今年は昭和100年に当たる。本のベストセラー史を研究している横手拓治さんインタビュー3回目は、売れ筋が翻訳書から全集、漫画まで多様なジャンルに広がった100年前の出版事情について語る。通常本の価格が2円から3円だったところに、改造社の「円本」は4~5冊相当の量を1冊にし、文字通り1円で、それも「全集」として売り出した。さらには実用書や受験参考書など様々なジャンルの本がベストセラー、ロングセラーとなっていった。
大衆の欲望を喚起した「翻訳書」
今から100年前は、現代に通じるベストセラー現象が起きた時期と言われました。それとともに、ベストセラーが多様化したようですね。いろいろな種類の本からベストセラーが出るようになった。
翻訳書もその一つです。100年よりちょっと前ですが、1921年(大正10年)に講談社がドイツの女性作家エリザベート・シェーエンの『人肉の市』(窪田十一訳)を刊行します。
タイトルと原名『廿世紀[20世紀]の恥辱 白き女奴隷』の(広告上の)提示、サーモンピンクの背景色に全裸の女性を描いた表紙、それに内容紹介が強烈でした。「美少女が国際的誘惑団の毒手に陥(お)ちて、不知不識(知らず知らず)のうちに堕落の淵に沈み行く」と。ここまで扇情的に、直截(ちょくせつ)訴えかけた本は、この時期では珍しかった。この打ち出し、とりわけ表紙絵がアイキャッチとなったのです。

実は大正5年(1916年)、講談社は『講談倶楽部』の増刊を発売禁止にされています。巻頭口絵がエロチックだ、風俗壊乱だといわれた。赤じゅばん姿の女性が描かれた、今日ではたいしたことのない絵ですが、扇情路線で批判を受けるのは、このときの経験がすでにある。それでも敢行したわけで、大衆読者を意識するとエロチックの線はどうしても出くるのです。そのあたりはせめぎ合いですね。
『人肉の市』はベストセラー史的にも、結構面白い存在です。なんにせよセンセーショナルを巻き起こすタイトルとカバーで打って出た。これは同じ講談社でのちの『 五体不満足 』(乙武洋匡。リンクは講談社青い鳥文庫)のセンスにも表れており、ベストセラーメイクに関する一つの手法なのです。
もっとも『人肉の市』は、「疾風のごとき売れ行き」と当時言われたものの、刊行翌年に3万部、翌々年に9万部、数年で計13万部との仕上がりでした。ベストセラーといっても当時はそのレベルです。
ただ同書の成功は、別の効果をもたらした。「雑誌はいいけど、書籍は売れない」と言われてきた講談社でしたが、この本の成功で「雑誌も書籍も」となり、出版王国への道を本格的に歩み出したのです。その点でもメルクマールと言えるでしょう。
しかし講談社は、ちょっとしたしっぺ返しを受けます。発禁ではないのですが、読者の一部からクレームがついた。子ども向けの本も出していた同社ですが、教育現場から「あんな本を出す出版社とはつき合いたくない」と批判の声が上がるのです。それだけ世間的に話題になったということでしょう。
さて、その成功に続くように、翌1922年(大正11年)に新潮社がエミール・ゾラの小説『 ナナ 』(宇高伸一訳。リンクは川口篤、古賀照一訳の新潮文庫版)を出してベストセラーにしました。その直後、同社は社屋を新築しますが、世間から「ナナ御殿(ごてん)」と呼ばれます。本が売れてビルが建った(らしい)、というわけです。
こうした言われ方はほかにもあり、戦後ですが、小学館の本社旧建物は「オバQビル」と呼ばれていました。藤子不二雄『オバケのQ太郎』のおかげ、でしょうか。私の出身中学はその裏手にあり、「さっきオバQビルから研ナオコが出てきた」などと、学生たちはよく話題にしていましたよ。
当時から、海外の話題作を探している編集者がいたということですね。
この時代、翻訳本は各社がいろいろ出していて、ベストセラーまではいかなくとも、それなりに成功しています。その成果の積み重ねは、そう遠くない「円本」時代に、企画の供給面で大きな役割を果たしました。改造社が円本で大成功したすぐあと、新潮社が追っかけスタートさせたのは翻訳シリーズの『世界文学全集』です。円本については、100年前の重要な出来事なので、次に話しましょう。
不況下の出版界を救った「円本」
円本というと、まさに1円で売られた本ですね。
最初に改造社が『現代日本文学全集』として出したのが昭和元年(1926年)です。当時、本の価格はだいたい2円から2円50銭でした。そのなかで円本は文字どおり1円。分量も通常の単行本の4~5冊相当を1冊に収めている。つまり、従来の約10分の1という破格の廉価本だったわけです。
21世紀の新書ブームもそうですが、廉価というのは、ベストセラーに結びつく可能性を大きくします。円本もそうでした。改造社はイチかバチかで仕掛けましたが、大成功です。1冊ではなく、群として売れたのですから。出版界は仰天しました。巻ごとに40~50万部は売れたと言われています。
当時は震災の影響もあって不景気が続き、出版社も軒並み経営難に陥っていました。一方で読者層の急拡大により、本への需要は高まるばかりです。その両方の課題に立ち向かうべく、起死回生の企画として編み出されたのが薄利多売の円本でした。
1円という価格設定ができたのは、初版部数を多くしたからです。20万~30万部でスタートさせた。書籍といえば、まだ2~3万部で大成功の時代ですよ。まさに大バクチです。
以後、円本ブームは続きます。昭和2年(1927年)には新潮社が『世界文学全集』で追随し、さらに同年、当時大手だった春陽堂が『明治大正文学全集』、春秋社が『世界大思想全集』を刊行しました。改造社の円本にして62巻、新潮社や春陽堂もその規模で、春秋社に至っては第1期だけで126巻です。
「世界」が目立ちます。海外の秀作で円本人気に拍車をかけようという感じですね。日本人にとって世界文学が身近になったのでは?
ええ。「点」ではなく「面」で出したのですから、そうなります。円本の研究は進みましたが、日本の出版界にどういう役割を果たしたのか、まだよくわからないこともあります。とてつもない台風が襲ってきて、一気に風景を変えていったというわけで、大部数現象は細目の分析どころではない面もある。
ただ影響は思ったより深いのではないかと思っています。私は宮沢賢治の研究をしており、本も出しているのですが、時期的に考えて賢治が円本に親しんでいた可能性は小さくない。あの幅広い知識の源は円本が一役買ったのかもしれません。宮沢賢治に限らず、当時の知識人や物書きの思考や作品に、円本は大小の影響を及ぼしているのではないか。明確な因果関係は証明できませんけど。

「全集」がよく売れた理由
「全集」がベストセラーになるというのも面白いですね。
これも日本人の不思議なところで、本好き・活字好き民族というのは先ほど言いましたが(第2回「 関東大震災による壊滅から出版界を救った『大正大震災大火災』 」)、その延長で、「全集をそろえる」という姿勢が割合広い層で成り立っている。戦後の話ですが、かつて私が在籍した中央公論社でも「世界の名著」「日本の名著」シリーズは相当普及しました。少年期の私の家にもありましたし、あるのがスタンダードみたいなところがあった。
全集は岩波書店や筑摩書房、講談社なども出しており、そうゆとりもなかったわが家でさえ、「世界の名著」のほかに講談社の「われらの文学」シリーズも居間に並んでいました。こうした戦後全集本のルーツとも言えるのが、100年前の円本だったわけです。
全集とはいっても、おそらく、全巻に目を通す読者はいないでしょう。しかし、「全集でそろえておきたい」と。そういったニーズが一般家庭にある。これは世界でもあまり例がなく、活字好きの日本人ならではと思います。出版界は日本人の活字好きにだいぶ助けられていますね、昔も今も。
それにしても、円本は大量の部数で長い巻なのに、どうして販売が維持できたのですか?
500ページ平均、3段組の分厚さで数十万部ですから、製作の点でも続けるのはリスキーです。ただここには、ちょっとしたからくりがあります。円本は予約募集制でスタートした。読者からあらかじめお金をもらっていたのです。
改造社は新聞の1ページ全面広告を出し、そのなかで、「特権階級の芸術を全民衆に解放す」と宣言をした。これが山のような申し込みを招いたと取次関係の記録にあります。予約申し込みは10万単位で伸びていったと言われます。
実用書の最初期ベストセラー「や便」とは
ところで、現代の傾向としても、よく売れる本は実用書やビジネス書だったりします。そのルーツはいつごろから?
実用書ベストセラーの嚆矢(こうし)といえば、少し時代は遡りますが、のちに平凡社を創業する下中彌三郎(しもなかやさぶろう)が1914年(大正2年)に刊行した『や、此(これ)は便利だ』、通称「や便」が挙げられます。タイトルからしていかにも実用書風ですが、内容は用語解説集。常識語から新語・流行語まで、個々の意味を理解して、新聞記事などをきちんと読めるようにしようという企画意図からです。
下中はこれを書店ではなく通信販売で売りさばき、しだいに評判を高めます。結局、バージョンを変えつつ版を重ね、大正末までに100万部以上の累計部数となりました。昭和に入っても版をなお重ねています。ベストセラーにしてロングセラーでもある幸福な本で、平凡社誕生と発展の基礎を築いた。
用語集ということを考えると、「百科事典の平凡社」にもつながりますね。原点は「や便」だったわけです。
それだけヒットすると、追随する出版社も現れそうですね。
「や便」の成功を見て、1918年(大正7年)に新興出版社だった誠文堂が『是丈(これだけ)は心得(こころえ)おくべし』を出します。こちらも生活に密着した実用書で、たとえば「洋服を着るなら是だけは心得おくべし」「日本式礼法も是だけは心得おくべし」「人と接するに是だけは心得おくべし」といった項目が並んでいます。こちらもシリーズ化されて、都合120万部売れたと言います。
各項では、ポイントになることだけを提示するとか、ページごとに細かく項目を分けるといった見せ方がなされ、今日の実用書に通じる面がすでにあります。その原型を作ったのがこの本だとも言えるでしょう。
ちなみにこれを出した誠文堂の社主・小川菊松は、前回紹介した戦後最初のベストセラー『日米会話手帳』の発案・刊行者でもあります。
受験参考書と「家庭の医学」がロングセラーに
実用書は対象が幅広いはずです。大衆社会の出現に合わせていろいろな本が出たのでは?
確かに大正時代、一気に実用書の幅が広がった感じです。たとえば受験参考書ですが、明治末期からいくつか出始めていました。大正に入って学生数が増え、受験生も、受ける学校の範囲も格段に拡大したことから、種類や部数が増えるのは当然と言えるかもしれません。
とりわけ明治43~44年(1910~11年)に受験生向けに刊行された藤森良蔵他編『幾何学 考へ方と解き方』(青野文魁堂)は、1914年(大正3年)に再発行され、戦後の学制改革の時期まで売れ続けています。
それからもう一つ挙げるなら、築田多吉(つくだたきち)『家庭に於(お)ける実際的看護の秘訣』(南江堂書店)がちょうど100年前の1925年(大正14年)に出ています。ケガや体調不良にどう対処すればいいかを説いたもので、今日の「家庭の医学」的な本のさきがけと言えます。赤い表紙から「赤本」と呼ばれ、まもなく各家庭で常備する存在となりました。戦後に出た新訂版の「自序」では、これまでに130万部を重ねた、と書かれています。
漫画界の最初のベストセラー
昨今のベストセラーは、ほとんど漫画に席巻されています。『ONE PIECE』(尾田栄一郎/集英社)の国内累計発行部数は4億部超えとか。100年前はどうだったんですか?
もう少し後の時代ですが、1932年(昭和7年)に田河水泡『のらくろ上等兵』(講談社)がベストセラーに入っています。もともとは講談社の雑誌『少年倶楽部』の連載で、1931年(昭和6年)新年号から「のらくろ二等卒(にとうそつ)」として始まりました。人気連載となり1941年(昭和16年)まで10年にわたって続きます。同時に、ある程度まとまったところで単行本化されるようにもなりました。『のらくろ上等兵』の「上等兵」は連載2年目後半から2階級出世した軍隊のポジションで、その時代の「のらくろ」を描いたものです。
これが日本で初めて、漫画でベストセラーの一角を占めた本となる。13万4000部ですから、のちの漫画出版の巨大化を考えると、小さな一歩と言えるかもしれません。しかし重要な一歩のはずです。

漫画雑誌は明治時代からありましたが、当時は「ポンチ絵」といって戯画風の一枚画が主流でした。大正時代に入ってコマ漫画が登場し、登場人物が吹き出しでしゃべるようになります。これで今日の漫画の原型ができた。さらに昭和になると、ページをまたいで話が展開する、いわゆるストーリー漫画が登場します。この流れから「のらくろ」は登場するのです。
その意味で「のらくろ」は、ごく初期における漫画出版の部数的成功作と言えそうです。漫画はこのときすでに、出版界で存在感を高めていたのです。
取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子