる手段として、抵抗もありうる
敵をして戦闘に疲弊させるとの考えには、……敵の物質的戦闘力と意志を次第に消耗させることが意味されている。……そこでの最小の目的は純粋な意味での抵抗である。……抵抗といえども一種の活動であり、活動である限り敵の戦闘力の多くを破壊し、その意図を断念させねばならない。しかし、ただ敵の意図を断念させることが目標となっている点で、消極的な性質のものなのである。(1篇2章)
➡ 敵の消耗を狙う「消耗戦」とはどういうものか。これもまた単純ではない。
■存立の意欲と実力のない国を、外国の力だけで維持するのは難しい
ポーランドが防御能力のある国だったなら、三列強〔プロイセン、ロシア、オーストリア〕も、容易にポーランド分割を決められなかっただろう。またポーランドの存立に大きな利害を有していたフランス、スウェーデン、トルコなど列強も、武力でその維持・存続に協力しただろう。だが、その国自身に存立の能力なく、外部の力でのみ存続を図るというのは、そもそも虫のいい話なのである。(6篇6章)
➡ 大国ロシアに攻め込まれながらも、よく戦っているウクライナと、かつて二度も分割された以前のポーランドはどこが違うのか、よく考えてみなければならない。
■他国の危機に際し、同盟国は自国のことのように真剣にはならない
他国の危機に際し、手を差し伸べようとする国があったとしても、自国の危機のことのように真剣になるとは、誰も思わない。いくらかの援軍を送ってみて、進捗はかばかしくない状況になると、自分たちの義務は果たしたとばかりに、犠牲の少ないうちに難局から上手に逃れようとするものだ。(8篇6章A)
➡ 「尖閣諸島は日米安保条約の適用対象か」と米側に確認する日本政府の要人がいるが、あまりの能天気さに、この言葉を思い出す。
『 『戦争論』クラウゼヴィッツ語録 』
クラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争についての最高の古典として著名だが、難解なために「読まれざる古典」の代表格となっていた。本書は、『戦争論』からエッセンスを抽出し、平易な訳文で収録した戦争の本質に迫る名言集。
加藤秀治郎編訳/日本経済新聞出版/990円(税込み)