今年は昭和100年に当たる。本のベストセラー史の研究者で編集者である横手拓治さんインタビュー第5回は、現在の出版の状況について。出版不況が叫ばれて久しいが、戦後から本・雑誌の売り上げがピークとなる1996年ごろまでのほうが、恵まれすぎていたと考えるべきだ。それと比べかなり厳しい環境だった明治時代でも、世界有数のレベルで本は出ていたし、出版活動は盛んだった。出版はオワコンではありえない。むしろ、したたかに再活性化するだろう。

もはや読者層は高齢者のみ?

出版不況と言われて久しいですが、そうした現状をどう捉えていますか?

 例えば、しばらく元気だった新書が、最近はすっかりおとなしくなりましたね。21世紀ゼロ年代の「新書ブーム」の頃は、ダブルミリオンセラー(200万部級)が4点出ており、『 バカの壁 』(養老孟司/新潮新書)や『 女性の品格 装いから生き方まで 』(坂東眞理子/PHP新書)のようなトリプルミリオンセラー(300万部級)もあった。『出版指標年報』(出版科学研究所)の総合ランキングで新書の存在感は大きく、2003年から2007年の5年間において年間ベストセラーの首位獲得を別々の本で4回果たしており、2006年は上位30点中、11点が新書です。

 この勢いが今や見る影もない。最近は三宅香帆さんの『 なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』(集英社新書)が目立つくらいですか。なにより新陳代謝が起きていない印象で、ジャンル自体が弱くなったことがうかがえます。若い層が新書を読まなくなったようで、出版ジャンルのなかで割とシビアではないでしょうか。

一方で、高齢者向けの本はよく売れています。

 2010年代からの傾向ですね。ミリオンセラーとなった柴田トヨさんの『 くじけないで 』(飛鳥新社)、渡辺和子さんの『 置かれた場所で咲きなさい 』(幻冬舎文庫)や佐藤愛子さんの『 九十歳。何がめでたい 』(小学館)などがあります。書き手は高齢者、読者は50歳代以上が主軸。売れ筋がこうした本にシフトしてきたのも、若い人が本を読まなくなったことの反映でしょう。

 この連載の第1回「 100年前の出版業界 再販制度で部数大幅増、読書が大衆娯楽に 」で、大正時代には学生が増えて読者層が厚くなった、という話をしました。また、ベストセラーの鉄則は若年層に火をつけることだということも。しかし現代はその層が薄い。若い読者層を開拓しようというのは、どこの出版社も基本にあるとは思います。ただどうもうまくいかない。漫画は別として、ですが。

 だったら団塊ジュニア以上の中高齢層を確実に狙い、「そこでのヒット作で、しばらくしのぐしかない」というわけで、出版界の歴史の中でも珍しい現象だと思います。ややわびしいものを感じますが、背に腹は代えられないのでしょう。私も現場にいたらやっていますよ。

それはやはりインターネットの影響ですか?

 大きいと思います。読書というのは、個々のコンテンツがどうのこうのというのはありますが、一方で習慣です。例えば新書は、もともと大学の教養課程の学生あたりを念頭に、啓発的な廉価本をつくろう、ということだった。今私が教えている学生はいわゆるZ世代ですが、知的渇望はあるものの、その大事な大学生層が新書をあまり読みません。やはりネットに頼る。小説を読む学生は割といます。そして、なんといってもよく読むのは漫画です。

 これを、上の世代から見て「なげかわしい」と言っていてもしょうがない。コンテンツに接する習慣が変わったのです。漫画はSNS(交流サイト)を含めたネット文化とも親和性が高い。生まれたときからデジタル環境に囲まれて育った彼らに、昔風の活字を読む習慣が前提の読書案内をしても、ついてこない。伸長してきた電子書籍を利用する手はなくもないですが、電子書籍もうまくいっているのは、結局、漫画だけです。

出版界は明治時代に回帰せよ

すると、出版界の将来はなかなか厳しい?

 そうでもないと思っています。第一、「本好き」は100年どころではない歴史がある。ここで思い出すべきなのが、100年よりもっと前、つまり明治時代の出版界ではないでしょうか。

 当時は読者事情を考えても、社会体制・流通状況を考えても、出版業にとって今よりはるかに厳しい時代です。高等教育の普及以前で若い読者層も薄い。それでも出版社は成り立っていた。福沢諭吉や夏目漱石、西田幾多郎の著書をはじめ、今日まで読み継がれるような本が出て、ベストセラーにもなっている。そこから、一つのヒントとして当時のあり方を思い起こす、というのはありえます。

「日本の出版業は、独立し、安定した経済体制を再構築する時期に来ています」と語る横手さん
「日本の出版業は、独立し、安定した経済体制を再構築する時期に来ています」と語る横手さん
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 むしろ戦後から本・雑誌の売り上げがピークとなる1996年頃までの環境が、日本の出版界にとっては恵まれすぎていた、とまず考えねばなりません。私は編集者人生の中央付近がこのピークのときで、すなわち上昇と減速・苦境をともに経験しています。

 上昇期は、安定した中産階級があり、ネット時代はまだ遠い。「本好き」をベースに、新書でも全集でも難解な哲学書でも、誰もが当たり前のように買ってくれた。ピークの頃までは、割合マイナーな本を作っても1万部くらいはほっといても売れたし、2~3万部で締まると「ちょっと弱いな」くらいにさえ思えたのです。

 当時、重版して10万部くらいになったので、たまたま枠が取れたこともあり、新聞のサンヤツ(1面下の広告枠)で追い広告を打った本があります。その版面中にできごころ(苦笑)から「ベストセラー」とうたったところ、まもなく読者からはがきでお叱りを受けました。「10万部くらいでベストセラーとはおこがましい」と。たしかに当時はその通りでした。今では、誰も文句を言わないでしょうけれど。

 1996年頃までの戦後日本は、ある種、出版にとって幸福な時代です。これほど良好な環境は、時代的にも他国を見ても、そうありません。ただその後、ネット・デジタル文化が到来・席巻してきて、最初は共存共栄かとも思われたものの、次第に出版界がダッチロール(大きく揺れること)し出したのです。その後、「新書ブーム」などはありましたが、まさに後退につぐ後退です。「幸福な時代」のアドバンテージはもうなくなりました。そのうえで、どうすればいいかを切実に考える時期に直面しています。

 実は出版界というのは、いつだって危機意識を抱いていた。時代時代の出版状況を分析した年報類などを、戦後スパンでずっと読んでいくと、考察のなかに、いつの時期も「このままでは駄目だ」が出てきます。危機意識と向き合い、連れ立ちながら、出版界は歴史を刻んできたと言えます。その点では同じであって、ただ、今は、より大胆な発想が必要だということです。

ベストセラーばかり狙うのではなく、地道にいい本を作って、少数の読者へ確実に届けるべきだということでしょうか?

 ベストセラーを狙うのは出版人の本能と言えます。出版物は英語でパブリケーション、つまり公共的、あるいは大衆的であるのが本性なのですから。多くの人に読まれることに出版人は意を尽くすのが通常であり、そこからすればベストセラー狙いは正の態度と言うべきです。とはいえ、それが経営を不安定にすることもある。事例を山ほど見ていけばおのずと功罪が分かります。本にとって商業主義は矛盾の万華鏡ですよ。だからこそ、消耗戦に陥った当代を前に、かえって路線問題が浮上する観を抱くわけです。

 出版社は進む道が同じではなく、いくつかの方向性にはっきり分かれていくのではないか、と私は見ています。漫画のヒット作を持ち、ライツ部門が充実して、国際展開、メディアミックス事業に長(た)けている大手は、現状ママでもいいでしょう。その対極に、「本はぜいたく品にして高級品」とみなし、それを経営の基本姿勢にしながら、志を持った個性的な本を出し続ける道もありえます。

 後者はまさに、明治時代の出版社のビジネスモデルです。当時の本は、初版の発行部数がせいぜい1500部で、重版は1回につき500部程度。それでも経営はなんとか成り立っていたのです。

 これは単に、一部で部数を極端に絞り本の値段を調整すればいい、という次元の話ではなく、複線化と言うべきかもしれません。企画から製作、販売まで複数のラインがある。その中で、例えば1000円の本(普及版)と4000円の本(高級品)が両立する。後者は細部まで丁寧に作り、ルートも普及本とは違(たが)える。そういったイメージです。

 ここで大事なのは、業界側の都合にとどめてはいけないわけで、複数ラインを市場(読者)も当然だと思うようになればゴールです。「時間を刻み、伝える」という機能は同じでも、量販店の時計とスイスの職人集団の時計とでは100倍の価格差がある。それを誰も不思議とは思わない。あのイメージです。

再販制の話もからむわけですね。

 ええ、その通り。再販制は素晴らしい制度です。出版界も現在、この制度のもとで、より状況が悪くなることから免れている面は確実にあります。ただし、大手も中堅も「ひとり出版社」も、基本、取次を介した再販制という単線で読者に本を届けていると、どうしても消耗戦に入ってくる。バーチャル書店や電子出版の問題もからんでくるのですが、大枠では出版再販制を維持しつつ、必要な本を必要な人に届けるという基本に立ち返ったうえで、製作の仕方から販路まで数本の系統を持つ。そのように構想する時期に来ているのではないでしょうか。

 例えば明治時代、出版社は本の企画・編集・製作をするとともに、小売りや、場合によっては取次(他社の本も扱う)も兼ねているところが少なくなかった。結果的にラインが多様化していたのです。それを合理化して「全国一律・返本ありの定価販売」にしたわけですが、100年たって、抜本的に見直す時期に来たのではないか。現状を見つめると、そう考えざるをえません。

 ここで改めて言っておくと、日本では本の価格があまりにも安い。よく学生とも話すのですが、例えば人気アーティストのライブのチケット代は、ワンステージ数千円で、1万円超えも珍しくない。何度も繰り返し読める本は、その価格で何冊も買える。「本を買うほうがずっといいんじゃないか」と言うわけです。まあ通じませんけどね(笑)。それから、海外の本の価格と比べても、日本の本はかなり割安です。

 だったらいっそ「本は高級品である」を柱にした出版のありようが、一方で確立してもいいように思います。その際、従来の路線と高級品路線は、前述したように根本的に別のありようだと考える。手間ヒマかけた本を、それに見合う価格設定で出し、在庫を長く持つことで確実に売り切り採算を取るわけです。このインタビューの第3回「 全集、実用書、漫画…多様なベストセラーの源流は100年前にあり 」で話した「円本」とは逆の発想ですが、高級品はそもそも普及品ではありません。

 複線ですから、例えば、ラインが別個の普及品と高級品とでは、現場のありようはまったく違ってくる。というか、必然的にそうなる。中間の形態もありうるでしょうが、戦略が必要です。どっちつかずで、現状維持的な経営をやり続ける出版社は、生き残れないかもしれない。

 その意味で淘汰変遷の時代が来ています。実はこの連載のテーマである「100年前」こそ、淘汰の時代だったのです。再販制の導入など構造的な変化もあったのですが、それらによって、明治期からの大手、博文館や春陽堂が退場し、講談社・小学館・岩波書店・中央公論社・文藝春秋・新潮社など当時の新興勢力が出版のメジャーになっていきます。

 そのメジャー性は現在まで続いている。これが歴史的な曲がり角を迎えたと思われます。銀行でもデパートでも他の業界でも、21世紀を迎える前後の時期に、ものすごい再編劇があった。出版だけは勢力図にそう変化がなく、100年に一度の節目はむしろこれからかもしれません。

「生き残り」のリアル

変化といっても、出版業界が衰退するというのとは違うわけですね。

 「本好き」に支えられた我々にとって、全体が沈没する破船的衰退はまずありえません。局面はむしろ脱皮です。

 このインタビューの第1回「 100年前の出版業界 再販制度で部数大幅増、読書が大衆娯楽に 」で私は、出版人が存外、ベストセラーによそよそしい点を話しましたが、それには経営的にもある重要な観点が伏在しています。

 私の友人・芝田暁は熱意あふれる編集者にして精力的な出版社経営者でした。過酷な業務のなか壮年期に病で倒れてしまいましたが、その彼が私にこう言っていたのを今でもよく覚えています。「出版社というのは、売れ線を追うだけでは経営的に駄目なんだ。書店・取次・読書人から敬意を持たれる、その社でしかできない志を持った本を出していかないと、有形無形の支持を得られない」と。

 芝田さんは自著『 共犯者 編集者のたくらみ 』(駒草出版)のなかで、平岡正明さんの言葉を引用しつつ、「作品の思想性、芸術性など、まったく関係ない。すべては売れるか、売れないかという結果だけが重要なのだ」とも書いています。「文化? 冗談じゃない。売れるかどうかだろう」というのは現場のリアルですが、その芝田さんが独立して出版社を持ったとき、「売れるだけでは駄目」という別のリアルに直面していた。両者をともに実現するのが出版ではないか、なんぞは、業界を知らない人からよく口にされますが、言うがやすしであって、両者に股裂きにされるのは出版人の逃れられない宿命と受け入れるしかないのです。

 その宿命性がよりあからさまになってきたのが、当代ではないでしょうか。ただ、本が売れないと言われる今日でも、それなりの志をもとに、編集はもとより造本も含めてきちんと本を作り、一定数の読者に届けていくという作業に、意味がなくなるとは考えにくい。その前提に立って、路線の違いをもとに数パターンの本があるのを常態とすることができれば、業界は自然と再活性化していくのではないかと思います。

 「一定数に響くような本」とはいっても、それは存外、100年後も読み継がれる本かもしれません。それに、「高級品」からベストセラーが出る日も、まれには訪れるかもしれませんよ。ふてぶてしい出版人が、メジャーの街道だけでなく、あちこちの路地裏にも生息している限り、出版という業界はしぶとく生き残っていくでしょう。そう信じてやみません。

取材・文/島田栄昭 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子