平成における「意識高い系ブーム」に対する反動として「それってあなたの感想ですよねw」と論破してみせる「令和冷笑世代」が生まれた―― タワマン文学の旗手で兼業作家の麻布競馬場さんは、そのように指摘します。熱狂と冷笑の無限ループから抜け出すために、どうすればいいのでしょうか?(編集部より)

冷笑、という言葉が国民的悪役になって久しい。
汗水たらして頑張っている人を「●●するのは正直ムダだと思いますw」と馬鹿にする。みんなが楽しんでいるところに「●●してる人全員バカですw」と水を差す。たとえ反論されても、データを盾に「それってあなたの感想ですよねw」と論破してみせる…… 高いところにある観客席に座って、プレイグラウンドにいる人たちに評論家気取りであれこれ言うスタイルは、数年前まではネットを中心にずいぶん流行っていたはずだ。それが今や、「冷笑だ!」というカウンターがすっかり普及したし、ひとたびそのカウンターを浴びた人は、社会的には二度と「正義」の側に立てなくなるほどのダメージを負うようになった。
そんな、冷笑が終わったあとの時代をどう生き抜くかについては、東京大学の松尾豊研究室を卒業したのちAI領域で起業し、20代のうちに上場を経験した著者による『きみに冷笑は似合わない。 SNSの荒波を乗り越え、AI時代を生きるコツ』(山田尚史著、日本経済新聞出版刊)をはじめとして、様々な素晴らしい処方箋が出てきている。
一方で、冷笑がなぜ終わったのか、あるいはそもそも、冷笑がなぜ始まったのかについて論じたものは少ない気がする。それを知ることで、もしかすると薬がよく効くなんてこともあるかもしれない。
一介の会社員として時代に参画し、それと同時に一人の作家として時代を俯瞰(ふかん)してきた身として、ぜひ仮説を提示してみたいと思う。
冷笑とは「シラケ世代2.0」である
結論から言えば、「冷笑とは『シラケ世代2.0』である」というのが僕の仮説だ。
言うまでもなく、「シラケ世代」とは学生運動が収束したあとの1970年代以降に青春を送った世代をいい、その最たる特徴として「シラケていること」、つまり社会に対する無気力、無関心、無責任(いわゆる三無主義)があるとされる。
学生運動とシラケ世代は、いわばコインの表と裏だ。社会変革を求めた全共闘世代の熱狂が失敗に終わったことへの無力感が、シラケ世代という反動を生んだ。
若者の力で政治を動かそうと頑張っているのだろうが、正直ムダだと思う。勝ち目もないのに、デモやストライキをやっている人は全員バカだ。色々と反論はあるだろうが、それはあなたの感想にすぎないじゃないか。データはあるんですか?…… いかにも憎たらしいが、その背後には重たすぎる絶望感が横たわっているのだろうし、彼らの言動にはどこか「令和冷笑世代」と似通ったところがある気がするのだ。
熱狂と冷笑。この2つは常にセットであるに違いない。全共闘世代の熱狂がシラケ世代の冷笑を生んだとすれば、令和冷笑世代を生んだ熱狂があるはずだ。それは、平成における「意識高い系ブーム」だったのではないだろうか?
『多動力』(堀江貴文著、幻冬舎刊)や『革命のファンファーレ 現代のお金と広告』(西野亮廣著、幻冬舎刊)、『メモの魔力 -The Magic of Memos-』(前田裕二著、幻冬舎刊)そして『死ぬこと以外かすり傷』(箕輪厚介著、マガジンハウス刊)あたりをバイブルとし、オンラインサロンで仲間たちと切磋琢磨(せっさたくま)しながら、圧倒的に努力して圧倒的に成長する―― そんな熱狂の時代が、2010年代中盤から後半にかけて、確かに存在していた。
当時僕が通っていた慶應義塾大学にも、そんな熱狂は形を変えて漂っていた。
「先輩が立ち上げたベンチャーでインターンをしている」と自慢する人がいたと思えば、「いやいや僕は学生起業した会社を4桁万円で売却した」と嘯(うそぶ)く人もいた。「大学時代に打ち込んだことなんて、飲み会でのコールくらいだわ」とバンカラ気取っていた連中も、大学3年次になれば髪をカラスみたいな色に染めてサイバーやDeNAの説明会に赴き始めたかと思うと、「むしろ貴重な若手時代を大手企業の下積みで浪費するほうがリスクっしょ」とか言い始めたりもする。
そうして、メガベンチャーかリクルートあたりの内定を無難に獲得すると、「同期も先輩もマジで全員優秀で焦るわ~」とか言いながら内定者バイト(入社後すぐ即戦力として圧倒的な成果を出せるよう、内定先でバイトをすることだ)に勤しむ期間を経て、平日は残業からの同僚とサク飯、週末はスタバで朝活からのフットサルみたいな社会人生活を送るようになる。たまにサークルやゼミの同期と会うときは「このあいだ社内表彰受けてさぁ」あたりが一番の自慢になるし、お酒が進んで気が大きくなってくると「大手で燻(くすぶ)ってるなら、マジでうちに転職したほうがいいよ!」「20代のうちから裁量デカくて成長できるし、30歳で年収1000万は余裕らしいし」みたいなことを熱弁するようになる。
あれから10年。あれだけSNSでアツい仕事の話をしていた彼らのほとんどが、穏やかな家庭人になった。LINEのアイコンは子供の顔写真になり、たまにインスタに投稿される写真は子供の誕生日か進学を祝うものばかりだ。
「あの頃、ちょっとおかしかったんだと思う」
そのうちの一人と、先日ちょうど久々に会う機会があった。某メガベンチャーで優秀な同僚たちと圧倒的成長を日々目指し、いつか社員総会のステージで社長から直々にトロフィーを渡されることを生涯の目標としていた彼は、過労のあまり心身の健康を崩し、一時は休職したのだという。それを機に人生について考え直し、今は「多少給料は下がるけど、自分らしいペースで無理なく働ける会社」に転職するとともに、フリーランス広報をやっている奥さんと家事を分担しながら、3歳になる娘の成長を共に見守る日々を送っている。
「あの頃、ちょっとおかしかったんだと思う。俺だけじゃなくて同世代のみんなも。自分一人だけが置いていかれるのが怖かったし、いざ『正しい』側に飛び込んだら不安は消し飛んで、むしろ優越感に浸れるような感覚があったし。それが麻薬になって、抜け出せなくなっただけなのかも。自分の子供には、ああなってほしくないなぁ」
最近お酒は控えているから、とウーロン茶を啜(すす)りながらそう語る彼の顔は、どこか寂しそうでもあり、どこまでも満ち足りているようでもあった。
結局、熱狂はほとんどの人を救わなかった。
圧倒的成長のための圧倒的努力にすべての人の心身が耐えうるわけではないし、コメもマンションも値上がりが止まらない今日の東京において、どうにか「30歳で年収1000万」に辿(たど)り着いたとて、その程度の給与水準では、かつて夢見たアーバンライフなんて実現不可能だ。
積み上げてきた業務スキルがAIに取って代わられないかとヒヤヒヤしつつ、定時で帰りたがるZ世代の後輩社員の取り扱いに苦慮しつつ、背伸びして買った湾岸の中古タワマンの含み益をチェックすることだけが生きがいという日々…… あれ、僕、どこで間違えたんだっけ?
ひっくり返り続けるコインの表裏
かといって、例の友人のようにうまく「抜け出せた」人ばかりではないのだろう。圧倒的成長を目指して圧倒的に頑張ることも時代に強制され、しかし救われることはなく、そのうち「親ガチャ」だなんていう身も蓋もない話が科学的に証明され始めたと聞いて、無力感のどん底に落とされたまま、もう二度と動けなくなってしまった人だって少なくないはずだ。
現代は、いわゆる「大きな物語」が存在しない時代だ。目線が社会変革という外部に向いていた学生運動とは違って、意識高い系ブームは目線が自己成長という内部に向いていた。だからこそ、2010年代的な熱狂に対する反動は「他人の内部」という奇妙な方向をとった。
インターネットを見ていれば、常に誰かが自分の内部を世界に向けて発信している。そこに噛(か)み付いて、「●●するのは正直ムダだと思いますw」「●●してる人全員バカですw」「それってあなたの感想ですよねw」とかコメントしてみると、自分の絶望が少し軽くなった気がする。
自分は成功した人間ではないから、本当にそれが正しい指摘なのかは分からない。しかし、自分を代弁してくれるインフルエンサーがいるから、噛みつき方はそこから借りてくればいい。顔なき匿名発言者でいる以上は、別に自分の発言の妥当性がいちいち検証されることはない。リスクに対して、得られるベネフィットがデカすぎる!……
被害者意識をコイン投入口に突っ込んで、頑張っている人や頑張らせようとする人たちを好き放題叩(たた)いて回る「勝ち確」のゲーム。かつて僕の友人が「熱狂のゲーム」に脳を乗っ取られていったように、今度はそんな「冷笑のゲーム」に脳を乗っ取られていった人たちがいた。それがきっと、僕が「令和冷笑世代」と呼んでいる人たちなのだろう。
一方で、冷笑もまた、ほとんどの人を救わなかった。
当たり前の話だが、いつまでも評論家ではいられないのだ。僕たちは自分の人生のプレイヤーなのだから、ずっとインターネットの観客席に座っていたところで、溜飲(りゅういん)は下がるだろうが絶望の底から這(は)い上がることは永遠にない。当たり前の話だが、それに気づくのに結構時間がかかった。それだけ、冷笑というのは人間にとって強い麻薬なのだろう。
自己啓発本は時代の空気をよく反映する。ここ最近出たもののほとんどに底抜けの明るさ、あまりに素直な努力賛歌の空気が満ちているのを見るにつけ、僕たちは時代の潮目をとうに過ぎたのだと実感させられる。
それらの書籍が予言しているとおり、次に来るのはふたたび「熱狂のゲーム」であるに違いない。そして、もしかするとそれは、SDGsもDEIも全部蹴っ飛ばして、平成のそれよりもずっと過酷で残酷なゲームになる可能性もある。
そうだとしたら、実は案外、かつて僕たちが否定して掃き捨ててしまった冷笑こそが、クソみたいな時代を生き抜かねばならないあなたを守る鍵になるかもしれない。
汗水たらして頑張っているのだから、批判するな。
みんなが楽しんでいるのだから、水を差すな。
データがなくとも、私の感想は常に正しいのだから反論するな。
これまでも歴史のあちこちで見られたように、熱狂はきっと、そう言ってあなたの口を塞ぐ。そのうちあなたは絶望して、自ら目を閉ざし、耳から入ってくる「時代の声」に自分のすべてを委ねてしまうかもしれない。そうして傷付くのはあなただし、時代はその責任を取ってくれない。
本来、冷笑とは批判精神であるはずだ。熱狂に支配され、社会と自分が変な方向に進もうとするのを「本当にそれでいいんだっけ?」と立ち止まらせ、自分の力で考える時間をくれる、素晴らしい薬であるはずだ。ここ数年の僕たちが使い方を間違えていたから毒になっただけで、正しい使い方を覚えれば正しい効力を発揮してくれるはずだ。
人間も世界も、善悪二分論で語れるほど単純ではない。ひっくり返り続けるコインの表裏にただ振り回されるのではなく、必要なものを必要な分量だけ掴(つか)み取り、それをポケットに携えて生きていければいいなと思う。
[日経ビジネス電子版 2025年3月26日付の記事を転載]