みずほ銀行では、2021年2月のシステム障害のあと、3月にも3件の障害が発生した。第三者委員会は「問題を抑止・解決するという姿勢が弱い」とみずほの風土を痛烈に批判した。失敗を恐れる体質、心理的安全性が低い組織になぜなってしまったのか。 『みずほ、迷走の20年』(日本経済新聞出版) より抜粋のうえ紹介する。

問題を矮小(わいしょう)化する思考回路

 金融当局が指摘した「みずほの闇」は、行政検査で少しずつ浮かび上がりつつあった。なぜ、みずほばかりがシステム障害を起こすのか。より正しく言えば、システム障害が起きても短時間で収束できれば問題は大きくならない。みずほの最大の問題は、軽度なトラブルの原因を根本から解析せず、放置したままさらに大きなトラブルを起こすことにある。

 その理由の一つは、隠蔽体質ともいえる不祥事を極めて矮小化して扱う思考回路だ。みずほは21年2月28日の大規模ATM障害の前にも、実は18年に同じようなトラブルを起こしていた。ATMのシステムに障害が発生して、キャッシュカードや通帳が1800件も取り込まれるトラブルだったという。顧客からも大量のクレームがあったが、その日は平日だったために営業店の行員がうまく対応して社会的に表面化しなかった。当時のシステム担当者も経営陣もATMの改修といった必要な措置を取らず、対外公表も見送って金融当局にも顧客とのトラブルの詳細を報告しなかった。

 21年2月に起きたシステム障害は内容が全く同じだ。新しい勘定システムにデータなどを移行する際にATMに不具合が発生し、預金通帳やキャッシュカードをATMが飲み込んで閉じてしまう。18年にATM障害が発生した際にカードや通帳を取り込まないよう設計を見直しておけば、21年2月のように何千人もの顧客に影響が出る大規模トラブルは再び発生しなかったことになる。

 問題を矮小化する思考回路は、極めて根深い。ATMが停止した21年2月、システム担当者はそのトラブルの影響力を「A2」と判断している。どの銀行もシステム障害をランクづけして対処策の判断材料にしているが、A2はS、A1に次ぐ上から3番目。「行外に軽微かつ限定的な影響を及ぼす障害」という程度の扱いだった。

 「A2」の場合は銀行トップには連絡が入らない手順になっている。そのため、みずほ銀の藤原弘治頭取(当時)は、自行のシステム障害をネットニュースで知ることになる。持ち株会社社長でグループCEO(当時)の坂井辰史氏も、障害発生から6時間後にメールで知ることになり、非常時の意思疎通の悪さに社会的な批判を呼ぶことになる。当初からATM障害を「A2」ではなく適切に見積もっておけば、手続き上も早めに社内に通知できて、カードや通帳を奪われた客が店内に数時間も立ち尽くすという事態はもう少し抑えられた可能性が高い。

「自発的に問題解決できない風土」

 みずほは社内でシステム障害の原因を究明するため、3月に法律専門家らによる第三者委員会を立ち上げていた。第三者委は坂井氏ら116人にヒアリング調査をかけ、6月15日に公表した報告書で「自ら持ち場を超えた積極的・自発的な行動によって、問題を抑止・解決するという姿勢が弱い」とみずほ全体を手厳しく指弾した。

 報告書は「組織の持ち場を超えて意見を述べ、積極的に連携するなどの行動が高く評価されず、間違いがあれば大きく評価を下げるような企業風土」とも記述し、その指摘はもはやシステム障害という局所的な問題ではなかった。ビジネス界では「組織の心理的安全性」が一つのキーワードになっているが、結果的にこの報告書はその重要さを説く教科書のようにもなっていた。

 企業風土という問題は極めて難しい。システムに問題があれば修復すればいいし、トップに問題があれば人事で替えればいい。ただ、企業風土はどこか一カ所に責任の所在があるわけではなく、長年の積み重ねで培われるものだ。解決策を見いだすのは簡単ではなく、本質論に立ち入ろうとすれば、同調性といった日本人の国民性にまで踏み込む必要が出てくる。

 みずほが2月に引き起こしたATM障害は、システム担当者がトラブルを過小評価して、営業部門は店頭に駆けつけず、経営トップにも報告が上がらないという組織全体の問題ではある。誰もが傍観者のようになってしまう「事なかれ主義」はどこからきたのか。金融庁も行政検査で企業風土の問題に踏み込み始めていたが、そのためにかえって即効性のある解決策は描きにくくなっていた。

度重なるシステム障害の裏には企業風土の問題があった(写真:shutterstock)
度重なるシステム障害の裏には企業風土の問題があった(写真:shutterstock)
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「内なる戦い」に終始したIT戦略

 みずほに限らず、日本の大企業には自らの失敗を簡単には認めない「無謬(むびゅう)主義」が根深くある。ただ、みずほの場合は、3行統合という歴史がさらにその無謬主義を強めていた。

 第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の旧3行が経営統合を決めたのは1999年8月。総資産140兆円と世界最大の銀行グループになり「収益力、顧客サービス力でも世界の五指に入る」(当時の西村正雄・興銀頭取)と高い目標を掲げて走り出した。統合銀行はIT投資を成長戦略の柱に据えた。西村氏は「米銀のシステム投資は年15億ドル(当時の為替レートで約1700億円)。邦銀は年500億~600億円だが3行統合で追いつける」と強調。ITを駆使したデリバティブなどの「世界最高レベルのサービス」を目指した。

 ただ、結果的にみれば、みずほのIT戦略は「内なる闘い」に終始せざるをえなくなる。2002年には「みずほ銀行」の発足初日にATMが止まるシステム障害が発生する。収束に2週間以上かかる異常事態になり、その後はシステム部門の「内部の分断」に陥った。

 みずほ銀の当時の基幹システムは旧第一勧銀が開発した「STEPS」だ。大規模障害で約110人が社内処分を受け、旧第一勧銀勢はシステム運営の中枢から外される。その後は旧富士勢がシステム部門を主導するが「1980年代に設計された化石のようなシステム」(みずほ関係者)で、STEPSに精通した旧一勧の専門家を失うとその運用は手探りとなった。

 それが2011年の2度目の大規模障害につながる。東日本大震災の直後に義援金の振り込みが殺到。義援金口座の受け入れ件数には上限があったが、その設定はシステム部門で引き継がれていなかった。単純な運用ミスで義援金口座がパンクし、最後は全店のATMが止まる大規模トラブルとなる。みずほのシステムは「旧行の権力闘争で運用手順が継承されず『ブラックボックス』となっていた」(みずほOB)。

 11年の障害時も約100人が社内処分を受けた。その際に重要情報が引き継がれず、次の失敗の伏線となる。みずほ銀の提携ローンによる反社会的勢力への融資問題だ。同問題は10年時点で西堀利頭取(当時)が調査を命じ、反社融資が230件あることを把握していた。11年のシステム障害で西堀氏が引責辞任すると、その情報は後任の塚本隆史氏にもたらされなかった。13年に金融庁検査で発覚して社会問題となり、塚本氏も引責辞任。同時に50人が再び処分を受けた。

 3度の不祥事で社内処分は延べ250人を超えた。要職から経験者が外されるたびに3行統合で獲得した巨大な「人材プール」は干上がり、大量処分で企業風土も極端に失敗を恐れるようになった。みずほの第三者委員会は21年6月に提出した報告書で「心理的安全性の低さ」を手厳しい表現で指摘してみせたが、そこには処分を乱発したことでの社内人員の行動の萎縮が細かくみてとれた。

「世界最大級銀行」発足からの苦闘の記録

「世界五指に入るトップバンクになる」――。そんな目標をもって船出した巨大銀行は、度重なるシステム障害、巨額の不良債権処理、厳格な「竹中プラン」の中でもがき続ける。いったい、どこから「みずほの失敗」が始まったのか。生々しい人間ドラマも交えて検証する。

河浪武史(著)/日本経済新聞出版/1760円(税込み)