インドネシア最大のスタートアップ、ゴジェックは、タクシー配車や食事宅配、電子マネーなど幅広く事業を展開する。200万人のドライバーを抱え、労働者の所得向上に大きく貢献。政府から「インドネシアの誇り」と賞賛された。ゴジェックの成長の軌跡、ビジネスモデルの特長などを、日経プレミアシリーズ『
東南アジア スタートアップ大躍進の秘密
』から抜粋・再構成してお届けする。
(注)敬称略。為替レートは2022年2月末時点。
インドネシアを変えた2つの会社
インドネシア最大のスタートアップ、ゴジェックは2021年5月、インドネシアのネット通販大手、トコペディアとの経営統合を発表した。ゴジェック(Gojek)とトコペディア(Tokopedia)の頭の2文字ずつをとって、持ち株会社の名前をGoTo(ゴートゥー)グループとした。
この2社はインドネシアを代表するユニコーン(企業価値が10億ドル〈約1150億円〉以上の非上場企業)で、ゴジェックは世界に40社前後しかないデカコーン企業(企業価値が100億ドル〈約1兆1500億円〉以上の巨大スタートアップ)でもある。このデカコーンのリストには、TikTok(ティックトック)を運営する北京字節跳動科技(バイトダンス、中国)や、イーロン・マスクが設立した宇宙企業、スペースX(米国)など、世界の巨大スタートアップが名を連ねる。トコペディアも統合発表直前にはデカコーン予備軍と言える資金を集めていた。
GoToは2022年4月、インドネシア証券取引所に上場し、シンガポールのグラブに続いてユニコーンを卒業した。創業から約10年、事業を本格展開してからわずか数年で、企業価値で日本の楽天グループやサイバーエージェントを超える規模の企業が新興国であるインドネシアで生まれたことになる。
さて、このゴジェックとトコペディアの両社は、スタートアップとして世界的に見ても規模が大きいだけでなく、インドネシアの社会を大きく変えた企業としても注目に値する。その社会的意義はほとんど革命的と言ってもいい。
ゴジェックやトコペディアが成長軌道に乗り始めた2015年ごろから、インドネシア人の生活は大きく変わった。それは首都ジャカルタや第2の都市スラバヤなどの大都市にとどまらず、地方の小都市まで波及しつつある。
社会問題解決のための起業
ゴジェックとトコペディアの2社はともに2010年ごろに誕生し、2015年ごろから本格的な成長を遂げたテック企業だ。両社に共通するのは、インドネシアの社会問題を解決することが起業の原点であることだ。ゴジェックは交通サービスの改善や貧困の解消がサービスの原点だ。トコペディアは小売業の地域間格差の解消を志したサービスだった。
もう1つ、両社の際立った特徴を挙げるとすれば、それは万人向けのサービスを構築したことだ。
マーケティングの教科書的な言い方をすれば、途上国ではBOP(ベース・オブ・ザ・ピラミッド=低所得者層)ビジネスが定石の1つだ。人口ピラミッドの下層に属する低所得者層をターゲットに「広く、浅く」商売をする方法だ。一方で人口の数%しかいない、ほんの一握りの富裕層向けに「狭く、深く」サービスを提供する戦略もある。ただ、この両者が一体化した万人向けサービスというのは意外に少ない。
ゴジェックは「社会のすべての層の人が使える稀有(けう)なサービスだ」(同社の加盟店担当責任者、リュウ・スリアワン)。同じことはトコペディアにも言える。「商業の民主化」をミッションとして掲げる同社のサービスは、金持ちだろうと貧乏人だろうと、誰もがスマホを使って平等に物を売り買いできる。
「配車サービスではない」
ゴジェックは2010年にナディム・マカリムが創業した。当時はコールセンターでバイクタクシーを配車するサービスで、実質的に現在のサービスが始まったのは2015年にアプリを配信してからだ。
ゴジェックは利用者の観点から見ると、二輪車や自動車の配車、外食の宅配、荷物の配達、電子マネーを中心とする金融サービスなどを1つのアプリで提供するサービスだ。連載 第1回 で取り上げたグラブとサービスがよく似ていて、実際に両社はインドネシアやシンガポールなどで直接競合する。当初は配車を中心としたサービスだったので、日本語では英語のRide Hailingを訳して「配車サービス」と呼ばれる。
配車サービスと言えば、米ウーバー・テクノロジーズがその代表だ。ウーバーは2009年に米国で誕生した。アプリで配車する点はゴジェックもウーバーも同じだが、前出のリュウ・スリアワンは、「ウーバーのまねではない」と断言する。
「アプリを使うという点はウーバーを参考にしたことは確かだ。ただ、サービスは全然違う」。その証左となるのが、ゴジェックが遅くとも2015年のアプリ配布開始時に、すでに配車だけでなく外食の宅配などにも対応していたことだろう。ウーバーが料理宅配サービス、ウーバー・イーツに注力するのは少し後のことだった。
ナディムは、2019年5月の日本経済新聞のインタビューで、ゴジェックの設計思想について次のように語っている。「ゴジェックを配車サービスと呼ばないでほしい。ゴジェックは時間のない人が時間のある人から時間を買うサービスなのだから」と話した。忙しい消費者が、時間のあるバイクタクシーの運転手から時間を買って、移動や買い物のサービスを受ける――。ゴジェックはこのユニークな思想の下に誕生した。
「インドネシアの誇り」となる
2019年4月11日。5年に一度の大統領選挙の選挙戦最終盤のこの日の夜、現職大統領のジョコ・ウィドドはジャカルタ北部アンチョールのホール、エコベンション・パークで開かれたゴジェックのイベントに出席した。接戦の大統領選の最終盤という貴重な時間になぜゴジェックのイベントを訪れたのか。その背景を分析すると、ゴジェックを含む配車サービスが政治をも動かす力にまで成長したことが見てとれる。
イベント前に開かれた記者会見には、スペシャルゲストとしてジョコ・ウィドドの最側近である海事担当調整相(現海事・投資担当調整相)のルフット・パンジャイタンが参加し、「ゴジェックはインドネシアの誇りだ」と持ち上げた。彼はゴジェック運転手の緑色のユニホームを着て記者会見に登壇するサービスまで見せた。
確かに、歴史上、インドネシアの主要産業のほとんどは外国企業がもたらしたものだった。かつて産油国だった時代の主役はロイヤルダッチ・シェルやシェブロン、エクソンといった石油メジャーだったし、新車販売市場はトヨタ自動車や三菱自動車など日本勢が9割超を占めている。インドネシア人の青年が自国で世界有数のIT企業を立ち上げたことは、インドネシア人に大きな自信を与えたことは確かだ。
政治家がこぞってゴジェックに近づくのは、単に革新的で「インドネシアの夢」を実現したからだけではない。ゴジェックの庶民への影響力はすでに無視できない規模になっているからだ。ゴジェックの公称ドライバー数は2021年初めの段階で約200万人。正確な数字は不明だが、すでに2019年ごろでも100万人超と言われていた。インドネシア自動車製造業者協会によると、代表的な製造業である自動車産業の従事者が150万人だから、ゴジェックの運転手の規模がいかに大きいかが分かる。
突如、教育相に就任した衝撃
2019年10月23日。その日は突然やってきた。同年4月の大統領選挙で勝利し、2期目の政権を発足させた大統領のジョコ・ウィドドは、その目玉人事として、インドネシアを代表する若き経営者、ナディム・マカリムを教育・文化相に任命したのだ。就任時の年齢は35歳。ジョコが重視していたミレニアル世代からの登用となった。そして、規定により大臣は民間企業との兼業はできないため、ナディムはゴジェックのCEOを辞した。実にあっけない退任劇だった。
ジョコ政権はゴジェックについて、労働者のデジタル化のモデルケースと見ている。ゴジェックの運転手の大半はインフォーマル経済に属する人たちだった。勤め人のように毎月決まった月給をもらうわけではなく、オジェック(バイクタクシー)の運転手として細々と生活費を稼ぐ低所得者だ。ゴジェックは彼らにスマホを与え、いわばデジタル武装させる。スマホを使って数百万の運転手の所得を向上させた手腕を、ジョコは高く評価していた。
インドネシアの労働人口の1割近くがいまだに小学校卒で、中卒以下を合わせれば過半を占める。教育を改善して、産業界に貢献できる人材を生み出す。途方もなく大きな社会問題の解決に向けて、就任当時35歳だったナディムは動き出した。
ナディムが教育相に転身した後、社長だったアンドレ・スリスツヨと共同創業者に名を連ねるケビン・アルウィが共同CEOに就任した。就任の記者発表文で、事業は「これまでと変わらない」と発表したが、実態としては、創業者のナディムが去ると時期を同じくして、スーパーアプリという理想よりも、採算性という現実を重視した戦略に転換している。ゴジェックにとって最も大きな変化はサービスの縮小だ。マッサージ師を自宅に呼べるサービスや、家事代行系のサービスをたたんだ。
創業者ナディムがゴジェックを去った時期は、ちょうどユニコーンの真の価値に疑念が向けられ始めた時期でもある。「支配的な株主がいないので、経営の自主性が保たれている」と豪語していたゴジェックも投資家の意向にはあらがえず、サービス拡大一辺倒から、選択と集中という、ある意味では企業として当然の方向に大きく舵を切ったのだ。
『 東南アジア スタートアップ大躍進の秘密 』
東南アジアで有望なスタートアップが続々誕生している。特にグラブ、シー、GoTo(ゴジェックとトコペディアが統合)の3強は巨大で、世界中の大企業やファンドが出資や提携を求めて殺到。現地駐在経験が豊富な日経新聞記者が、大躍進の秘密を解き明かす。
中野貴司、鈴木淳著/日本経済新聞出版/990円(税込み)