このコラムでは日経BPのメディアを率いる編集長に聞いたおすすめ本を紹介します。「専門性×編集長の人となり」が垣間見えるセレクト、お楽しみください。今回は 日経バイオテク の坂田亮太郎編集長が「自分で考えることをやめたくない人」に向けた一冊を推薦します。

 小さい頃から本を読むのが好きだった。新しい知識を身に付けることは単純に面白かったし、本を読んでいると時間があっという間に過ぎる感覚が何より好きだった(本を読んでいない時間は退屈だとも感じていた)。就職するとき、出版社を選んだのも本好きだった要因が大きい。出版社に勤めて20年以上たった今でも、私は本をたくさん読んでいるほうだろう。ただ、「本が好きか?」と問われたら、今は素直に首を縦に振ることはできない。理由は、世の中には首をかしげるような本がたくさんあることを知ってしまったからだ。

 典型例は、世の中にあふれるコロナ本だ。試しにアマゾンなどで「コロナ」と検索してみてほしい。おびただしい数の書籍がヒットするが、幾つかのパターンに分類できる。

(1)政府のコロナ政策を闇雲に批判:日本政府のコロナ対策が全て正しかったとは私も考えていないが、人口100万人当たりの感染者数は累積でも15.2万人(2022年9月1日時点、出典:札幌医科大学)。フランス(52.9万人)や米国(28.4万人)、そして同じ島国の英国(34.5万人)に比べても、よっぽどましであることは明白だ。もっとも政府を自由に批判できるだけ、中国やロシアより恵まれていることだけは間違いない。

(2)ワクチンのリスクを殊更に強調:ワクチンに限らず医薬品には副反応が付きものである。ワクチンを忌避する人々はリスクばかりに着目し、ワクチンが社会にもたらすベネフィットには目を向けようとしない。専門家を自称する著者が自説を展開しているが、科学的な根拠は乏しいケースがほとんどだ。ビル・ゲイツの陰謀論とか、恥ずかしいので本当にやめてほしい。

(3)認可されていない医薬品を推奨:コロナ禍が始まった当初からイベルメクチンを特効薬とあがめる風潮がネット内で流布していた。北里大学の大村智特別栄誉教授が開発したイベルメクチンは寄生虫に対して優れた薬であり、その功績で大村氏はノーベル医学・生理学賞を受賞した。だが、新型コロナウイルス感染症の患者にイベルメクチンを投与しても効果が乏しいことは複数の論文で明らかになっている。日本人が開発した薬だけに期待したい気持ちは理解できるが、信じる力でウイルスを撃退することはできない。

(4)パンデミックにかこつけた謎の健康法:納豆食べたら免疫力アップとか、一時期はやったダイエット本とやっていることが同じ。発酵食品が健康に良いのは間違いないが、特定の食材や栄養素に偏った食事が身体に良いはずがない。結局、よく食べ、よく寝て、よく運動する。これ以上の健康法はないはずだ。

 言論の自由は、民主主義の根幹を成す。その一端を出版業が担っていることを誇らしくも思っている。ただ、この業界で働いていて、出版社側のもうけ主義を感じることも少なくない。特に(2)(3)(4)は、人の命に関わる問題に発展しかねないだけに深刻だ。情報を発信する側は1つの考えを述べただけと弁明するかもしれないが、誤った情報をうのみにしてしまう人も(残念ながら)一定数いる。さらに言えば、書籍という「形」になるとネットのニュースより信頼性が高まる効果もある。だからこそ、出版業に関わる人間はより誠実であるべきだと私は考えている(自戒を込めて)。

 誠実さという点で、 『新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか』 は数多あるコロナ本の中で群を抜いていると私は感じている(自社の書籍なので、バイアスがかかっているという指摘は甘んじて受ける)。この本は感染症の専門家である峰宗太郎氏と日経ビジネスの山中浩之氏の対談であるが、新型コロナウイルスについて何か結論めいたことが書いてあるわけではない。ウイルスがなぜ変異を繰り返すのか、治療薬やワクチンは本当に効くのか、そして日本の感染症対策は正しかったのか…。素人を代表して山中氏が発する質問に峰氏が答えていくのだが、2人は急いで結論を導き出そうとしない。プレゼンやスピーチでは「結論から先に言う」ことがセオリーとされているが、本書はそれと全く真逆なのだ。

『新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか』
『新型コロナとワクチン わたしたちは正しかったのか』

 複雑な事象に対して山中氏はひたすら疑問を呈し、峰氏はさまざまな角度からこれでもかと解説を試みる。だから2人の会話は異様に長いのだが、それは「健全な懐疑心」があればこそ。政府や製薬企業、そして医師を含めた研究者が発する情報さえ片っ端から疑ってかかり、客観的な事実が何であるかを検証する努力を怠らない。その2人の濃密な会話が、296ページにわたって展開される。

 別の角度から見れば、コロナ禍という情報の氾濫の中で私たちがどうあるべきかを追求している書とも言える。インターネットの普及で情報の量は格段に増えたが、質も大きく変容した。パンデミックはその流れを加速させ、玉石混交の情報が飛び交う中で、私たちは自分や自分の家族を守るため判断に迫られている。その意味で、第8章の「正しさを誰も保証できないとき、どうするべきか」は出色だ。峰氏は最後の最後に山中氏に試練を与える。ネタバレになるのでここでは書かないが、人間の心の弱さが「インフォデミック」を生み出す素因になっていることがよく分かるエピソードとなっている。

 本書は、新型コロナに関して手っ取り早く知識を得ようという人には向かない。むしろ自分の行動は自分で考えて決めたい人には、ぜひ手に取ってもらいたい。読み終えたら、帯に書いてある「いま、立ち止まって考える 何が正しいのかを見極める思考法」の意味が分かり、ニヤリとするはずだ。


  日経バイオテク は日本最大のバイオ専門メディア。1981年10月の創刊以来、バイオテクノロジー分野の研究開発や事業化に関する最新情報を報道してきた。年間の記事本数は4000本を超え、記事のアーカイブは8万本以上ある。

イラスト/shutterstock イラスト加工/髙井 愛