タワマン文学の旗手で兼業作家の麻布競馬場さんが、なんと家を買いました。果たして、どんな経緯で、どんな家を選んだのでしょうか。そして「家探しは地獄」の真意とは……(編集部より)

(イラスト=副島あすか)
(イラスト=副島あすか)

「ゼロで死ぬ」に共感する港区おじさん

 「このあいだ、『DIE WITH ZERO』読み返したんだけどさぁ」

 どういうわけか最近、何人かの港区おじさんから同じセリフを聞いた。2020年に刊行されて以来、『DIE WITH ZERO』(ダイヤモンド社)は押しも押されもせぬベストセラーとして版を重ね続けてきたし、多くのビジネスパーソンが「人生観に影響を与えた一冊」として挙げる名著だ。

 「アリとキリギリス」という童話がある。夏のあいだもせっせと食料を集めていたアリが無事に冬を越す一方、素晴らしい季節を謳歌して遊び惚(ほう)けていたキリギリスは餓死するという童話は、世間一般的には「アリのごとく勤労と貯蓄を尽くし、厳しい冬を生き残りましょう」と読むべきであるとされている。

 しかし、『DIE WITH ZERO』はその冒頭で、挑発的にこう問いかける。

 「アリはいつ遊ぶことができるのだろう?」

 きっと来年も、アリは「去年のように生き延びたい、キリギリスのようになりたくない」という、恐怖と優越がごちゃ混ぜになった感情に駆り立てられ、一切遊ぶことのない夏を過ごすだろう。でも、それって幸せなことなんだろうか?

 預金額を増やすことばかりに必死になり、それを自分や誰かのために遣わない人生に意味はあるのか?

 お金を無駄にすることをあまりに恐れ、歓びを永遠に先延ばしにすることは、実のところ人生そのものの無駄遣いなのではないか?

 生きているうちにお金を使い切るという最高効率状態、すなわち「ゼロで死ぬ」を目指そう。人生最後の日に向けて、お金、時間、エネルギー、経験なんかの収支計画を立て、勇気を持ってそれを実行しよう。それが本書のメッセージだ。

 虫よりは長く生きるだろうが、人間の命だって永遠ではない。そのうえ、生きるか死ぬかというのは身体機能の話だけではない。今年の夏だけでも、まさしく人生の盛夏にあった有名経営者たちが「ビジネス版文春砲」みたいなものを撃たれ、ビジネスパーソンとしての人生が絶たれる瞬間を僕は何度も目撃した。

 「あれ見ちゃったらさぁ、もう『どう生きるか』より、『どう死ぬか』ばっかり考えちゃうようになってさぁ………」

 「分かるよ、俺だっていっそ、全盛期に背中から撃たれて死にたいもんなぁ……」

 「はぁ……」

 最近、こんな会話を何度も聞いた。30代で売り出した頃は「世界を変える若き革命児」だなんて賞賛され、照れ隠しみたいに「港区おじさん」を自称していた彼らも、気付けば40代半ばを過ぎ、紛(まご)うことなきおじさんになった。全員が上場や大規模M&Aに辿り着けるわけではないし、かといってビジネス以外に魂を燃やすべき何かを見つけられるわけでもない。後進に次から次へと捲(ま)くられ、もう頑張る気力はどんどん減ってゆくが、それでも今ここにある人生を、それなりに成功してきた人生を、今更すべて投げ出すことはできない。

 そういえば少し前に「YouTubeをやるべきか?」という問いが港区おじさんたちの間で流行ったのを思い出す。若者に忘れられ、若者に椅子を取られ、もはや若者の飲み会にも呼ばれなくなった彼らは、「今更ながらYouTuberになって若者にリーチすべきなのでは?」という仮説に辿り着いた。

 しかし、ほとんどの人は結局YouTubeを始めることすらしなかった。実際に始めた数人も、どれだけ投稿しても再生数が思わしくないという現実に直面し、「再生数ありきのメディアは悪だ」「僕は再生数に依存しない発信をやりたい」などと言い出した末、数少ないおじさん視聴者(ほとんど身内だろう)を相手にYouTube批判をYouTubeでやるような有様だった。ひとたび成功した人生を捨てるということは、やっぱり大変なことなのだ。

 いつまで勝ち続けられるのか? いつまで勝ち続ける必要があるのか? 改めてもう一度、若者に擦り寄るためにYouTubeでも始めてみるか? いや、どうせ負けるならいっそ…… どうも彼らは、彼らなりの「中年の危機」の中を彷徨(さまよ)っているらしい。

 アリとキリギリスが経験したように、人生には楽しい夏があり、それが終われば寂しい冬が来る。冬はゆっくりと忍び寄ることもあるし、ある日突然襲ってくることもある。何にせよ、いつか終わる人生をどう生き、どう死ぬべきか? 言うまでもなく、この問いは港区おじさんたちの専売特許というわけではない。まだまだ人生に残り時間がたくさんありそうな人たちもまた、向き合わざるを得ない問いなのだ。

「引っ越したい」という気持ちが湧き上がる

 かくいう僕もまた、少し変わった形でその問いに向き合う機会が最近あった。別に、早すぎる中年の危機がやってきたわけではない。色々あって、いきなり家を買うことになったのだ。

 きっかけは、脳みそに空き時間ができたことだった。今年の春までは書き仕事を色々と抱えていたのだが、ちょうど夏に入ったあたりで一旦すべて吐き出すことができた。さぁ、ようやく次回作の準備を…… と思った矢先、「引っ越したい」という気持ちが急激に湧き上がってきたのだ。

 2022年の夏に思わぬ婚約破棄を経験し、緊急避難的に適当な賃貸マンションに引っ越してから早3年。住めば都で結構気に入ってはいるが、オルカン投資とたまに行くレストラン巡りのほかに支出らしい支出もないし、何より執筆のために家で過ごす時間が圧倒的に増えたから、多少家賃を上げてでも快適な生活環境、もっと言えば執筆環境を手にしたい。ただ、いつまでも家賃を払っているのももったいない。どうせ高い家賃を払うなら、資産性の支出にしたほうが合理的であるに違いない。

 じゃあ、マンション買っちゃう? 本当に? 毎年こんなに値上がりを続けて、毎日のように「今年こそ大暴落する」と言われる市況の中で、本当に……?

 という悩みを、ひとりで抱えていても仕方がないので、友人の不動産ゴリラに相談してみた。不動産ゴリラとはその名の通り、不動産業をやっているゴリラ(みたいに体の大きな友人)だ。

 「とりあえず、目ぼしい物件を送ってやるよ。それ見て考えな」

 即レスが身上のゴリラは、すぐさま僕が借りられるローンの目安額とともに、その予算内で買えるマンションをいくつか教えてくれた。最初にそれをザッと眺めたときの感想は、「今買うのは馬鹿なんじゃないか」だった。

 タワマン文学なんてものを書いていることもあって、たとえば豊洲あたりのタワマンの価格がここ数年のあいだにどう推移してきたかは、あちこちから聞いてよく知っている。2021年に7000万ほどで売り出された新築2LDKが、築4年の中古物件になる頃には2倍の値段で売れたという話は腐るほどあった。2010年代中盤に買った人たちは何倍になったのか、考えるだけでもため息が出る。ゴリラが送ってくれた物件の中に気になるものがあっても、つい魔が差して新築時の売り出し価格を調べてしまい、ひとたびは昂(たかぶ)った気持ちが萎んでしまうことが何度もあった。

 「あの頃買っておけばよかった……」

 それは僕だけではなく、すべての家探しを経験した人間が一度は口にした感想であるはずだ。裏を返せば「あの頃と比べて、今買うのは損だ、今買うのは馬鹿だ」という感覚は、家を探す人間の足を極限まで重たくする。

 そういえば、かれこれもう3年ほど家探しを続けている友人がいる。彼がなかなか卒業できないのは、かつて見逃した物件すらも派手に値上がりするのを見せつけられてきたせいで、ようやく運命の物件と出会えたところで「数年前に出会えていればもっと……」と、どこか愛し切れないせいなのかもしれない。少なくとも、サラリーマンが無理のない住宅ローンで広々とした部屋を買える、あの頃の素晴らしい夏はもう去ったのだ。

 時は戻らないが、不動産が暴落すればあの時と同じ安値で買えるかもしれない―― そういう願いの存在を知ってからというもの、ネットニュースに溢れる不動産暴落論というのは、二度と戻らない夏をそれでも取り戻そうとする、まるでフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のごとく儚(はかな)い試みにも思えてくる。

地獄からさっさと解放されたい

 さて、結論から言えば、僕は買うべき中古マンションをすんなり見つけることができた。駅から近いのに静かで、人間ひとりが小説を書きながら暮らすために必要な設備は過不足なく揃っている。つまり、今の僕にとってはこれ以上ないほど素晴らしい部屋だ。家探しをスタートしてから、わずか40日ほど。その間に3軒だけ内覧をし、最後の内覧の日にそのまま買い付けを出し、その翌週には早々に売買契約を締結することになった。(住宅ローンの本審査中だから、買えずに終わる可能性も多分にあるのだけれど)

 別に、僕が決断力に富んでいたというわけでも、完璧な相場眼で未来を見通したというわけでもない。正直に言えば「家探しという地獄からさっさと解放されたい」という思いがそうさせたのだった。ただ、それは単に消極的な決断ではない。人生をよく生きるための、きわめて積極的な決断だ。

 家探しをしているあいだ、本当に四六時中ずっと、家探しのことばかり考えてしまう。真面目で凝り性な性格が、最悪な方向に顔を出したらしい。内覧に行った帰りも、近隣エリアで新しい物件が出ていないか調べてしまったほどだ。検索履歴は「エリア名 中古マンション」で埋まり、ウェブ広告もまた僕が欲しがりそうな物件で埋まった。

 早い話、生活のすべてが家探しに奪われてしまったのだ。そして、生活の中には「思考」というリソースも含まれる。僕にとっては、それが一番厄介だった。

 この物件は、居住環境としてどうだろうか? エリアの中での相場観は? あるいはそもそも、不動産マーケット自体はこれからどうなるの? 金利は? 人口は? 気候変動は?…… キッチンの浄水器から地球の未来まで、不動産を考えるにあたっては考えるべきことが無数にある。それらすべてを考えていては、永遠に答えは出ないし、永遠に頭がマンションから解放されない。

 そうなると、次回作の準備どころではない。家探しをやっているあいだ、企画書の1枚も書けなかったのだから恐ろしい。

 「あれ? 僕はもともと、いい環境で小説を書きたかっただけなのではないか?」

 そんな原点に立ち返った瞬間、自分がいかに家探しという地獄に深くハマりかけていたか気付いた。そして、そこで言う「家探し」が実のところ、「(資産性のある)家探し」であったことにも気付いた。

 何と言っても、家は人生で一番大きな買い物だ。そこで負けるわけにはいかない。だって、たった数年前に豊洲のタワマンを買った人たちはあんなに勝っているんだ。僕だって、たった数年分の遅れを軽く取り返せるだけの、資産性爆上がりのマンションをどうにか見つけて、そして合理的な価格で買わなければならないのだ……

 不動産のプロでもないくせに、何を高望みしているんだろう? このまま一生、生活のすべてを奪われ、翻弄され、いつ戻るとも分からない季節を待ち続けるつもりなのか?

 急に眼が醒めたような感じがして、僕は人生の真に価値ある時間を防衛するため、さっさと家探しを切り上げることを決意したのだった。

 「えっ、家買ったの!? ●●っていう専門家が、今年こそ大暴落するって言ってたよ!」

 契約したその日にも、案の定そんなことを言われた。確かに、見方によってはまさしく「何となく買った」マンションは明日にでも暴落し、僕は不動産と資産性をめぐるゲームで負けてしまうかもしれない。

 でも、僕が人生でやるべきことは、別に家探しだけではない。そして、そのことは小説家の特権でもない。仕事、家庭、趣味、友人…… あらゆる人の人生に、無数の道がある。たったひとつの道に生活のすべてを突っ込み、そこで勝つことだけに人生のすべてを注ぎ込んでしまうのは、それこそ人生の無駄遣いだ。

 ある道を進み、そこで冬の厳しさに負けたとしても、人生にはまた別の道があって、そこにはまた別の冬そして夏がある。そっちで帳尻を合わせることができれば、それはそれでいいような気がするのだ。

 「ゼロで死ぬ」ということは、本質的にはお金の話だけではないはずだ。死ぬまで使い切れないだけのお金を貯め込むことと同じくらい、死ぬまでお金のことばかりを考えて生きることもまた、もっとも愚かな人生の浪費じゃないだろうか? 人生にはもっと、豊かな思考の時間があってほしい。

 自分にとって一番大事なものは何なのか? お金より大事だと思えるものは、一体どこにあるのか?

 お金や、それにまつわる思考だけに人生を呑み込まれることのないよう、自分の優先順位を常に意識して日々を過ごそう。家探しに明け暮れた40日は、僕にそんな気楽さを教えてくれた。

 別に、家探しは人生のすべてではない。家探しで負けたからといって、人生が丸ごと負けるわけでも、あるいはそこで終わるわけではないはずだ。皆さんもそう思いませんか?

 ……だなんてことを自分に言い聞かせながら、真っ赤な顔でキーボードを叩いている。やっぱり高すぎるよ、東京のマンション。不確実性の大きなうねりの前に、一人の人間と一戸のマンションは無力だ。せめて世界がいい方向に進み、いつか来るらしい不動産マーケットの暴落が一日でも先延ばしになることを、僕は毎晩祈っている。

 家を買った、と言う人がいたら、間違っても暴落論を浴びせるのではなく、その決断と勇気を優しく称賛してやってほしい。

いつが夏と思うかは自分で決める

 このあいだ、港区おじさん改め『DIE WITH ZERO』おじさんたちと飲んでいたら、そのうちの一人がこんなことを言い出した。

 「そういえば俺さ、YouTube始めたんだ。みっともないだろ、若者に媚(こ)びようと思ってさ。俺の夏は、まだまだ終わらないんだよ。終わらせてたまるかよっ」

 言い出した、というよりも、吠えた、に近かった。いいぞ、と僕は思った。

 そうだ。僕たちの人生には、幸いまだそれなりに時間がある。少なくとも、僕たちはまだ人生を続けるつもりだし、ゼロになるのはまだ先にしたいと思っている。まだまだ名誉心やお金にしがみついたって、いいじゃないか。

 「いいですね! 不動産マーケットの夏も、まだまだ続くといいなぁ」

 僕もそうやってボヤいた。東京の夏が終わっても、いつか不確実性が僕たちから夏を無理やり取り上げてたとしても、いつが夏と思うかは自分自身が決めていいのだから。

日経ビジネス電子版 2025年10月2日付の記事を転載]