今年は昭和100年。本のベストセラー史を研究している横手拓治さんのインタビュー2回目は、関東大震災の1カ月後に刊行された、『大正大震災大火災』を取り上げる。東京の日本橋・京橋・神田かいわいに集積していた出版社、印刷所、製本所、取次会社は関東大震災で壊滅的な被害を受けたが、団子坂(千駄木)にあった大日本雄弁会講談社(現在の講談社。以下、講談社と呼称)は本社が類焼を免れた。そこで同社は社員や少年スタッフを総動員して本書を作り、ベストセラーにする。この成功体験はその後の「時宜に合わせた」緊急出版企画のさきがけになった。
震災後わずか1カ月で刊行
約100年前のベストセラーに、『大正大震災大火災』(講談社)という本があるそうですね。
はい。よく売れただけではなく、本書は、その後の出版業界を復興させる起爆剤にもなりました。
「大正大震災」とは、言うまでもなく1923年(大正12年)9月1日の関東大震災を指します。当時、主な出版社をはじめ、印刷所、製本所、取次会社は東京の日本橋・京橋・神田あたりに集中しており、倒壊と火災で壊滅的な打撃を受けました。大阪朝日が「雑誌が全滅」「10月からほとんど出まい」と報道しています。もう日本の出版業界は立ち直れない、本も雑誌も二度と出せないのかと言われたほどです。
そんな状況下で刊行されたのが、この本です。講談社は団子坂(千駄木)にあり、被災はしたものの、日本橋かいわいほどではなかった。だから早期に態勢を整え、猛スピードで製作することができたのです。初版30万部。売れ行きは素晴らしく、重版10万部を加え40万部になった。
この本の成功は、単に「いち出版社」のベストセラーにとどまらない意味がありました。壊滅的と言われた出版業界に活力を与え、地方の取次や書店では、「これで返本も送金も大丈夫だ」となった。「出版はまだ事業として成り立つ」「安心して商売ができる」と社会に向けて証明してみせたわけです。実際、出版界は震災から数年がかりで急速に復興していきます。出版界復興の転機を作った本こそ、この『大正大震災大火災』だと言っていいと思います。

さすがにべストセラーらしく、本書は100年前の本でありながら、今でも古書店で比較的容易に現物を手にすることができます。その奥付を見ると、発行は大正12年10月1日。つまり震災からわずか1カ月で刊行に至っています。しかも約300ページもあって、写真も豊富、被災地図まで掲載された分厚い内容です。仕事量は驚異的ですね。
講談社の創業社長の野間清治が、震災直後に「この未曽有の危機について詳しく報じるのは、出版に与えられた義務である」と社内を鼓舞して作らせたそうです。当時、講談社はいくつかの雑誌を出していましたが、震災の影響で休刊していた。その編集者と、「少年」と言われた若い見習いスタッフが総動員され、手分けして方々の現場を取材して回ったらしい。執筆予定者の安否を確かめながらです。
だから内容はバラエティーに富んでいます。各地の被災状況の記録や復旧・救助活動の様子、電気や通信交通などのインフラの状態、株式市場や米相場など金融界への影響など、新聞記事的な記述も多いですが、それだけではありません。「悲話惨話」「美談佳話」「震災異聞」「震災が生んだ新商売珍職業」など、いかにも雑誌的なエピソードも豊富。さらに地震に関する専門家の解説、渋沢栄一や幸田露伴など著名人による寄稿文、与謝野晶子の短歌なども掲載されています。題字は後藤新平です。
本来は新聞社がやるような仕事を講談社がやり遂げたと。
そうなんです。それは講談社が雑誌社として上昇局面にあったことが大きい。まもなく『キング』を出す時期ですから。当時は岩波書店のような書籍中心の出版社もありましたが、講談社の他にも中央公論社、新潮社、改造社など、雑誌中心の出版社が力を持ち始めた時期でした。テレビもネットももちろんない時代なので、主要メディアといえば新聞かラジオ。そのなかで、あるテーマについてもっと深く知りたいと思う読者が、雑誌に飛びついたわけです。
『大正大震災大火災』は書籍ですが、雑誌系編集者の手によって速報性も持ちながら深掘りもされた。震災で東京がどうなったのか、これからどうなるのか、誰もが知りたいところです。だから多くの人がこぞって買い求めたのでしょう。新聞とともに書籍・雑誌も重要な活字メディアだと世間に印象付け、出版界を壊滅状態から立ち直らせたという意味で、記念碑的なベストセラーと言ってもいいと思います。
「緊急出版」のさきがけに
今日でも、出版社は大災害や大事件の際に「緊急出版」と称して企画から1カ月程度で本を出すことがあります。その源流が『大正大震災大火災』だったんですね。
そうです。戦後の話ですが、その典型が誠文堂新光社の『 日米会話手帳 』(リンクは復刻版)です。終戦からきっちり1カ月後の1945年9月15日に刊行されました。これが戦後最初のベストセラーで、同年末までに360万部も売れた。この数字は1981年に黒柳徹子さんの『 窓ぎわのトットちゃん 』(講談社。リンクは講談社文庫版)が出るまで破られませんでした。
企画したのは同社の小川菊松社長。実は先の関東大震災の際にも、『大正大震災大火災』より先んじて『大震大火の東京』という本を出し、ヒットさせていたのです。講談社の本が10月1日刊なのに対して、小川の誠文堂はなんと9月中に本を出していた。同月中に2万9000部売ったところで、講談社の震災本の広告を見て再版を中止したといいます。販売期間はごく短く、震災で販路のインフラが崩壊したことを考えると、結構な数字です。
しかも誠文堂は講談社と違って丸焼けになっています。それでも馬力で出したというか。この成功体験を踏まえて、小川は、とにかく社会の騒乱期(敗戦)には独特のニーズがふくらむと見た。終戦直後の何もない時期に一念発起、「GHQ(連合国軍総司令部)が乗り込んでくるのだから、必要とされているのは簡単な英会話本だ」と考え、しかもスピード勝負に打って出た。
なかなかの眼力ですね。
ただ、時宜に合わせてスピーディーにというのには、大正震災本以前に前例があります。明治後半の日清戦争・日露戦争の時代、出版界は非常に活況を呈しました。各社から戦争関連の本が出て人気を博しますが、刊行はやはりスピーディーでした。
「社会的に大きなトピックに合わせて、関連する本を極力、早く出せば売れる」という認識は、明治末期ごろから出版関係者の間では広がっていたはずです。戦況を報じるのに、たとえば3カ月後では遅すぎる。世間の「知りたい」という気持ちが冷めないうちに、電光石火のごとく出すのが成功の秘訣でしょう。
そういう本に読者が飛びつくのは、好奇心からでしょうか。
好奇心は人を動かす大きな要素だと思います。それに加えて、ある種のベネフィット感も重要。なんとなく自分に役立ちそうだと思えば、読者は飛びつく。今起きていることの背景を知る、というのは、「役に立つ」感をもたらします。そのイメージをふだん本を読まない層に対しても喚起できると、ベストセラー現象に結びつくわけです。それは当時も今も変わらないと思いますよ。
雑誌創刊を機に「大衆小説」がベストセラーに
震災後には、どんな本が売れましたか。
「大衆小説」というタームは関東大震災後の大正末から昭和初期にかけて定着し、このジャンルからはブームも起こります。
これには、いくつかの背景があります。まず、大正期を通じての読者層の拡大は、若者だけでなく、大衆も加わることで規模がさらに大きくなった。前回「 100年前の出版業界 再販制度で部数大幅増、読書が大衆娯楽に 」は学生が読者層を形成したという話をしましたが、そこに老若男女一般が加わって層が一段と厚くなります。消費社会の進展があり、いわゆる大正デモクラシーも背中を押して「大衆」が存在感を増したことも重要です。
戦争や革命、不況などの影響で社会が揺れるなか、社会問題や学術・文芸への関心は裾野を広げていました。本を通じて新しい知識を得たい、というニーズが高まったわけです。
一方で、読書人の広域化によって、読書は、真面目な知識と教養のためというより、「一種の娯楽」として捉えられるようにもなった。ベストセラーになった本には、エンターテインメントの要素が強く打ち出されるようになりました。具体的なところは、このインタビューでいくつか紹介されていくでしょう。
読者層が拡大していくなかで、震災が起き、一時的に出版物が激減した。紙でできた出版物の宿命というか、火災で本自体のほか印板やゲラ類などが、一気に、しかも大量に失われた。そうなると飢餓感のようなものが起こる。日本人は本好き・活字好き民族と言われ、江戸時代から庶民が、物語本などをよく読んできました。そうした民族性が発動した面もあると思います。

大衆小説というと、その源流はNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で話題の蔦屋重三郎の世界、つまり江戸時代まで遡れるわけですか。
ええ。まさに洒落(しゃれ)本や読本(よみほん)の人気にも通じます。それとも関係しますが、先ほど「大衆小説」というタームが一般化してきた話をしました。その源流の一つに、あだ討ちとかお家騒動、侠客(きょうかく)伝とかをテーマに講談師が語る「講談」があった。明治末期に、その速記をまとめ出版しようとして始まったのが講談社で、ネーミングを社名にしたわけです。
その講談の系譜は、大衆小説成立期に有力ジャンルとなる「歴史・時代もの」小説につながっていきます。『赤穂浪士』『鞍馬天狗』で知られる大佛次郎(おさらぎじろう)、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』などの吉川英治、『大菩薩峠』の中里介山が活躍し、彼らは歴史・時代小説の旗手となりました。3人とも大正・昭和前期のベストセラー作家です。
それから1920年(大正9年)に創刊された雑誌『新青年』(博文館)の影響も大きい。もともと青年向け教養誌でしたが、海外の推理小説の紹介がウケるとそこに軸足を移していきます。そのなかから登場したのが、かの江戸川乱歩でした。ほかに、『ドグラ・マグラ』の著者で最近ネット上にてカルトな人気を博している夢野久作(ゆめのきゅうさく)、そして久生十蘭(ひさおじゅうらん)なども『新青年』デビュー組と言えます。昭和に入ると、かの横溝正史が編集長をつとめました。
今日なお「大衆小説」の一大ジャンルと言える推理・ミステリー小説は、この雑誌がオリジンの一つと言っていいでしょう。江戸川乱歩の本は、ちょうど100年前、『心理試験』と『屋根裏の散歩者』がベストセラーになっています。
現代でもよく読まれている作家・作品が多いですね。それだけ優れたクリエーターが文学に集まったということですか?
そうだと思います。当時は映画といっても初期だし、テレビもネットもありません。才気あるクリエーターたちは、表現の対象として小説に向かったのです。才能ある新人が集まると、切磋琢磨(せっさたくま)のなかで魅力的なコンテンツが次々と生み出され、ジャンルそのものが発展します。今日で言えばゲームや漫画、アニメの世界がそうでしょう。
現実的なことを言えば、自分の作ったものが売れればお金も入るし、知名度も上がります。新聞連載となれば定期収入が見込めるし、作品が芝居になったり映画化されたりで、なお人気が出る。才気あふれる表現者がそれを見て、「じゃあおれも何かやってみよう」と考える。この流れが滔々(とうとう)としてくるのは当然かもしれません。そのあたりは、実はベストセラー産生とも関わりが深いのです。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子
掲載当初、講談社の本社が「音羽」にあったとしていましたが、正しくは「団子坂(千駄木)」でした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2025/06/26 12:30]
