政治学者で東京大学先端科学技術研究センター教授の牧原出さんが選ぶ、「日本の政治に絶望している人に読んでほしい本」3回目は、『宰相 吉田茂』(高坂正堯著)、『田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者』(牧原出著)です。敗戦後の日本という過酷な舞台で、信念を貫いた2人の姿勢は、まさに「めげない人」といえるでしょう。

二流外交官が非常時に活躍

 日本は明治維新、第2次世界大戦という危機を乗り越えてきました。今改めて戦後の日本がどのようにつくられたかを考えると、吉田茂の存在が大きいことが分かります。そこで今回は吉田茂と、同時代に活躍した田中耕太郎の評伝を紹介します。

 まず、1冊目は『 宰相 吉田茂 』(高坂正堯[まさたか]著/中公クラシックス)です。

 吉田茂というと、池田勇人や佐藤栄作らを育てた「吉田学校」に象徴される、「大物政治家」というイメージがあります。または気に入らない新聞記者に水をかける、ステッキを振り回す、「バカヤロー解散」と、ワンマンで「強烈なリーダー」という姿が思い浮かぶかもしれません。

『宰相 吉田茂』(高坂正堯著)
『宰相 吉田茂』(高坂正堯著)
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 しかし、首相になる以前の吉田茂は、本流を外れた外交官でした。当時の外務省における出世街道は欧米赴任でしたが、吉田は20年近く中国に赴任、満州国における日本の利権を強固に主張していました。

 第2次世界大戦中は親英米派の態度を取り、投獄もされました。敗戦後は外務大臣を経て内閣総理大臣となり、敗戦処理に憲法制定、サンフランシスコ講和条約の締結を行いました。

 戦前は吉田茂の義父である牧野伸顕(のぶあき)や義祖父の大久保利通のほうが大物政治家であり、吉田は大きく見劣りしていました。しかし、後から思えば、ダグラス・マッカーサーと互角に渡り合うのは、吉田茂のように異常といわれるくらいの強烈な個性を持った人物でなくては無理だっただろうと思います。首相にこそ適した人物だったのです。

 吉田茂の魅力は何かといえば、その「負けっぷりのよさ」です。日本は第2次世界大戦で負けたけれども、卑屈になる必要はない。負けたなりにいくらでもやりようはある。言うべきことはしっかり言う──といった姿勢は「グッドルーザー」そのものです。

 日本は日米安全保障条約を締結しますが、憲法9条を盾に、決して大規模な武装はしませんでした。防衛費を膨らませず、通商や国内のインフラに投資し、戦後の日本復興の基礎をつくります。この9条を盾にした軽武装、通商国家という姿勢は、今なお日本外交の基調になっています。

 もっとも、自国の負けを認めて、諸外国と交渉するのは非常に苦しく、つらい日々だったはずです。吉田茂の息子で、文芸評論家である吉田健一は、戦時中の吉田には「焦り」というものがあったと回想し、サンフランシスコ講和会議に出席した吉田について、「大変だったのだろう」と見ていました。

 もしかしたら、その反動で新聞記者に水をかけたり、ステッキを振り回したりという暴挙に出たのかもしれません。そして、サンフランシスコ講和条約を締結した後は、そのワンマンぶりが嫌われ、首相の座を追われてしまいます。

 本書ではそうした吉田茂の一生を、高坂正堯の老練な文章が見事に描き出しています。吉田茂は、占領下という非常時に未来を切り開く首相として全体を統括する能力にたけていた。『宰相 吉田茂』でいうところの「宰相」という言葉に感心させられます。

歴代最長10年の最高裁長官

 そして、もう1冊は私の書いたものですが『 田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者 』(牧原出著/中公新書)です。田中耕太郎は歴代最長10年にわたり、最高裁長官を務めた人物です。

 戦前は東京大学教授として大学の自治を守ろうとし、戦後は第1次吉田茂内閣で文部大臣となり、教育基本法の制定にかかわりました。商法学が専門であったことから、手形や小切手といった商取引の世界法に関する研究も深めます。いわば諸外国と経済価値を共有しながら、経済以外の部分でも世界共通のルール、共通の価値をつくっていこうとします。吉田茂の通商国家論と同じ考え方です。こうしたリーダーが戦後の秩序をつくっていったのです。

『田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者』(牧原出著)
『田中耕太郎 闘う司法の確立者、世界法の探求者』(牧原出著)
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 さらに、その後は参議院議員を経て、吉田内閣時代に最高裁長官に就任。在任中には「松川事件」「砂川事件」といった世間を揺るがす重要事件の判決も主導します。当時は左翼運動が盛んで、共産党に関する事件では裁判所に関係者が押し寄せ、傍聴席はみな被告人の味方ということもあったようです。また一方で、政府の意向に沿うような判決を求められることもありました。

 そうした状況の中で、どうやって司法を守っていくか、田中は厳しい闘いを強いられました。なぜ、田中が屈しなかったかというと、持ち前の不屈の精神に加えて、カトリックの信仰心に支えられていたからです。

 最高裁長官を退いた後は国際司法裁判所の判事となります。日本は第1次世界大戦の戦勝国として、戦後に創設された常設国際司法裁判所において、安達峰一郎という所長や多くの判事を輩出していました。第二次世界大戦後に、敗戦国として初めて田中が国際司法裁判所の判事となったことで、国際社会の司法における日本人の役割が復活しました。その後、小田滋、小和田恆、岩澤雄司という尊敬される3人の裁判官を生む流れにもつながりました。

戦後日本を支える

 田中耕太郎と吉田茂は同時代の人物です。敗戦後の外交と国際社会における司法という舞台で、共通する仕事ぶりが見られます。異なる価値観の中で激しい議論も辞さない。めげずに自国の価値をしっかりと守る。そして、ひとたび交渉結果なり判決が出たら、それをもとに世界を見据える──という姿勢です。

「田中耕太郎と吉田茂は同時代の人物です。敗戦後の外交と国際社会における司法という舞台で、共通する仕事ぶりが見られます」と話す牧原出さん
「田中耕太郎と吉田茂は同時代の人物です。敗戦後の外交と国際社会における司法という舞台で、共通する仕事ぶりが見られます」と話す牧原出さん
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 田中に関していえば、戦後日本で国会常任委員長、内閣閣僚、最高裁長官という3つの「長」を歴任した唯一の人物です。戦後の日本は国内外の共産主義勢力と資本主義の対立、さまざまなテロ事件、米国の厳しい要求もある中で、厳しいかじ取りを迫られたと思います。一歩間違えば、司法権が政治の介入にさらされ、崩壊ともいうべき混乱状態になったかもしれないのです。独立不羈(ふき)(他からの束縛を受けずに行動すること)の精神で司法権などの統治の制度を守るという姿勢は、21世紀の激しいグローバル競争時代に学ぶべき先例となるでしょう。

 吉田茂や小沢一郎のようなトップリーダー以外にも、戦後日本を支えてきた人たちが数多くいることを知ってほしいと思います。

 日本の政治と日本の行く末を考えるとき、本連載で取り上げた「めげない人」の本をヒントにしてもらえれば幸いです。

文/三浦香代子 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/木村輝