「戦争とは、異なる手段を持って継続される政治に他ならない」――。「戦争についての最高の古典というだけでなく唯一の古典」と評されるクラウゼヴィッツ『戦争論』の有名な言葉だが、これ以外にも『戦争論』には現代の国際情勢を考える上で有用な言葉が満載だ。『 縮訳版 戦争論 』(日本経済新聞出版)の訳者である加藤秀治郎・東洋大学名誉教授が、『戦争論』の名言を精選して収録した日経ビジネス人文庫『 『戦争論』クラウゼヴィッツ語録 』。本記事は同書から抜粋して再構成した。

(注)見出しは加藤氏が付したもの。内容を圧縮した場合もあれば、補足情報を入れた場合もある。文末の( )内は原書にその言葉が出てくる篇、章など。「➡」以降は加藤氏のコメント。

■戦争は独自の論理で動くものではなく、政治的関係から切り離しえない

 確かに戦争には独自の方法(グラマー)のようなものはある。しかし、戦争には独自の論理などは決してありはしない。それゆえ、戦争は決して政治的関係から切り離しえないものである。もし切り離して考えるようなら、関係するあらゆる糸が切断され、戦争は意味も目的もないものとならざるをえない。(8篇6章B)
「戦争にはグラマーはあるが、独自の論理はない」とした有名な言葉。

■戦争には二重の性質があり、敵の打倒と利益の奪取では、企図はまったく別だ

 戦争には二重の性質がある。……一方は、敵の打倒を目的とする場合に、戦争が帯びる性質である。敵を政治的に撃滅するか、単に無抵抗ならしめ、欲するままに講和を強制するものかは問わない。他方は、単に敵国の国境付近で幾ばくかの領土を手に入れるのを目的とする場合に帯びる性質である。その地を永久に領有するか、講和の取引材料とするかは問わない。一方の性質から他方の性質に変わることもあるが、二つの性質の戦争では企図がまったく別である。(覚え書)
クラウゼヴィッツが『戦争論』全体を見直すに際し、基調にした方針。未完のまま急死したので、全篇を貫いてはいないが、解釈に際しては最も重要な一節だ。

■他国を威嚇(いかく)し、交渉を有利にするためだけの戦争もある

 政治目的が戦争に及ぼす影響を認めるとするならば、どのような戦争も戦争と見なされなければならない。そこにも限界はなく、〔絶対戦争とは逆方向での〕極端な場合もある。敵を威嚇し、交渉を有利にすることだけが目的の戦争も存在するのである。……軍事行動の動機が弱く、行動を抑制する要因が強い場合には、それだけ消極的で、不活発になり、戦争本来の原理から遠ざかるようになるのである。(8篇6章A)
クラウゼヴィッツは以前、「殲滅(せんめつ)戦争」論者とされたが、その議論は単純ではなく、このような言葉も少なくない。それが『戦争論』見直しの契機となったのだろう。

■当初の政治的意図は、戦争の過程で変わっていくことがある

 当初の政治的意図は、戦争の経過の中でしばしば大きく変わっていくものである。最後にはまったく別のものとなることすらもある。というのは、それまでに得られた戦果や、今後の予測される成否によって、当初の政治的意図に修正が加えられていくからである。(1篇2章)
ウクライナ戦争でも、プーチンの当初の意図が何であったか、現在はどうなっているのか、よく考えなければなるまい。

クラウゼヴィッツはナポレオン(1769~1821)と同時代人だ(写真:shutterstock)
クラウゼヴィッツはナポレオン(1769~1821)と同時代人だ(写真:shutterstock)
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■戦争の「目的」と「目標」とを明確にすることなく開戦してはならない

 戦争によって何を達成し、また戦争において何を得るか、との問いに答えないまま開戦する者はいないだろう。いや、言い換えると、合理的な者ならそのような戦争は始めるべきではない。戦争で何を達成するかが戦争の目的であり、戦争で何を得るかが戦争の目標である。この基本的構想により、すべて方向性が決まり、手段の範囲、力の分量が決められる。(8篇2章)
第2次世界大戦での旧日本軍には戦争目的の曖昧さがあったと、『失敗の本質』(中公文庫)などで指摘されている。本質をなすポイントだ。

■政治に携わる人は、軍事についての理解が不可欠だ

 外国語に習熟していない者は、時に正しい考えを抱きながらも、うまく表現できないことがある。それと同様に、政治が正しい意図を持ちながら、その本来の意図に合致しないやり方でものを決めることが、まま見られる。いや、数えきれないほど多い。このことが示しているのは、政治の運用のためには軍事についてのある程度の理解が欠かせない、ということだ。(8篇6章B)
戦後、日本には「平和」を語るだけで、それを維持する方法を論じない政治家が多いが、それでは困るのだ。

■ただ善良な気持ちから戦争について語るのは最悪である

 人道主義者は、戦争の本来の目的は、相手を武装解除したり降伏させたりするだけでよく、必要以上の損傷を与える必要はない、という。それこそ用兵の奥義だともいう。このような主張はもっともらしく聞こえるが、誤っており、断固、粉砕しなければならない。戦争は危険なものであり、ただ善良な気持ちから発する誤謬(ごびゅう)こそ最悪のものだからだ。(1篇1章3)
まるで戦後日本の「空気」に対し、警告を発しているような言葉だ。

■非戦の戦略は、相手も非戦の可能性を探っている時にしか許されない

 一方が大決戦を選ぶ決心をしているのに、他方がそうせず、他の目標を目指しているのが確実な場合、それだけで前者の勝算が大きくなる。〔非戦など〕別の目標を追求するのは、敵もまた大決戦を求めていないと推測される時にしか許されない。(1篇2章)
『孫子』を「非戦」の戦略として、クラウゼヴィッツと対立させる論者がいるが、ここ数十年は、両者の共通点を指摘する論者が多い傾向が強い。

■侵略者はすこぶる平和愛好的で、戦わずに敵国に侵入せんと努める

 言うまでもないことだが、侵略する側は、不用心な防御側より、先に戦闘を準備する。……また、侵略者はすこぶる平和愛好的(ピースラビング)で、ひたすら血を流さずして、敵国に侵入せんと努めている。……だが、〔多くの場合〕防御側が戦闘の決意をし、それに備えているので、それは不可能なのである。(6篇5章)
戦後の一時期、日本で「平和攻勢」というスローガンが広まったことがある。現実の平和は戦争に対する備えで維持されているのだ。

■地位に応じて、求められる知識は種類が異なっている

 軍事活動の分野で必要な知識は、指揮官の占める地位によっても違ってくる。……地位が低ければその知識は局部的であり、地位が高ければより包括的な対象に向けられる。高級司令官(将帥<しょうすい>)として力量ある人物でも、騎兵連隊長をさせたら全然だめな人もいれば、その逆の人間もいる。(2篇2章43)
『孫子』と並び『戦争論』はビジネス指南の書としても読まれており、指導者の心構えを説いた言葉が多い。

クラウゼヴィッツ(1780~1831)はプロイセン王国の軍人だった。黒い部分がプロイセン王国の領土(写真:shutterstock)
クラウゼヴィッツ(1780~1831)はプロイセン王国の軍人だった。黒い部分がプロイセン王国の領土(写真:shutterstock)
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■高級司令官は学者である必要はない。小知識は小人物をつくるだけだ

 未来の高級司令官を養成するのに、あらゆる詳細な知識が必要だ……とかいう輩(やから)は、常に笑うべき衒学者(げんがくしゃ)とされてきた。このような知識はかえって害になる。……人間の精神というものは、授けられる知識や思想によって養成されていくものだからである。偉大な知識のみが偉大な器をつくり、小知識は小人物をつくるだけである。(2篇2章40)
指導者に求められる知的能力は、学者のそれではないことを雄弁に語っている。

■やたら難しい専門用語は無内容で、自己満足の道具だ

 不都合なことには、専門用語には時として中身のない場合がある。そうなると書いている本人自身も、その用語によって何を意味するか判然としなくなり、やたらに曖昧な概念を用いて自己満足してしまうことになる。また、こういう概念を使い慣れると、もはや率直な話法では満足できなくなってしまうのである。(2篇5章)
これは社会一般の議論についても言えるだろう。国会論戦なども、用語がやたらと難しい場合、内容空疎をごまかすための手段のときがある。

日経ビジネス人文庫
『戦争論』クラウゼヴィッツ語録
現代を読み解く、生きた古典のエッセンス

クラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争についての最高の古典として著名だが、難解なために「読まれざる古典」の代表格となっていた。本書は、『戦争論』からエッセンスを抽出し、平易な訳文で収録した戦争の本質に迫る名言集。

加藤秀治郎編訳/日本経済新聞出版/990円(税込み)