米国の経営学者、クレイトン・クリステンセン氏が提唱した「破壊的イノベーション」。その定義の枠を広げ、社会の在り方や人々の考え方、生き方に大きな変革をもたらした(あるいはもたらすであろう)人物15組・16人の思考と行動原理を探った書籍 『破壊的イノベーター、その視界』 (日経BP)。アート×ビジネスで福祉領域を拡張する双子の起業家、ヘラルボニー代表取締役社長の松田崇弥氏、代表取締役副社長の文登氏のインタビューを本書から抜粋、2回に分けてお届けする。その前編。
知的障害のある作家が描くアートをビジネスの文脈に乗せて発信することで注目を集めているのが、福祉実験ユニット「ヘラルボニー」の創業者、松田崇弥氏(代表取締役社長・双子の弟)と松田文登氏(代表取締役副社長・双子の兄)です。
「障害者アート」という枠組みを超えて、それぞれの作家の作品の素晴らしさ、個性を広く伝えたい。そんな思いを実現するために作品のデータベース化とライセンスビジネスを発想。「異彩を、放て。」というミッションの下、その展開は衣類、食品パッケージ、建設現場の仮囲い、ホテルのプロデュースなど大きな広がりを見せています。
ヘラルボニーの事業の根幹には、障害のある4歳上のお兄様の存在があります。改めてお二人にとってのお兄様への思いや、障害についてのお考えについてお聞かせください。
松田文登(代表取締役副社長・双子の兄。以下、文登):4歳上の兄は重度の知的障害を伴う自閉症なんですが、家では普通に仲良く暮らしていました。それに、母親が福祉に積極的だったということもあって、物心のついた頃から障害福祉系の団体のところに毎週土日は一緒に通っていた記憶があります。そこはいろいろな障害のある方が当たり前のように存在している場所でしたから、(障害のある人と)共存するというのは当たり前でした。そんな環境で福祉業界の人たちにすごくかわいがられて育ったということもあって、もともと将来的には福祉という領域で勝負したいなという思いはありました。ですから、ヘラルボニーは兄がきっかけで始まったといえると思います。
ただ、一歩外に出ると社会には「障害者」という枠組みがあって、兄はやはり欠落と見られてしまうようなことも多々あるんだな、ということを実感する機会は幼少期からたくさんありましたね。それで中学校のとき、クラスに障害者のことをバカにしてからかうみたいな風潮があって――。兄のことは大好きだったんですけど、そのクラスの小さい枠組みの中では、自分は兄の存在を隠して中学の3年間を過ごしてきたということがありました。
それはお二人ともそうだったのですか。
松田崇弥(代表取締役社長・双子の弟。以下、崇弥):はい、二人ともそうでした。僕らは本当に小学校・中学校・高校とずっと一緒で、部活も全部一緒で、友人関係もほぼ一緒でしたので。ですので、二人とも中学のとき兄が自閉症だということを言いづらくなったというのはありました。それから高校に入って、まったく違う友人関係と環境に大きく変わったことによって(兄のことを)話せるようになっていきました。
文登:障害というと「欠落」をまず連想されてしまう――。けれど、アートというリスペクトが生まれてくる世界と出合い、従来の障害に対する価値観を変えていけないかと考えました。そんな思いからヘラルボニーはスタートしています。
障害のある作家が描いたアートをプロダクトに落とし込む
障害のある作家が描いたアートをネクタイや傘といったプロダクトに落とし込んだブランド「MUKU」を2016年にスタートしました。事業を起こそうとしたきっかけや苦労したことなどを教えてください。
文登:障害のある作家の作品を展示する美術館「るんびにい美術館」(岩手県花巻市)を崇弥が訪れたことがきっかけです。その作品が、障害者であるとかそういうことと関係なく、単純に美しくて感動を覚えて、「これはすごい」と思ったことがスタートです。
お母さんが連れて行ってくれたんですよね。
崇弥:そうです。当時、私は東京にある広告の企画会社で働いていたんですが、たまたま岩手に帰省していたときに母から「るんびにい美術館に行ってみない?」と言われて。私もそのときは知らなかったんですが、行ってすごい衝撃を受けて、文登に電話して――。最初の「MUKU」は副業でしたが、まずはそういった形でスタートしました。
一方で、障害のある方が描くアート作品は、支援的な文脈、CSR(企業の社会的責任)的な文脈に乗り過ぎているのではないかとも感じていました。例えば、福祉施設や就労支援施設でつくられた皮細工が、道の駅で500円とか安い値段で売られている。けれど、その職人の作品をクオリティーの高いものとして世の中にアウトプットすることはできるはずです。これってプロデュースする側の裁量なんじゃないかと思ったりもしていました。
苦労した点は、どのようなことがありましたか。
崇弥:苦労はあったんですが、(当時は副業だったので)別にこれで食わなきゃいけないわけでもないので、ある意味、すごく楽しかったですね。勤務していた広告の企画会社では、年間の数字目標が毎年あって、 それをどう達成するのかということを一生懸命やっていました。それも楽しくやっていたのですが、でも、「MUKU」の活動をしながら、「やっぱり自分は知的障害のある方々と一緒にクリエーションを生み出していくようなことが、すごくやりたかったんだな」という気持ちが、日に日に大きくなっていったんです。「MUKU」を立ち上げて起業するまでは、やりたいことを実感していく時間でした。
純粋にやりたいことを形にしてみたら「MUKU」ができたということだった、と。
崇弥:本当にそうです。「好奇心を形にしてみた」みたいな。なので儲(もう)けようとかは別に思ってなかったです。
文登:ワクワクが前提なので。当時は、事業としてどうしようとか、社会を変えようとか、そんな大きいことは考えてなかったです。
崇弥:やっぱり作品は本当にリスペクトしていて――。純粋にかっこいいし、イケてるなって思っているので、そのイケている作品をイケているままに、どうやって世に出せるか――。このことはいつもすごく考えています。
事業のポイントは作品のデータベース化
それから2年後にヘラルボニーを創業しました。
崇弥:例えば、重度の知的障害のある人たちが素晴らしい作品を描いたとして、個展を定期的に開いて、自力で作品を売って利益を上げるというのはかなり難易度が高いですよね。それに、障害のある作家にとって、締め切りや納期があるというのもとても大変です。
そこで、素晴らしい作品を高解像度の画像としてデータベース化して、その著作権をこちらでお預かりして、それをいろいろな企業に渡していくことによってライセンスフィーが作家に入ってくるというモデルができたらと考えました。これなら重度の知的障害のある人たちが、納期に縛られなくてもお金が入り続けていくというビジネスモデルは成り立つんじゃないか。これは、私が広告ビジネスをやってきた中で、例えば何かキャラクターのデータを貸し出すだけで経済効果が生まれていくということを肌で感じていたので、出てきた発想だと思います。
データベース化というビジネスモデルが見えてきて、起業を決断したわけですね。
崇弥:27歳のときに、広告の仕事を辞めて起業しようと思って。文登には、「俺、今日辞めることにしたから、おまえも辞めろ」って電話しました。最初は「俺は結婚するから無理だ」って言われましたが(笑)
文登:その後、結局辞めましたけど(笑)
崇弥:なので、私が社長で文登が副社長なのは、一応、私が発起人だからというだけの理由なんです。
このデータベースが今の事業の根幹になっていますね。
崇弥:データが一番の主力ビジネスに育っています。データがあるので、ジャケットの裏地にしたり、Tシャツにしたり、バッグにしたりできます。建設現場の仮囲いを美術館にしていくという「全日本仮囲いアートミュージアム」事業をゼネコン出身の文登が立ち上げたんですが、データを持っていれば、大きく引き伸ばして印刷をかけることができるわけです。
文登:街の仮囲いのような日常の風景が、作品のタッチポイントに変わっていけたら、障害のある方に対するイメージがグラデーション的に変わっていく。僕らは「作品が作品として単純に美しいよね」という世界をまず広げていきたいので、その入り口の一つとして仮囲いが機能していけばいいなと思っています。
ほかにもいろいろなところに採用されています。
文登:企画が前提にあって、そこに作品データを使っていくという形です。例えば駅舎や電車の車両、ジンのパッケージ、サバ缶、車椅子、ユニホームなど、いろいろなところに採用されています。
最近だと、盛岡市の再開発事業でバスセンターの跡地がホテルになるんですが(2022年秋頃完成予定)、そのホテルにヘラルボニーがプロデュースという形で参画しています。ここでは障害のある作家によるアートをあしらった部屋に宿泊客が泊まるごとに、作家にお金が流れていく仕組みを構築します。
崇弥:そのほか、丸井グループのクレジットカード(エポスカード)にアートをあしらったプロジェクトもスタートしました。利用者がカードを使うたびに利用額の0.1%が福祉関連の寄付に回るようになっています。カードを使うごとに障害のある人や団体の活動を応援できるという仕組みです。
(後編に続く)
聞き手/髙橋博樹(日経BP 総合研究所 主席研究員)
様々なジャンルで世の中に新しい価値を創出した15組・16人の“破壊的イノベーター”が、その考え方や実践について、さらには、原動力となった発想や情熱について語ります。
日経BP 総合研究所 編著、日経BP、2420円(税込み)