臨床心理士として、現代人の心の問題と向き合ってきた東畑開人氏。2022年3月刊行の著書『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』(新潮社)が増刷を重ね、注目を集めた。1990年代の心理学ブームが去って約20年あまり、仕事や家族の問題、孤独感、社会との折り合い方の難しさなど、時代の変化の中でさらに複雑になった「心の問題」に正面から取り組む内容だ。[日経クロストレンド 2022年6月3日付の記事を転載。一部情報を更新]
──仕事や家庭、パートナーとの関係など、誰もが抱く身近な悩みへの向き合い方を、夜の海に小舟で漕(こ)ぎ出す航海に例えながらひも解く、「読むセラピー」として話題の本書。印象的なタイトルに込められた、執筆の動機を教えてください。
今はまさに「なんでも見つかる」時代です。「多様性」という言葉に象徴されるように、個人が生き方に無限の選択肢を持った時代といえます。それは言い換えれば、一人ひとりが決まった地図のない、誰も道筋を教えてくれない自己責任の「自由」の中で選択肢と向き合い、キャリアを築いたり人との関係性を結んだりしていかなければならない、過酷な時代になったということでもあります。
ひと昔前は、多くの選択肢があることは豊かさの表れでした。しかし今は、ネットを探せばそれこそ無数に選択肢は見つかるけれど、豊かさというよりもリスクばかりを感じてしまうのではないでしょうか。なんでも見つかるけれど、どれを選べばいいか分からない。そんな、自由だけれど先が見えない「夜の航海」時代の、心の本を書きたいと思ったんです。
読者からは、「読んで寂しくなった」「孤独を感じた」といった反応もありました。本書を通じて、自分の寂しさや悲しさに気付いたと。そうした感情と向き合い、受け入れるのはつらいですが、心にとっては大事なことでもある。コロナ禍以降、より孤独になりやすくなっている世の中で、多くの人がそれを実感しているのではないでしょうか。
「心」はいつのまにか、やっかいなものになっていた
──タイトルの後半は「こころだけが見つからない」と続きますが、東畑さんは前著『 心はどこへ消えた? 』(文藝春秋)でも、90年代の心理学ブームが去った後、個人の心の問題に対する社会の関心の変化を指摘していました。
90年代というのは、人々の関心が自己の内側へと向かっていた時代でした。例えば、当時に書かれたものも含め、村上春樹さんの小説にはよく井戸が出てきますが、彼は自身の創作活動についても、自分の深層には未知の豊かなものが沈殿していて、その「井戸」の底へと潜ることで物語世界を引っ張り出してくるのだと捉えていました。同じように、社会全体でも、心の深層に関心を向けることで、まだ見ぬ豊かな世界に触れられる、知らない自分に出会えるといったポジティブなムードがありました。
しかし、社会から豊かさが失われていくのと並行して、人々の関心はむしろ、厳しい社会の現状に対して自己をいかにアジャストしていくかという方向へと変化しました。深層を探求するよりも、表層をきちんと整えること。心の問題についても、「心とはちゃんとマネジメントしておかないと、人生に悪影響をもたらすやっかいなもの」という風潮が強まり、心理学とは自己をコントロールするための手段だという考え方が広がっていきました。もちろん、コントロールすることも大事です。しかし、コントロールばかりを重視すると、心が窒息してしまうこともある。
──本書は、そのように厳しさを増す社会の中で、複雑な心の問題を見つめ直すカウンセリングの過程を、作中に出てくる架空の人物たちの物語を通じて疑似体験できる構成を取っています。相談者の心の問題に耳を傾け、見つめ直す手助けをするカウンセリングとは、生きていくための物語を共に作っていく作業だと言えるでしょうか。
微妙なニュアンスになりますが、カウンセリングとは「心に本当のところ、どんな物語があったのか」を理解する時間です。全く新しい何かをでっち上げるものではないんですね。心には複数の物語が同時に存在している。だから今、自分で意識している物語とは別のものが自分の中に存在していると気付くことには意味があります。
例えば、過去の経験から「結局、俺はいつも人から裏切られて終わるんだ」というストーリーを信じて生きている人がいる。裏切られたと思うたびに「まただ」と傷付き、関係を切ってきたかもしれません。でも、心にはまた別のストーリーもある。相手に分かってほしい、という思いがそこにはあるかもしれない。その気持ちに気付くと、関係を切る決断をするまでに10秒待つ、あるいは1週間待つことができるかもしれない。このちょっとした時間が、本当は相手から完全に裏切られたわけではなかったと気付かせてくれる。心の中の小さな声が、行動に小さな変化を引き起こし、それが人生全体をじわじわと変えてくれる。そういう営みだと思うんですね。
カウンセリングは「読まれない物語」に耳を傾ける仕事
──心を取り扱う分野には、心理学以外にも宗教や文学など歴史的に様々なジャンルがありますが、その中でカウンセリングの立ち位置、よって立つ価値は何だと思いますか?
宗教や文学は親戚です。4代くらい遡れば祖先は同じだと思っています(笑)。宗教が「神」というスケールの大きな物語によって人の心を救済するのに対して、カウンセリングはもっと人間的なサイズの、市井の人々の物語に関わる仕事だと思います。また、文学が人に読まれることを目的として書かれた物語であるのに対し、カウンセリングでは「みんなに読まれない物語」が問題になります。ツイートすることのできない、自分のノートに書くしかない話って、人にはありますよね。そういう「裏話」を扱うためにある仕事なんです。
資本主義の社会というのは、基本的に「悲しみ」のモードがない。どんどん変化しよう、成長しようという前向きさを前提につくられています。しかし、その中で生きている人間の人生には、喪失に苦しんだり、現実に幻滅したりする局面が必ずある。そういう資本主義からこぼれ落ちたものに取り組む専門家として、僕らはいるのだと思います。
心の複雑さを受け入れるための「補助線」
──本書の中では傷付き迷う心に向き合うためのヒントを、「心の補助線」と呼んで紹介しています。例えば、心の中で相反する「衝動に突き動かされる自分」と「衝動を抑えて現実的な対応をしようとする自分」を、「馬とジョッキー」の例えで理解しようとしますね。
「社会に適応したい」「人の期待に応えたい」と思うとき、僕らは自分で自分をコントロールする「ジョッキー」を働かせています。だからこそ、仕事で目標を達成できなかったりすると「私はダメな人間だ」と思い悩んでしまう。けれど、カウンセリングの場で「本当は周囲の期待なんて知るものか、従ってなんかやらないと思うあなたもいたのでは?」と尋ねると、「確かに周囲の勝手な期待にムカついていました」と、心の中に押し込まれていた「馬」の部分の声が聞こえるようになります。そうすると、それはただの無能力による失敗ではなく、自分なりの反抗だったことが分かってきます。
──「補助線」は悩みをシンプルに考えるためではなく、自分の中に相反する複雑なものがあることを意識するために引くのですね。
物事をシンプルに考えることが役に立つ局面もたくさんあります。今の世の中は、あまりに色々なことが複雑すぎるんです。職業選択のような人生を左右する決断から、買い物やホテルの予約まで、無数の損得の組み合わせがあり、何をするにも先々のリスクを常に計算して生きなければならない。考えれば考えるほどリスクは膨れ上がっていく。いっそ全部やめてスッキリしたくなる。
スッキリしたいというのは、言わば「神の視点」に立ってごちゃごちゃした状況を俯瞰(ふかん)的に捉え、効率的に考えたいということです。でも結局、人間は神にはなれません。心とは本質的にごちゃごちゃとした複雑なものなのです。その複雑さをのみ込んで、人は大人になっていくのではないでしょうか。生きていくのが難しい複雑な時代だからこそ、心に補助線を引くことで、自分の中にある様々に相反する複雑さに向き合い、認めることで救われたりもする。だから、この本は実は人間讃歌なんです。
「自立」と「甘え」に引き裂かれるキツさ
──「依存」は一般的に、克服すべきネガティブなものだと捉えられがちですが、東畑さんは前著の『 居るのはつらいよ 』(医学書院)においても、人が安心して生きていくためには必要なものだと、言わば「依存のススメ」を説いています。そもそも、なぜ日本では「依存」がネガティブに捉えられるようになったのでしょう。
ちょうど今、『離婚の文化人類学』(みすず書房)という、日本の離婚事情についてのフィールドワークをまとめた研究書を読んでいました。かつて日本の結婚は、西洋的な自立した者同士による個人と個人の契約というよりも、もっと曖昧な依存関係によって結ばれているものでした。70年代に精神科医の土居健郎さんが書いた『「甘え」の構造』(弘文堂)でも記されているように、日本ではひと昔前までは「甘え」=依存は、どちらかというとポジティブに捉えられていた訳です。
それが、小泉改革以降の新自由主義の中で「自立」が声高に求められるようになり、「甘え」は悪者になっていったことを著者は書いています。例えば、「自分の努力で成果が出せない、仕事ができないのは単なる甘えだ」というように、人に頼るのはよくないことであり、自立できない人間はよくないというムードに変わっていったんですね。
社会が「自立」を求めるほど人は寂しさが募り、つながりを求めたくなる。しかし、つながりを求めると「甘え」になってしまう。このジレンマが、この約20年あまり、多くの人が実感してきた今の社会のキツさの一因だと思います。なので、「依存は結構いいものですよ」というポジティブな面も発信したいと思ったんです。昔と同じような依存では通用しないにしても、人に頼ったり、助けてもらうこと自体は悪いことのはずがありませんから。
費用対効果か「人間」か
──確かに、自立して働き、社会に対して利益を与える人間であるべきだという圧力は、教育も含め年々高まっていると感じます。
「人的資本」などという言葉がある通り、今では教育は「人材育成」の現場であり、将来の収益を期待した投資のメタファーで語られている現状があります。すべてが数値や、費用対効果で測られてしまう。
子供への投資に対し、費用対効果を求める気持ちも分かります。それも大事なことだと思う。うまくいっているときはそれでいい。だけど、何かにつまずいたとき、費用対効果を取るか「人間」を取るかという、決定的な局面が子育てには訪れます。そのときには「人間」を取れた方がいいと思うんですね。
これは社会学者の筒井淳也さんの本(『親密性の社会学 縮小する家族のゆくえ』(世界思想社))に書いてあったことですが、資本主義では、貨幣は回せば回すほど増殖していきます。ため込まずに回し続けるのがよいとされています。一方で人間同士のつながりは、短期でグルグル回すとすり減っていく。つまり、人間関係は長期でホールドしている方が価値が出てくる珍しい財だといえます。古くからの友人との付き合いを考えると分かりやすい。ケンカをすることもあるけれど、仲直りしてお互い大人になることで「色々あったな」と言い合える関係に成熟していく。
カウンセリングをやっていて思うのは、短期勝負での決断は案外健康によくないです。目の前の問題を短期的に逆転させようとすると、無理が出るんですね。僕は「様子を見よう」という言葉が好きです。時間は多くのことを解決してくれますし、心は時間をかけて変化した方が自然です。特に人間関係の問題については、長期的なスパンが重要だと感じます。人生は長いですからね。
(写真/髙山 透)





