『 「金脈をつかんだ!」叫ぶ柳井正 ユニクロ1号店、開店秘話 』で紹介した通り、ユニクロ1号店の滑り出しは想定以上の好調さだった。しかし、成功の隣には落とし穴が待ち受けていた――。ようやく見つけた「金の鉱脈」を捨て、抜本的に作り替える。ノンフィクション『ユニクロ』(杉本貴司著)より抜粋・再構成し、柳井正の「決断」の背景に迫る。(文中敬称略)
「僕のおごりでした」
暗黒の10年間をへて柳井がついに掘り当てたユニクロという「金の鉱脈」。ここから飛躍的な成長が始まった、……わけではなかった。
広島の繁華街に近い1号店から歩いて数分の距離にある映画館の2階に、柳井正は広島2号店を作ることを決めた。路面店である1号店と比べて不利なことは承知していたが、「賃料が安かったので、売れたらぼろ儲(もう)けだなと胸算用していた」という。
これが裏目に出た。
「僕のおごりでした。自分が思っている通りの店なら絶対にはやると思っていたのが、大失敗です」
広島2号店には柳井の趣味が色濃く反映されていた。300坪ほどもある広い売り場面積の半分ほどを、ハンバーガーショップとビリヤード台を置いたプールバーにしてしまったのだ。ちなみにバーガーが350円でホットドッグは280円だ。
結果は大ハズレ。当時の小郡商事(現ファーストリテイリング)の年間利益は7000万円ほどだったが、これが吹き飛んでしまうほどの赤字となった。
「頭の中が真っ白になりましたよ」
そう振り返りつつ、柳井はこうも付け加えた。「でもね、ものごとはやってみないと分からない。僕は失敗だと思ったとき、その理由を考え抜くんですよ」
そうして失敗を次の成功への気づきに変えてしまえばいいというのが柳井の思考法である。このときの「気づき」は、飲食店を併設したことより立地を甘く見たことに尽きた。自ら「僕のおごり」と言うように、賃料の安さに目がくらんだことを今でも反省材料にしているという。
ファストファッションの限界
広島に作った2つのユニクロは、はっきりと明暗を分けることになったのだが、経営者としての柳井のすごみはこのすぐ後に取った行動に見て取れる。
最初期のユニクロは「カジュアルウエアの倉庫」をモチーフとした。アメリカでの視察旅行で立ち寄ったコープ(生協)をヒントに、当時のアパレル店では常識だった接客を排し、客が思い思いに欲しい服を棚から取って買い物かごに入れていく方式を取り入れたのだ。今では当たり前の風景だが、当時は斬新なアイデアだった。
ただし、当時のユニクロは我々が現在よく知るものとはかなり違っていた。棚に並べられていたのは、他社から買い付けてきた服だった。アディダスやナイキ、リーバイス、エドウイン……。
大衆受けする服を大量に買い付けて大量に売る。2000年代に入ってファストファッションと呼ばれるようになったビジネスモデルだが、この当時のユニクロはまさにその典型だった。
柳井はそんなユニクロを金の鉱脈と呼んだが、それで満足しているわけではなかった。むしろファストファッションの限界を早くも感じ取っていた。
ファストファッションではどんな服を取り扱うかについてはメーカーや卸に主導権があり、小売店側は売り切れるものを確保するという受け身の姿勢にどうしてもなりがちだ。価格設定はメーカーや卸に握られる。
この構図はカジュアルウエアに限った話ではなく、柳井の祖業である紳士服でもまったく同じだ。いわば業界の常識。どこまで行っても小売店側が不利になるように思える負の連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか――。柳井は小さな成功に満足することなくその解を探し続けていた。
香港で受けた「衝撃」
そんなときに外にヒントを求めようと渡ったのが香港だった。1986年のことだ。アメリカの大学の店をヒントに、広島でユニクロ1号店をオープンさせたわずか2年後のことだ。
それは人の群れがごった返すような香港の下町の小さな店だった。
通りに面したジョルダーノという店にぶらりと入った柳井たち一行は、1枚のポロシャツに目を見張った。特に上等というほどでもないが、モノはしっかりしている。驚かされたのがその値段だった。1枚が79香港ドル。当時の為替レートで1500円ほどに相当した。当時、ユニクロで扱っていたポロシャツは1900円だった。ジョルダーノの店で売られていたのは、柳井が「これより安くは売れまい」と思っていた価格を下回る値付けだった。
「なんで、どうやったら、こんな値段で売れるんだ」
柳井は驚き、その場でそのポロシャツを何枚も仕入れて宇部に持ち帰った。その場に立ち会った幹部によると、「デザインは普通のポロシャツですが、僕が感動したのが縫製でした」という。つまり普通の消費者が目にしないような隠れた部分の仕事が実に行き届いているということだ。
それが、なぜ1500円で売れるのか――。
調べてみて分かったのが、ジョルダーノが卸を通さずに工場から直接仕入れているということだった。しかも服のデザインも自分たちで手掛けているという。
ジョルダーノが香港で実践していたこのビジネスモデルこそ、製造小売業(SPA)と呼ばれるものだった。小売店が服のデザインまで手掛けて工場に発注する。大量生産した服を全量買い取るリスクと引き換えに、圧倒的な安価を実現する。そうすることで商品作りの主導権を小売り側が持つことになる。
「これは」と思う成功への手掛かりを見つけたら即座に行動に移すのが柳井流だ。柳井は知人を通じて香港で発見したジョルダーノの創業者に会う約束を取り付けた。
「こいつにできるなら、僕にもできる」
待ち合わせの場所に指定されたのは、香港の街中にあるレストランだった。ジョルダーノの創業者であるジミー・ライ(黎智英)はロールス・ロイスに乗ってやってきた。
このジミー・ライという人は、立志伝中の人物と言っていい。中国の広東省広州市に生まれたが、7歳のときに父親は香港に亡命し、母親は労働改造所に送られたという。12歳で密航船に乗って広州を離れマカオを経由して香港に逃げ延びてきた。「自由の地」である香港では、幼くして手袋工場で働き始め、カツラ工場などをへて苦難の末に自ら立ち上げたのがジョルダーノというアパレルの会社だった。
流民の身から一代で成功をつかんだ自らの半生をライから聞きながら、柳井は腹の内ではこんなふうに思っていた。
(こいつにできるんなら、僕にもできるんじゃないか)
柳井がユニクロに取り入れようと考えていたのは、そのビジネスモデルだった。中国では1949年の共産党革命を機に多くの資本家階級が香港近辺に逃げてきた。その中でも特に多かったのが上海近郊などの紡績工場の経営者たちだったという。1966年から10年間続いた文化大革命によって、その流れは一層、加速していった。
ライの立ち上げたジョルダーノが頼っていたのが、まさにこのような紡績工場の経営者たちだった。ライは柳井と1歳ほどしか違わない。立志伝中の人物だが、果たして自分とそれほど違うのだろうか。
いや、俺にだってできるはずだ――。
香港での会食で柳井はこんなことを「発見」した。発見するだけではダメだ。
「Be daring, Be first, Be different(勇敢に、誰よりも先に、人と違ったことを)」
「金の鉱脈」を捨て去る
ユニクロにたどり着く以前、鳴かず飛ばずの暗黒時代に米マクドナルド創業者レイ・クロックの著書から柳井が学んだ言葉だ。日本ではSPAのビジネスモデルは確立されていない。それを自分にだってできるはずだ。やるなら勇敢に、誰よりも先に、である。
柳井はようやく見つけた金の鉱脈であるユニクロが軌道に乗り始めたかという、まだまだよちよち歩きだったこの時期に、まったく違うビジネスモデルに転換させることを思い立った。国内外のいろいろなメーカーから服をかき集めて作る「カジュアルウエアの倉庫」から、本格的なSPAへの転換である。
「寝太郎」と呼ばれる無気力青年だった柳井が渋々、宇部の銀天街に戻ってきたのが1972年。そこから成功への「解」を求める12年間もの試行錯誤の暗黒時代をへてたどり着いたのが「カジュアルウエアの倉庫」だった。それを、柳井は「金の鉱脈」と呼んだ。
そのわずか2年後に香港で出合った未知なる国際分業のビジネスモデル。柳井はようやく見つけた「金の鉱脈」を捨て、ユニクロを抜本的に作り替えることを決断したのだ。小さな成功に満足せず、自己否定を恐れない。こんな内なる破壊をへて、宇部の紳士服店を継いだ一介の商売人がカリスマ経営者「柳井正」へと進化を遂げる。
杉本貴司著/日本経済新聞出版/2090円(税込み)

