タワマン文学の旗手で兼業作家の麻布競馬場さんが、原稿を書き終えたとある日の深夜に「しじみ汁」を作りました。なぜ? 朝ドラの影響でしょうか……(編集部より)

自炊はセルフケアだ
自炊、してますか?
残業でクタクタになり、どうにか自宅最寄り駅に辿り着いた21時半。駅前には無数のチェーン店があるし、家までのルート上にはあらゆるコンビニがある。RF1や成城石井、DEAN&DELUCAといった(「都民への罰」ならぬ)「都民への救済」と呼ぶべき店舗群まであろうものなら、あなたは世界でもっとも幸福な人間のひとりである。
外食や中食など、自炊以外の食べ物=不健康、だなんていう認識はすっかり過去のものとなった。十数種類の野菜が入ったサラダ、カリフラワーライスに低糖質パン、ギルティフリーなデザートまで…… 健康的でおいしい食事をどこでも手に入れられる、大変ありがたい時代だ。
そういう意味では、もはや都心部に暮らすビジネスパーソンは自炊なんかする必要がないのかもしれない。家賃がどんどん値上がりする中、物件探しにおいてはキッチンの広さや使い勝手が最初の犠牲ポイントになったという話をよく聞くし、「そもそも自宅に冷蔵庫がない」だなんていう過激な話もこのあいだ聞いた。
「買ってきたサラダやお弁当はすぐ食べちゃえばいいし、冷たい飲み物が欲しければコンビニで買えばいいでしょ? 自炊しないから、買い溜めした食材を冷蔵庫に入れるなんてこともないし。コンビニって、つまりは冷蔵庫のアウトソーシングなんですよ」
もちろん、外食や中食は自炊と比べると割高だ。でも、さっき会社で稼いできた残業代のほんの一部だと思えば耐えられなくもない。何より、この時間から献立を考えて、食材を買い揃えて、調理して、お皿を洗ったり排水口を掃除したりして…… お風呂に入るだけでも精一杯だってのに、そんな一連の工程をやり切る体力なんてあるはずがない。そんな余裕があるならYouTubeやNETFLIXを見たい。ロールプレイングゲーム風に言えば、労働によって削られるものはHPだけではない。MPだってちゃんと回復しないと、明日を生きる活力が湧いてこないというものだ。
おいしいものを楽して食べる。それは心と体をすり減らして働く生き物にとって、不可欠なセルフケアなのだろう。
それでも、僕はやっぱり自炊が好きだ。
時々の気分や体調に合わせて、自分が食べたいものや食べるべきものを、自分自身の手でこしらえてやる。おいしさではプロに勝てないかもしれないが、自分を一番知っているのは自分であるに違いない。ちゃんとした名前のある料理を作る必要はないし、材料だって近所のスーパーで適当に買ったもので構わない。すべての人間は、心に土井善晴先生を飼うべきだ。
おいしいものを楽して食べる。あくまでも「楽して」というのが大事だ。そういうセルフケアのために自炊をやるのであれば、自炊のために新たなストレスが生まれるだなんて本末転倒だ。外食や中食が進化しているように、自炊を支える小売産業だって日々進化しているのだから、そこに甘えない手はない。
「名前のない料理」を堂々と作る
たとえば、僕は試行錯誤の末に「冷蔵庫に眠る食材のご機嫌を管理する」というユーザーペインから自由になった。僕のような単独生活者にとっては、スーパーの肉や野菜が複数人家族を前提にしたようなサイズで展開していると「使い切れるかな」と不安になるものだが、その不安を解消する鍵は冷凍食品コーナーにあった。
日々スーパーに通う皆さんからすれば「何を今さら」という話だろうが、最近の冷凍野菜の充実っぷりといったら凄まじいものがある。冷凍ブロッコリーに冷凍ほうれん草、冷凍きのこに冷凍オクラ、はたまた冷凍いちごに冷凍ブルーベリー…… 僕の場合は、年がら年じゅう具材を変えながら味噌汁を作っているのだけれど、ほとんどの具材は冷凍野菜で事足りる。青果で買うより長期保存が可能だから、たまに思い出したように少しずつ使ってもダメになるようなことはない。
僕は会食を含む外食が多いので、家にいるときは味噌汁だけで軽く済ませることが多い。具材は冷凍野菜だけでやってもいいし、スライス済みの鶏むね肉や骨抜き済みのタラ、あるいは充填パックの豆腐なんかを入れてもいい。お腹が空いていたら、そこに冷凍うどんを入れてもいいし、パックの玄米を添えてもいい。元気が有り余っているときは、スーパーの青果コーナーに顔を出して、ネギやプチトマトを買ってみてもいい。そういえば、ベースとなる食材も出汁パックに味噌、乾燥ワカメと容易に長期保存できるものばかりだ。
そんなもんでいいし、そんなもんでも「セルフケアやってんな~」という充実感は多分に得られる。どうも、料理というものに過剰な信仰を持っている人が多いみたいだが、別に僕たちは立派に料理するために生きているのではなく、立派に生きるために料理するのだ。一人暮らしを始めたばかりの頃は「名前のある料理を作らなきゃ」と日々レシピサイトを漁っていたが、あれから10年以上経ってようやく、土井善晴先生的な「これでええんですわ」を堂々とやれるようになった気がする。
……だなんて、ずいぶん偉そうなことを言ってしまった。
もちろん、毎日そんな丁寧な暮らしをやっているわけではない。むしろ、仕事でヘトヘトになった日やムシャクシャすることがあった日は「ふざけやがって……」とブツブツ呟きながら、破滅的なものを心の底から欲する日も少なくない。
法律の範囲内で、かつ長い仕事が終わった深夜帯にできるもっとも手頃な「破滅的なもの」、それは暴飲暴食だ。まだまだ若かった頃は、24時間営業している麻布十番の成城石井に駆け込んで、フランスからやってきた高いポテトチップスとビールなんかを買い込んで、家で映画を見ながらバリバリムシャムシャと吸い込むのが常だった。まだいけるな、となった場合はコンビニに駆け込んで、もっと塩分や脂質にまみれたものを、もっと強い酒で流し込む。そうするうちに寝落ちした翌朝、テーブルの上に置きっぱなしのカロリーの亡骸を眺めながら「やっちまったな~」と変な達成感に浸る。やっぱり、人間たまには羽目を外す必要があるのかもしれない。
ただ、そんな僕もミドルサーティーに突入してしまい、かつてのような自由闊達な暴れっぷりを体が許容しなくなってきた。あの頃よもう一度、のノリで同じことをしようものなら、以前とはずいぶん温度の違う「やっちまったな~」が翌朝に襲い掛かってくる。暴飲暴食をやるにしても、年相応、というものがあるのだろうから、うまい具合にアップデートしたいものだ。
スーパーで見つけたしじみの真空パック
それで最近、「自炊で暴れられないか?」という奇妙なアイデアが突如として浮かんだ。原稿仕事を自宅でやり切った、平日23時前のことだ。明日も朝から仕事だが、そういえば夢中で書いていたせいで夕食を抜いてしまい、ひどくお腹が空いている。そして何より、心が空いている。すっかり秋も深まり、朝晩はぐっと冷え込むようになった。何か温かいもので、お腹と心を満たしたい。そんな欲求があるのを自覚した。
かつてなら「どの味のカップラーメンにしようかな」と悩んでいたところだが、何かいい手はないかと向かった深夜営業のスーパーで、僕はあるものを見つけた。しじみの真空パックだ。
「寿司屋の締めで飲むような、しじみ汁が飲めたらなぁ……」
そう思った途端、完全に気持ちがしじみ汁になった。幸い、家には味噌がある。もちろん、生のしじみと比べるとレトルト加工済みのものでは味気ないだろうが、こんな時間に生のしじみが手に入るはずもない。次善の策として真空パックをカゴに入れる。「どうせ味気ないなら、味を足してやろう」という悪戯心も湧いてきて、これまた目についた乾燥あおさも入れてみる。あと、鮮魚コーナーに取り残された半額の刺身と、それからせめての抵抗で糖質オフのビールも。
会計してみると、それなりの値段になった。刺身はちょうどいいサイズ感だったが、真空パックは明らかに2名以上の家族を想定したサイズだし、乾燥あおさも当面はあおさに困らないほどの容量だ。とにかく、帰宅すると小鍋に水を張って火にかける。ChatGPTに聞いてみると、本格的なしじみ汁は出汁がなくてもいいらしいが、それは生のしじみを想定したものだろう。出汁パックを数分煮込んで、しっかり出汁が取れたところに大量のレトルトしじみをジャラジャラと投入し、更に少し煮込んだら乾燥あおさと刺身も放り込む。刺身に火が通ったらコンロの火を止めて、最後に味噌を溶かせば完成だ。しじみ汁であり、あおさの味噌汁であり、あら汁でもある。適切な名前は思いつかないが、とにかく心躍るようなにおいが鍋から立ち上っている。
「あっ、死ぬほどうまい……」
お椀によそったそれをダイニングテーブルで一口吸ったとき、ついそんな感想が漏れた。労働で疲れ果てた体に、課金によって手にした濃厚かつ重層的な旨味が染み渡る! 別に塩分や脂質が多いわけでもないが、ビールが面白いように進む。大量のしじみとあおさに特別感を覚え、刺身を煮て食べることに背徳感を覚える。ああ、自分はいま普通ではないことをしている、たった一杯の自家製造味噌汁に対してかけるべきコストを大幅に超過しながら…… という金銭的な陶酔感も遅れて襲ってくる。だが、それがいいのだ。たった数百円でここまで心がかき乱される、自分のさもしさが愛らしくて涙すら出てくる。
あっという間に飲み干すと、片付けは明日の自分に任せて、シャワーをさっと浴びたらすぐさまベッドに寝っ転がった。翌朝。いつも通りの時間に目が覚める。軽めの夜食は体の負担になっていないようだし、しじみパワーのおかげか、むしろ心身ともに元気いっぱいだ。バネ仕掛けみたいに勢いよくベッドから起き出すと、シンクに置きっぱなしの小鍋やお椀をテキパキと洗った。
立派に食べるために生きるのではない
昨日のあれはつまり、破滅の再定義だったのだろう。破滅とは別に、言葉の通りの破滅を意味しない。塩分や脂質、アルコールにまみれていなかろうが、翌日の体にダメージを与えなかろうが、「いつもと違う特別なことをやった」「そのためにコストを払ってやった」という感覚があれば、僕の場合は概ね満たされる。そしてそれは案外、深夜のスーパーでたった数百円かければ実現できるのだ。
もちろん、人によって破滅の再定義方法は異なるだろう。僕は日頃から出汁や味噌にお世話になっているから、わりかし意識の高い方法を採用することになったが、「やっぱり塩分と脂質とアルコールだろ」という古典に回帰する人もいるはずだ。
でも、たまにはいいじゃない。料理だけの話ではなく、我々は立派に食べるために生きるのではなく、立派に生きるために食べるのだ。欲求にすべて蓋をした100年の人生に、いったい何の意味があるだろう? 健康診断でたまに怒られながら、でも日々を豊かに、たまに乱暴に生きる。ただ、なるべく乱暴すぎない方法で。
一日に三度もある食事。誰かの常識ではなく、自分だけの常識でそれを豊かにし、自分による自分のためのセルフケアに繋げることができれば、こんなに幸せなことはない。
[日経ビジネス電子版 2025年11月12日付の記事を転載]