タワマン文学の旗手と呼ばれる覆面作家の麻布競馬場さんは、サラリーマン作家として本業と執筆業の両方に追われ、忙しい日々が続きます。ある日、たまった仕事を片付けようと、「執筆逗留(とうりゅう)」のために向かった先は、大分県由布院のある温泉旅館でした。(編集部より)

(イラスト=副島あすか)
(イラスト=副島あすか)

 今年の大ヒット本のひとつに『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)がある。統計をたどれば労働時間は昔のほうが長かったはずなのに、なぜ日本人は最近になって急に本が読めなくなったのか? その答えを探るべく、密接に絡み合う労働史と読書史を解きほぐしてゆく知的アドベンチャーであるところの本書は、間違いなく日経ビジネスの愛読者たちにとっての必読書だ。

 「必読書とか言われても、本が読めないことで別に困ってないんですけど……」なんて思う人もいるだろうが、本書の射程は読書だけではないというのがポイントだ。「働いていると本が読めない」という命題における「本が読めない」は、たとえば「好きなバンドのライブに行けない」や「友達と飲みに行けない」にも置き換え可能だ。そして、拡大解釈すれば「働いていると休めない」というふうに言い換えることもできるかもしれない。

 残業が終わって、家にたどり着けばもう22時過ぎ。どうにかシャワーだけは浴びて、帰りにコンビニで買ってきた妙に味の濃いドリア(こういう時、なぜ普段の自分なら買わないものばかり買ってしまうのだろう?)をレンジで温めて食べる。飲むかな、と思って買ってみたプライベートブランドの安い缶ビールには結局手が伸びず、冷蔵庫にしまったままだ。歯磨きもどうにか済ませてベッドに飛び込んだところで、つい手はスマホに伸びる。最近ダウンロードしたばかりのポケポケ(筆者注:ポケモンカードのゲームアプリ「Pokémon Trading Card Game Pocket」の略)を開きつつも、頭の中は明日の仕事のことでいっぱい……。そんな生活に心当たりがあるなら、きっと本書は「あなたを休ませないもの」の正体を知る助けになるはずだ。

仕事の余暇をまるごと仕事にささげてしまう

 そんなふうに偉そうな説教を垂れている僕もまた、実は最近うまく休めていない人間のひとりだ。

 2022年秋に短編集『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)を刊行しデビューしてからというもの、明るいうちは会社で働きつつ、日が暮れると執筆業をやっている。いわゆるサラリーマン作家というやつだ。

 2023年はずっと老舗文芸誌『別冊文藝春秋』で連載をやっていたから、締め切り直前は29時や30時までパソコンにかじりつく日々が続いた。2024年に入ると連載をまとめた新刊『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋)が春先に発売され、初夏の頃にはそれが直木賞候補作になるという幸運に恵まれたから、書店さんへの挨拶回りや取材対応などに追われる日々が続いた。その後も直木賞落選に伴う特需仕事があり、各社の担当編集からは「そろそろ次回作を」とありがたい催促があり、様々な相手先との「ご挨拶」やら「打ち合わせ」やらといった様々な名目の飲み会があり……。

 フリーランスである作家にとって、暇ほど怖いものはない。兼業なので収入面は問題ないが、仕事がない、誰からも必要とされていないという事実は自尊心を徐々に削ってゆく。そういう意味では、デビューしてからの2年間をずっと多忙のまま過ごせたことは大変に幸運なことだし、仕事を与えてくれる発注者の皆さまには感謝の念が尽きない。

 サラリーマンとしての仕事は愛しているから辞めるつもりはないし、そうなると限られた時間の中で執筆業をやるしかない。作家の仕事はただ書くことだけではない。ある意味では日常のすべてが取材であるわけだから、真面目にやろうとすれば四六時中気を張ることになる。次回作の参考になりそうな本や映画をいくつもチェックしておく必要があるし、ベッドに寝転がったり湯舟につかったりしている間にも、頭の中では考えごとが跳ね回っている。友達と飲みに行っても、何か小説のネタになりそうな面白い話が出てこないかとひそかに期待してしまう。

 つまり、まったくと言っていいほどに休めなくなった。本来であれば趣味や憂さ晴らしといった余暇のために使っていた仕事以外の時間を執筆に売り渡してしまったのだから、言われてみれば当然の話だ。でも、振り返ってみると、それはここ数年だけの特殊な状況ではない。サラリーマン一本槍(やり)でやっていた頃は、たとえば土日は仕事に役立つ資格の勉強をやったり、ひどい時は「翌週の自分を助けるため」とかいう名目で休日出勤して、たまった事務作業を済ませたりと、仕事の余暇をまるごと仕事のためにささげていた。そういう意味では、余暇を売り渡す相手先が変わっただけで、僕の余暇に対する本質的なスタンスは昔から変わっていないのかもしれない。

 おそらく僕は、休むのが苦手な人間なのだ。休むことは生きるために必要だ、ということは理解しつつも、それでも誰からも必要とされないままに、あるいは誰に対しても価値を提供できないままにのうのうと「休んでいる」という状態は、多少の寝不足や節々の痛みなんかよりもずっと辛い。それならばいっそ、やや無理をしてでも働いていたほうがいい。仕事の報酬は仕事だ、働けば働くほど仕事が来るし、そこで成果を残せばもっといい仕事が来るというものだ。でも、今でこそギリギリ残った若さを燃やしてどうにか走り続けられているものの、そんな働き方は早晩破綻するだろうという不穏な予感もある。

平日26時にラーメンを啜(すす)れる経営者たち

 一方で、そんな働き方を四十代や五十代になっても軽々とやってのける人たちがいる。港区ではハクビシンよりも多く見かける、経営者たちだ。『なぜ働いていると~』が刊行された当時、「働いていても本が読める社会」「全身全霊ではなく半身で働ける社会」を提唱する本書は、いわゆる「ワーカホリック」である彼らの間で、大きな話題と小さな反発を呼んでいた。

 「若手ビジネスパーソンには足腰の力をつけるために全身全霊で働かなければならない時期があるのだから、誰かの優しい言葉に騙(だま)されてその時期を逃せば今後一生後悔することになる」

 「っていうか、俺たちは死ぬほど働きながら本を山ほど読んでるわけじゃん。働きながら本も読めないヤツが、働かなくなったところで読めるはずがなくて、余った時間はせいぜいスマホに吸い取られるだけでしょ」

 「ほとんどの人間は、命を燃やすほどの趣味も推しも持ってないんだから、彼らに仕事という生きがいを与えてあげることはむしろ優しさなんだよ。そうすれば、本人だって給料が増えるし、社会の幸福の総量も増えるし、みんなハッピーじゃん!」

 と、まぁそんな主張だ。そんな彼らに「ところで皆さんは、どんな感じで休んでます?」と聞いてみると、「いや、普通に寝るだけ」と返ってくる。言われてみると、この質問をしているのは火曜23時の西麻布のバーだし、インスタストーリーを見る限り、僕が帰ったあとも彼らは飲み続け、しまいには26時過ぎにラーメンまで食べたらしい。それでいて、彼らは翌朝9時には素知らぬ顔でオフィスに出勤し、パーソナルトレーニングやキックボクシングで汗を流し、アートイベントの関係者内覧に顔を出し、そのうえ文芸書や哲学書といった大量の本まで読んでいる。もしかすると、彼らはそもそも普通の人たちとは体のつくりが違うんじゃないかという気すらしてくる。

 資産家の家に生まれたとかいう例外を除けば、人間にとって働くことは生きるために不可欠な行為であり、そこに多くの時間をささげなければならない。お金を稼がないとパンは買えないし、人はパンのみで生きられるわけじゃないから、たまには贅沢(ぜいたく)だってしたくなる。ただ生きているだけで、まるで税金のごとくお金がかかるということだ。そうである以上、働くことを生涯の楽しみとし、それによって自己実現を遂げることができるとすれば、それは素晴らしいことだろう。しかし、それは平日26時過ぎに平和な顔でラーメンを啜(すす)れる人間たちにだけ耐えられる人生の形であるに違いない。死ぬほど働き、それでいて本も読むという彼らの生き様には、きっと特殊な状況が色々と重なった末にのみ実現するものなのだから、すべての人が目指すべきではないし、すべての人に強要されるべきものではないと思う。

頑張って働くことが悪者になってほしくない

 働くべきか、休むべきか――そんなことを考えているうちに、合計するとちょっとした短編小説くらいのボリュームになる仕事が手元にたまっていた。そのうちのいくつかは11月末締め切りということだから、あまりのんびりはしていられない。そこで僕は、目の前にある締め切りを乗り切りつつ、働くことと休むことのバランスという哲学的な問いに向き合うべく「執筆逗留(とうりゅう)」という奇策に出ることにした。

 大分空港からバスで1時間弱。由布院駅から十数分歩いたところにある「STAY玉の湯」は今年の1月にオープンしたばかりの新しい施設で、由布院御三家と称される老舗旅館の一角を担う「玉の湯」の別館にあたる。作業用のテーブルと壁一面の大きな窓、エアウィーブの高級マットレスが備え付けられた客室。清潔で明るく、露天風呂も楽しめる大浴場。早朝から深夜まで、セルフサービスで気兼ねなくお茶やコーヒーを楽しめるラウンジ……。執筆業者にとってはこれ以上ないほど理想的な環境がそろったこの宿を、僕は二泊三日の滞在先として選んだ。

 作家といえば、温泉旅館に籠って執筆するものだという曖昧な印象があった。当時は俗世から離れるような意味合いもあったのだろうが、現在においては原稿の送受信や打ち合わせもパソコンとWi-Fi環境があれば自在だし、一方で「今晩マダミス(筆者注:マーダーミステリーの略)しない?」みたいなLINEが届いても「すみません、いま由布院におりまして」と断らざるを得ないから、そういう意味では自然と禁欲的姿勢を強要される。気晴らしに散歩をすれば、標高400mの町では冷たく澄んだ空気が無料で吸い放題だし、もちろん宿では温泉に入り放題だ。

 朝起きたらまず温泉、それから執筆、散歩、打ち合わせ、温泉、執筆、散歩、温泉……。働くことと休むことが何度も切り替わるうち、その境界が溶けてゆくような感覚があった。散歩をしたり温泉に入ったりしている間にも、さっき書いた分の推敲(すいこう)やこれから書く分の展開について考えることができる。そうして働くことが効率化できれば、早めに脱稿して夕食の時間をゆっくり取ることができる。そういえば、歩いてすぐの玉の湯本館には気の利いた食事処とバーが併設されていた。「葡萄屋」で鴨(かも)とクレソンの鍋をつつき、そのあとは「ニコルズ バー」で締めのマティーニでも啜(すす)ろうか。働くことと休むことがうまく噛(か)み合い、これまでにないくらい美しく回った1日だった。

 テレワークの誕生によって自宅が、ワーケーションの誕生によって旅行が仕事とは無縁の場所ではなくなった。どこでも働けるということは、休むしかない場所がなくなるということでもあるのだから、そのことに対して「仕事から永遠に逃れられない」とプレッシャーを感じる人もいるだろう。それに、働き方改革によって「たくさん働く人」が改革されるべき悪者になってしまった感じもあり、若い会社員からは「残業していると、何か悪いことをしている気がしてソワソワする」なんて話を聞いたこともある。

 それでもやっぱり、今日は原稿料換算で何万円分の仕事をしたな、というホクホクした気分を携えて飲む酒ほど旨(うま)いものはない。これぞ働く人間の特権だろうし、今回の旅を経て、少なくとも当面の間はそれを手放したくないという気持ちが固まってきた。過度の労働が強要されることはあってはならないという前提はありつつも、頑張って働くことが悪者になってほしくないとも思う。それこそ旅先や旅館を選ぶように、人生と労働とのサステイナブルな関係性をオーダーメイドで作っていければ最高だろうし、それをのんびり考えるために、温泉宿でのワーケーションは最適なきっかけになるかもしれない。

日経ビジネス電子版 2024年11月29日付の記事を転載]