配車事業からスタートし、食事宅配や金融など東南アジアで様々なサービスを提供するグラブ。東南アジアで幅広くビジネスを展開しており、創業から10年で米ナスダックに上場を果たした。ソフトバンクグループ、トヨタ自動車をはじめ、日本企業も多数出資する。急成長の秘密はどこにあるのか? 日本企業との関係は? 日経プレミアシリーズ『 東南アジア スタートアップ大躍進の秘密 』から抜粋・再構成してお届けする。
(注)敬称略。為替レートは2022年2月末時点。

ナスダック上場の熱狂

 2021年12月2日夜、シンガポール中心部の高級ホテル、シャングリ・ラ。数々の重要な国際会議の会場となった1階の「アイランド・ボールルーム」に、グラブのTシャツを着た数百人の男女が集まっていた。

 この日、シンガポールの配車大手、グラブは米投資会社アルティメーター・キャピタルの特別買収目的会社(SPAC)との合併を通じて、米ナスダック証券取引所に上場する予定となっていた。

 あいさつに立った共同創業者のアンソニー・タンが壇上から語りかける。「ナスダックの歴史上、初めて東南アジアで開かれた上場式典にようこそ。今夜、東南アジアに世界のスポットライトが当たっています。東南アジアで育ったテック企業が地域の6億6000万人の人々の力になってきたことに世界が注目しています」。感極まったのだろう。あいさつは途中から涙声に変わった。

 そして、午後10時18分。会場のカウントダウンと共に取引が開始されると、約1万5000キロメートル離れたニューヨーク中心部のタイムズ・スクウェアのスクリーンには、「グラブ上場」の文字が映し出された。

 2011年にマレーシアで産声を上げたスタートアップが、世界の投資家に広く認知された瞬間だった。

グラブは2021年12月、米ナスダックに上場した(写真:グラブ提供)
グラブは2021年12月、米ナスダックに上場した(写真:グラブ提供)
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ウーバー買収の衝撃

 グラブの共同創業者のアンソニー・タンとタン・フイリン、2人のタンが出会ったのは、創業2年前の2009年、場所は留学先の米ハーバード大学経営大学院だった。「BOP(ベース・オブ・ザ・ピラミッド=低所得者層)ビジネス」の講義をきっかけに志を共有した2人は、マレーシアの交通安全を解決するというテーマを掲げた配車アプリの事業計画を立て、学内のコンペで2位に入選する。

 卒業後に母国、マレーシアに帰国した2人は、ハーバード大時代に机上で描いた構想を実現すべく、2011年7月にMy Teksiという会社を立ち上げる。世界中の起業家と同じように、知人から借りた倉庫でアプリの試作を繰り返す、ささやかなスタートだった。

グラブの創業者、タン・フイリン(左)とアンソニー・タン(写真:グラブ提供)
グラブの創業者、タン・フイリン(左)とアンソニー・タン(写真:グラブ提供)
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 ハーバード大で世界中から集まってきた起業家の卵たちと切磋琢磨(せっさたくま)した2人は、最初からこの可能性を秘めたビジネスをマレーシアだけにとどまらせるつもりはなかった。会社設立の翌年の2012年6月にマレーシアで配車事業を開始すると、1年後の2013年7月には早くもフィリピンに、同じ年の10月にはシンガポールとタイに進出する。そして、2017年12月にカンボジアに進出し、ASEAN主要8カ国を営業地域とする体制が完成した。

 東南アジア発のスタートアップとして知名度を高めていたグラブが配車事業で盤石の地位を固めたのは、2018年3月の米配車最大手、ウーバーテクノロジーズの東南アジア事業買収だ。それまでグラブは「東南アジアのウーバー」と呼ばれ、時には物まねと揶揄(やゆ)されてきた。そのグラブが「本家」のウーバーの東南アジア事業を買収する事態は、多くの社員にとってすら想像できないことだった。

 ウーバーの買収は配車以外でも大きな利点があった。食事宅配事業のウーバーイーツを引き継いだことだ。当時、グラブは食事宅配事業を試験的に始めていた程度だったが、ウーバーイーツが築いた提携飲食店網とノウハウを手に入れ、一気に事業拡大に踏み切れるようになった。グラブの宅配事業を統括するデミ・ユーもウーバー出身だ。

1つのアプリで提供する効果

 1つのアプリで多様なサービスを提供し、膨大な顧客基盤を獲得する例は、騰訊控股(テンセント)など中国勢が先駆けと言われる。ただ、配車、宅配、金融の各サービスを複数の国に横展開し、それぞれの国で高いシェアを得ている例は世界的に見ても珍しい。

 アンソニー・タンはナスダック市場への上場を発表した当日、2021年4月13日の日本経済新聞のインタビューで、「多くの投資家は我々をウーバーと(米料理宅配大手の)ドアダッシュ、(中国の金融大手の)アント・グループを足し合わせた存在だと捉えている」と主張した。こうした消費者の日常生活に欠かせない複数のサービスを集約したアプリを「スーパーアプリ」と呼び、このモデルこそグラブの強みだと強調する。

 実際、複数のサービスを同時に手掛けることは、それぞれのサービスの顧客獲得コストを下げ、売り上げを相乗効果で伸ばす利点がある。グラブはこの効果を「フライホイール(弾み車)」という言葉で表現しているが、データからも多くのサービスを使う消費者ほど、グラブのアプリを使い続ける傾向がはっきりと出ている。グラブのサービスを4つ以上使う消費者の86%が1年後もアプリを使い続けているのに対し、1つのサービスしか使わない消費者の継続率は37%にとどまる。

孫正義は「メンター」、トヨタも巨額出資

 グラブが成長を続けるのに比例して、グラブに出資したいという企業が世界中から集まってくるようになった。米マイクロソフト、中国配車アプリ大手の滴滴出行(ディディ)、韓国の現代自動車と挙げていけばきりがないが、グラブが最も関係が深いのは日本企業だ。明らかになっているものだけで、約10社の日本企業がグラブに投資している。

 アンソニー・タンは日本企業との資本面や戦略面での提携を重視する理由について、次のように語っている。「まず日本は戦後、政府間のつながりも含め、東南アジアと深い関係を築いてきた。第2に私自身が武士道など日本的な考え方に親しみがあること。グラブも現場主義やカイゼンといった日本の経営理念の影響を受けている。そして何より、日本の投資家は3カ月先の利益は気にせず、30年先といった長期的ビジョンで投資するため、我々の将来性を理解してくれるからだ」

 アンソニー・タンに経営哲学を聞くと、(現場・現物・現実を重視する)「サンゲンシュギ(三現主義)」といった日本語が頻繁に出てくる。タン・フイリンも2019年に来日した際の日本経済新聞とのインタビューで、ハーバード大経営大学院で竹内弘高教授の授業から受けた影響を力説していた。グラブの日本企業や日本的経営とのかかわりは、こうした2人の創業者の思いと切っても切り離せない。

 中でも最も関係が深いのが、孫正義会長兼社長が率いるソフトバンクグループ(SBG)だ。SBGはグラブが会社設立から4年目の2014年12月に実施した4回目の資金調達(総額2億5000万ドル〈約290億円〉)で資金の出し手になって以来、2016年9月の6回目(同7億9000万ドル〈約910億円〉)、2017年7月の7回目(同20億ドル〈約2300億円〉)、上場前の最後の資金調達となった8回目(同62億ドル〈約7130億円〉)のいずれの資金調達にも主要投資家として参加した。出資比率は上場前の時点で21.7%に達していた。

 SBGが投資を続けている間、グラブは赤字を出し続け、2018年から2020年の最終赤字額だけで計92億ドル(約1兆600億円)に達していた。3年間で1兆円規模の赤字を出すスタートアップへの追加出資にひるむどころか、逆にアクセルを踏むことができる投資家は、世界的に見てもSBG以外にほとんどいない。別の表現を使えば、SBGのような巨額の資金供給者がバックについていたからこそ、グラブは起業から10年で400億ドル(約4兆6000億円)近い企業価値の評価を獲得できた。

グラブにはソフトバンクグループが巨額出資している(写真:Hafiz Johari/shutterstock.com)
グラブにはソフトバンクグループが巨額出資している(写真:Hafiz Johari/shutterstock.com)
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 そんなSBGの孫に対し、アンソニー・タンは尊敬の念を隠さない。孫のことを「メンター」と呼び、「将来を見据えた視点、投資した企業への徹底的な指導、仕事への真摯(しんし)な取り組みなどの面で尊敬している」と話す。ちなみに、熱心なキリスト教徒のタンにとって、もう1人のメンターはイエス・キリストなのだという。

 日本の製造業を代表する企業であるトヨタ自動車も2018年に10億ドル(約1150億円)を出資し、その後幹部を派遣した。トヨタが出資したのは、配車という新しいビジネスへの理解を深め、トヨタ自身の新たなサービスの開発に生かすという理由からだ。そのため、グラブに多くのトヨタ車を提供し、車両に搭載したデータ収集端末を通じて、走行データを収集している。1日中使われる配車サービス用の車両は通常の車両より5倍の走行距離があるため、より頻繁に車両を整備する必要がある。その分、通常の車両とは異なるデータが手に入る。

 他にも、約7億ドル(約810億円)を出資する三菱UFJ銀行が金融分野での協業を進めるなど、日本企業の大半は戦略的な提携を求めて出資している。

日経プレミアシリーズ
東南アジア スタートアップ大躍進の秘密
急成長企業が東南アジアで続々誕生!

東南アジアで有望なスタートアップが続々誕生している。特にグラブ、シー、GoTo(ゴジェックとトコペディアが統合)の3強は巨大で、世界中の大企業やファンドが出資や提携を求めて殺到。現地駐在経験が豊富な日経新聞記者が、大躍進の秘密を解き明かす。

中野貴司、鈴木淳著/日本経済新聞出版/990円(税込み)