発足当初から多額の不良債権を抱えていたみずほは、大衆の熱狂的な支持を受けていた小泉純一郎政権における竹中平蔵金融担当相の「金融再生プログラム」(竹中プラン)によってさらに混迷を深めることになる。自己資本比率を高めないと、銀行の存続さえ困難になる状況に陥った。みずほのさらなる苦闘を、 『みずほ、迷走の20年』(日本経済新聞出版) より抜粋のうえ紹介する。

資金を吸い上げる銀行

 当時のみずほ幹部は「システム障害も問題だったが、竹中プランがみずほのスタートの大きな誤算になった」と話す。同プランに沿うと、みずほは新たに2兆円の不良債権処理が必要になる。1兆円規模の追加資本がなければ自己資本比率は国際規制で求められる8%を割り込むことがすぐにわかった。

 みずほは内部でいくつかの対抗策を練る。一つはほかのメガ銀行とのさらなる統合だった。三和銀行と東海銀行の合併でできたUFJホールディングスがターゲットになった。もう一つの秘策は「みずほコーポレート銀行とみずほ証券の海外部門、あるいは本体そのものを切り離して売却する案だった」(みずほOB)。事業売却で利益を得ると同時に、現在のりそなホールディングスのように国内のリテール業務に特化して、みずほ銀行単独で生き残る策だ。第一生命保険など親密先である大手金融との資本提携も俎上(そじょう)にのぼった。

 ただ、UFJとの合併構想は内部で早々に潰れる。みずほは3行統合の直後で、さらなる再編は組織の混乱を深めるリスクがあった。UFJは流通大手のダイエーなど不良債権問題を抱えており、みずほと統合しても大きな効果が見込めるわけではなかった。

 コーポ銀と証券の切り離し案は、旧興銀勢が猛烈に反対した。外資などへの売却を検討したが、切り離される側にとっては真っ先にリストラなどの対象となりかねない。第一生命など大手金融との資本提携案も、先方から色よい回答をもらえなかった。みずほが出した結論は「竹中プラン」の通りにすべての不良債権を処理して、さらに自力で資本増強するという崖っぷちの再建策だった。

 当時の前田晃伸みずほホールディングス社長がプロジェクトチームを発足させ、アイデアマンとして知られた小崎哲資コーポ銀経営企画部長らが具体策を練った。できあがったのは旧第一勧銀、旧富士、旧興銀の取引先を相手に、合計1兆円分ものみずほの優先株を引き受けてもらう仰天するようなプランだった。本来は産業界に成長資金を供給する銀行が、自らの生き残りのために産業界にリスクマネーの拠出を求める前代未聞の策だ。

ほかの銀行との統合を模索したこともあったが、結局は自力で資本増強する道を選んだ(写真:shutterstock)
ほかの銀行との統合を模索したこともあったが、結局は自力で資本増強する道を選んだ(写真:shutterstock)
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相次ぐ支援打ち切り

 03年1月には、02年度の不良債権処理を当初予定の6000億円から2兆円に引き上げると表明。その損失の穴埋め策として1兆円増資を3月中に終わらせるとも発表した。みずほの自己資本比率は、これでなんとか国際業務に必要な8%をクリアする計算になっていた。

 02年の大規模システム障害で矢面に立ったのは持ち株会社の前田社長だったが、1兆円増資で真価が問われたのは、興銀出身の斎藤宏みずほコーポレート銀行頭取だった。みずほホールディングスの傘下銀行は、大手企業を取引先とするコーポ銀と、個人や中小企業を相手とするみずほ銀行に2分割してある。増資を頼み込めるのは、コーポ銀の取引先である大手企業だった。

 1兆円増資に突き進む一方で、不採算企業の再建は断念を余儀なくされた。まず対象になったのは西武百貨店だ。同社は作家であり経営者でもある堤清二氏が育て上げ、1980年代後半に日本有数の百貨店グループへと成長した。ただ、異母弟の堤義明氏が率いる西武鉄道グループへの強烈な対抗心が、西武百貨店を核とするセゾングループの無謀な拡大路線につながり、1990年代に入って業績は悪化の一途をたどっていった。

 みずほコーポ銀は不良債権処理を求める「竹中プラン」によって、西武百貨店の金融支援の打ち切りを決める。無担保債権の99.9%にあたる1400億円を放棄し、東京三菱銀行など準主力行などにも800億円の放棄を求めた。西武百貨店は堤清二氏に疎まれ十合(そごう)に転じていた和田繁明氏を呼び戻し、そのそごうと経営統合することで生き残りを図っていく。

 みずほは長崎県佐世保市にある大型リゾート施設、ハウステンボスの支援も打ち切った。ハウステンボスは03年2月に会社更生法の適用を申請し、経営破綻した。1992年にオランダの町並みを再現して開業したハウステンボスは、バブル経済の崩壊で国内外からの観光客が激減した。資金繰りを支えるため興銀は2度にわたって債権放棄に応じたものの、これも「竹中ショック」で支援を断念した。ゼネコン大手のハザマなども私的整理に追い込まれ、みずほの取引先である不振企業は相次いで自主再建を断念した。一方で優良企業である取引先は、みずほから優先株の引き受けを迫られる日々が続いた。

国有化を避けるための必死の活動

 「あれほどまでに汗をかいて動いている斎藤さんを見たことはなかった」。当時を知るみずほ幹部は述懐する。斎藤氏は1966年に東大経済学部から興銀に入り、大企業を相手にした営業力でコーポ銀頭取にまで駆け上った。都会的な雰囲気が強い興銀の中でもとくに洒脱(しゃだつ)な人柄で知られ、取引先企業にも太いパイプがあった。斎藤氏は取引先に「なんとかみずほを助けてほしい。きちんと恩には報います」と頭を下げて回り、JFEホールディングスや東京電力などから優先株の引き受けを取りつけていく。なかでもみずほに情報システムを提供している富士通や日立製作所は早々に資金拠出を決めた。

 みずほは最後には、旧財閥の枠を超えて三菱グループなど主力取引先ではない企業にも増資の引き受けを頼んで回った。その手法は極めて異例で、みずほの支店長が預金獲得キャンペーンのごとく自社株を取引先に売りさばいていく。融資先へのこうした依頼は独占禁止法の「優越的地位の乱用」ととられかねない法規制上すれすれの策だった。

 みずほOBの一人は「あのときは国有化を避けるために必死だった。公務員並みの給料にされてしまえば、当時のみずほの給料と比べて半分になってしまう。私学に入れていた子供を公立に転校させなければいけないと夫婦で話し合っていたほどだ」と当時の切迫感を話す。1998年に国有化された旧長銀はその後に頭取が逮捕(その後に最高裁判決で無罪)されている。みずほは経営陣も行員も、公的資金の注入による国有化を避けるため、1兆円増資に必死にならざるをえなかった。

 最終的にみずほの増資を引き受けたのは伊藤忠商事や丸紅、九州電力など3400社にのぼった。ライバルである三菱東京は普通株による公募増資で3000億円を調達し、三井住友は米ゴールドマン・サックスなどを引受先として3000億円を資本増強した。2003年3月期の大手銀行の不良債権処理損失は5兆円を超えたが、3行とも資本増強でなんとか公的資金の注入はまぬがれた。

 とはいえ、当時の金融担当相だった竹中平蔵氏は、みずほの1兆円増資に対して「あのとき何というか、かなり無理をして資本増強したというイメージがある。あのやり方は企業とのもたれ合いになる」と今でも批判的にみている。実際、優先株の引受先となった取引先企業には、金利引き上げなどの条件交渉が緩み、メインバンクとしての発言力も落ちていく。みずほ自身も増資で発行済み株式数が大きく膨らんで、多額の配当負担が財務をむしばんでいくことにもなった。

 みずほコーポ銀の元幹部によると、08年のリーマン・ショック時は、1兆円増資の引受先を優先して緊急資金を出すコミットメントライン(融資枠)を設置したという。一方で優先株の引き受けを最後まで拒んだ取引先は、しばらくみずほから冷遇され続けたという。

「世界最大級銀行」発足からの苦闘の記録

「世界五指に入るトップバンクになる」――。そんな目標をもって船出した巨大銀行は、度重なるシステム障害、巨額の不良債権処理、厳格な「竹中プラン」の中でもがき続ける。いったい、どこから「みずほの失敗」が始まったのか。生々しい人間ドラマも交えて検証する。

河浪武史(著)/日本経済新聞出版/1760円(税込み)