『YAWARA!』『MONSTER』『20世紀少年』など、数々のヒット作を生み出してきた漫画家・浦沢直樹氏。現在は「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載中の『あさドラ!』で、戦後生まれの女の子・浅田アサを主人公に女性の一代記を描く。インタビュー後編では、新しい試みに踏み出す際の考え方や流儀、漫画家の創作の現場をテレビ番組で紹介する狙いなどを聞いた。[日経クロストレンド 2021年5月1日付の記事を転載。一部情報を更新]
──新しい作品を生み出していくうえで、障壁となるものはなんでしょう?
出版社は基本的に前例主義なんです。「今までこれで成功してきた」という過去の成功例にのっとって物事を決めるから、なかなか新しい冒険ができない。『YAWARA!』がヒットした時、編集部からは、バルセロナ五輪のクライマックスを描いた後も連載を続けてほしいと何度も説得されました。でも、絶対に嫌だと断ったんです。
『YAWARA!』はもう7年をかけて描き切っていて、これが終わったら、次はずっとやりたかったミステリー作品をと思っていた。でも当時の漫画界ではミステリーものって売れたためしがなかった。編集部からは「ミステリーだけはやめてくれ!」と懇願され、とにかく女の子を主人公にしたスポーツものを頼むと言われました。オリンピックで金メダルを目指す話はもう描き尽くしたので、それなら、スポーツで賞金稼ぎをする女の子の物語ならと『Happy!』を始めた。
けれど、自分でも『Happy!』は『YAWARA!』が到達した地点には届かないなと分かっていました。「それでもいいんですね?」と念押しをして連載を始めた。実際、やはり『YAWARA!』には数字では及ばなかったけれど、『Happy!』は大好きな作品なんです。それは、自分の中で「これだったら描きたい」と思えるものを描いたから。
その後、1994年に満を持して『MONSTER』でミステリーに打って出たら、やっぱりドーンと売れた。世の中は待っていたんですよ。でも、その「気配」を編集部は感じ取っていなかった。僕はずーっとミステリーだと言ってたのに!(笑)
新しい試みは「ポップな装い」で出す
──表現者として描きたいものと、そうしたビジネス面や読者の目線との折り合いはどのようにつけるのですか?
世の中に広く受け入れられる、ある種「ポップ」な感覚というものがあると思います。例えば、ビートルズが初めて世に出てきたとき、「なんだこれ!」と最初は多くの人が面食らったけれど、彼らは根幹にポップさを持っていたからこそ、どんどん実験的なところまで踏み込んでいくことができた。
読者の目線に合わせてしまうことはしませんが、描く内容はどんどん新しい表現を試したり、前衛的になったとしても、それを届ける時にはポップな装いをさせ、入り口を広くしておくのは大事だと思っています。僕自身、ポップなものが好きだというのもある。主人公がかわいければ、それだけでも読んでくれる人は増える。『MONSTER』のような難解なミステリーでも、美形のキャラクターが出てくれば女性ファンも増える。装い方の工夫で、新しい試みにも読者がついてきてくれるのではないかと思っています。
トキワ荘が担った「描く交流」をNHK「漫勉」で
──現在、NHKでシリーズ継続中の番組「浦沢直樹の漫勉/漫勉 Neo」を通じて、様々な漫画家の創作の現場を紹介されていますね。作家のペン先や仕事場に密着するカメラ、ゲスト作家とのやりとりが、今まで知られることのなかった漫画家の仕事の細部を面白く伝えています。
僕は8歳ごろから漫画を描き始めましたが、その頃から思っていたことがあるんです。親戚のおじさんや友達などが、僕が描いた漫画を見て「うまいな! これならプロの漫画家になれるよ」なんて気軽に言う。それを聞きながら、「何も分かってないなぁ。 漫画ってそんな甘いもんじゃないよ」と思っていた。それから50年余りたって、相変わらず、みんなこんなに漫画を読んでいるのに「漫画のこと全然分かってないぞ」 と。そんなことを放送作家の倉本美津留さんたちと話したのが、番組立ち上げのきっかけになりました。
この番組で一番勉強させてもらっているのは、僕じゃないかと思います(笑)。番組を通じて知ったテクニックは、自分でも全部試してみます。「えーっ! こうやるんだ!」という発見ばかりです。漫画の描き方って本当に一人一ジャンルで、作家さんによって全く違うので、漫画家同士でも「○○先生、こんな描き方をするんだ!」と、互いに見ていて新鮮な驚きがある。
先日、復元されたトキワ荘に行きました。かつて手塚治虫先生と寺田ヒロオ先生のいたトキワ荘に、石ノ森章太郎先生、藤子不二雄先生、赤塚不二夫先生など多くの若手漫画家が集い、みんながそれぞれを手伝ったりする中で、技術の伝達や交流が生まれた。けれど、実際に行ってみると、今の漫画を描いている若い子たちが、このアパートで共同生活をして描くというのはキツいだろうなと思った。
当時の作家たちは無頼風の人も多かったけれど、今の漫画家はどんどん個室に引き籠もるようになってしまったから。この番組が、トキワ荘がかつて担ったような、描くことを通じた交流の役割も果たすことができればいいなと思っています。
──休まずに漫画を描き続けてこられた活力の源や、納得がいくまで描きたいという探求心の源泉は何でしょう。
僕に「描け、描け!」と常に言ってくるのは、中学2年生の時の自分なんです。下手なものを描くとすごく怒るのも、そのウラサワ少年。
中学2年生の初夏に、府中の実家の縁側で、僕は手塚先生の『火の鳥』を読んでいました。当時は劇画ブームや石ノ森章太郎先生の時代になっていて、『あしたのジョー』が大ヒットしていましたから、手塚先生の漫画はもう遅れていると思われていた。ちょうどその頃、倒産間際の虫プロが手塚作品の廉価版を連発していて、安くなった『火の鳥』を全巻そろえて読んだんです。
「こんなことを漫画で描ける人がこの世にいるんだ」と完全にノックアウトされてしまい、「すごい人がいるなぁ……」とただ呆然として、気づいたら日が暮れていた。その感じが60歳を過ぎてもずっと続いている。だから、自堕落になったり、怠けようとしたり、「疲れたなぁ」なんて思っても、あの時の自分が「その程度の漫画描きなのか、お前は!」と、ずっと叱咤してくるんです。今でも、世間で誰にどう評価されるかよりも、あの中2のウラサワ君が何と言うかが大事ですね。
(写真/平岩 享)





