2025年3月に慶應義塾大学SFCを定年退職した、認知心理学者の今井むつみさん。今井さんは、同大学で専任講師として講義を担当し始めた1997年から28年にわたり、「認知心理学」の授業を受け持ってきました。その最終講義を収録した新刊『人生の大問題と正しく向き合うための認知心理学』(日経プレミアシリーズ)から抜粋して、人間ならではの思考である「アブダクション推論」について解説します。4回目は「アブダクション推論」の意外な役割について。
ルールの遵守にもアブダクションが必要
アブダクションが活用されている例として、ルールの遵守について考えてみましょう。
ルールの遵守というのは、演繹推論だと思われがちです。たしかに演繹推論は、命題が正しいかどうかを決める推論ですから、ルールとの関連性は強いかもしれません。
しかし、たとえば「日本語の使い方が文法的に正しいかどうか」を、演繹推論だけで判断できると思いますか? 次のような文で考えてみてください。
「今日、私は学校で行きました」
日本語の母語話者なら、この文を見てすぐに、「間違っている」と感じるでしょう。
ただ、言語の正しい・正しくないという推論は、このように簡単なものだけではありません。
みなさんもレポートなどで文章を書いていて、「てにをは」で迷うことはありませんか? 私はよくあります。校正の方にクエスチョンをつけられたり、「ここ、違うんじゃないですか」と提案されたりすることもあります。「たしかにそうだな」と思うこともあれば、「ほんとうにそうだろうか?」と悩んでしまうこともよくあるのです。
それはなぜかというと、助詞とはいえ、「てにをは」にも一つひとつ意味が込められているからです。機械的に「この場合には『は』を使う、『て』を使う」という規則に従って判断をしているのではありません。文脈から考えているのです。
アブダクションによる、ルールからの逸脱
『カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話』(メアリ・ノリス著、有好宏文訳、柏書房)という本があります。
私のイチオシの本で、
以前も紹介
しました。この本の著者のメアリ・ノリスは、アメリカの老舗(しにせ)雑誌『ニューヨーカー』の校正者です。この雑誌はアメリカのインテリ層に広く読まれていて、文学作品だけでなく、政治や経済、あるいはライフ全般など、あらゆるジャンルを扱っています。
そして、その洗練された英語にも定評があり、絶対に文法の間違いは許されない。英語母語話者のインテリの人々がお手本にするような英語で書かれている雑誌として有名なのです。校正者はその雑誌で、最後にことばのチェックをする人です。
もちろん『ニューヨーカー』には、文法や表記の規則、ルールブックがあります。それは一般の文法書よりもずっと厳密で、文法の正誤というよりも、雑誌全体で統一感を出すために使われています。文章や文字・記号の使い方のルールが、ほんとうに細かく決められているのです。
ただ、そもそもこの雑誌に寄稿する人は、一流の筆者たちです。母語とはいえ、文章を書くのが得意でない学生の文章を直すのとは、わけが違います。
一流の筆者が打ったカンマ(,)やセミコロン(;)が、正しいのか、正しくないのかを、校正者は判断しなければなりません。
一流の筆者というのは、文法や表記のルールをわざと逸脱することがあります。普通の文法規則とは違うところにわざわざカンマを打ったりすることもあります。
たとえば、「カンマの女王」ことメアリ・ノリスは、他の校正者が「トル(削除)」と判断した小説家ジェームズ・ソルターのカンマについて、著者とやり取りをしたことをこの本に記載しています。
しかし、ジェームズ・ソルターは問題のカンマそれぞれの裏にある理由を説明してくれた。思ったとおり、Eve was across the room in a thin, burgundy dress that showed the faint outline of her stomach のカンマは、ドレスの下の腹部の輪郭を強調するためだった。「thin burgundy dress〈薄手な赤ワイン色のドレス〉ではなくて」と彼は書いていた。「thin dress, burgundy in color 〈薄手のドレスで、色は赤ワイン色〉なんです。読者に、薄さに注目してほしかった。お察しのとおりです。たしか、校正者がカンマに印をつけていたのを、わたしがママイキにした。」
メアリ・ノリス著、有好宏文訳『カンマの女王』(柏書房)より
「ママイキ」とは、「修正指示を取り消して原文を生かす」という意味の校正用語です。
ルールの逸脱を発見したとき、一流ではない校正者は、それを無条件に筆者に差し戻します。「規則と違います」と。
一方、一流の校正者は、その意味を徹底的に考えます。「この筆者がここで逸脱する意味はなんだろう?」と考え、ときに受け入れるわけです。
もちろん、どんなにすごい筆者でも、うっかり間違えることはあります。ですからそれがうっかりなのか、意味があるのかを検討し、間違いであれば直しますが、その前にほんとうに間違いなのかを徹底的に考えるのです。
老舗の雑誌で、「規範から外れる」ことは、すごく大変なことです。校正者の判断だけではなく、職位が上の人にも数人確認してもらい、OKをもらわなければなりません。その大変さをあえて引き受けるというのが、言語のプロの仕事です。
これは決して、「単に規則に合っているか・合ってないか」を判断するだけではありません。ルールに則っているか・いないかというレベルではないわけです。一流の校正者は、よりよい伝え方ができると判断すれば、文法書からも辞書からも逸脱を許す。その判断は、ルールブックに則った演繹推論ではありません。アブダクション推論なのです。
論理的正しさを超えた意味の世界へ
もちろん、文法書や辞書からの逸脱を、いつも受け入れればいいということではありません。それでは、校正者という仕事はいらなくなってしまいます。
そうではなく、基本的には規範をすごく厳しく守りながらも、ギリギリのところで逸脱を許容する柔軟性を持っている。それが一流のプロの校正者であって、そこに必要なのはアブダクションです。
これと同じことは、司法判断でもいえます。その行動が罪になるかどうかは、法律の条文に則っているか否かで決まります。「盗んではならない」と書かれているのに盗んだら、それは法律を破っていることになりますから、罰せられます。
ただし、世の中はすごく複雑です。グレーゾーンにあることも多い。ある行動が法を破っているのかどうかは、簡単には決められないことが多いわけです。弁護士や裁判官という職業が必要なのは、そのためです。
検察は、容疑者は法律を破り、逸脱しているという立場で、その事件を考えます。弁護士は反対の見方をします。両者の間で法律を守りながら解釈し、どちらに分(ぶ)があるのかを決めるのが裁判官です。
とくに裁判官には、アブダクション推論が必要となります。演繹推論では、裁判官という職業は成り立ちません。
今井むつみ著/日本経済新聞出版/990円(税込み)

