みずほは度重なるシステム障害に加え、2013年には反社融資問題で、当時の佐藤康博頭取が衆院財務金融委員会に呼び出される事態になる。その間、みずほ発足時の3トップから「ワンバンク・ワントップ」体制などへ統治体制が変わるなどの改革があったものの、不祥事が止むことはなかった。みずほの企業統治改革はなぜうまくいかなかったのか。 『みずほ、迷走の20年』(日本経済新聞出版) より抜粋のうえ紹介する。
「耐えれば逆風は止まる」
2013年11月初旬に始まった金融庁検査は、12月に入っても全く終わる気配がなかった。当局がみずほと予定していた会議を突然キャンセルすることもあり、みずほは金融庁の無言の圧力をひしひしと感じていた。佐藤氏は11月22日に参院委にも招致され、反社融資問題で再び突き上げられる。同問題は政治案件となり、またしてもトップの経営責任が問われる情勢となっていた。
佐藤氏に「続投すべきだ」とアドバイスする金融人もいた。同氏を電話で激励したのは米ゴールドマン・サックスのロイド・ブランクファイン最高経営責任者(CEO)だったという。同氏も08年のリーマン・ショック後、公的資金を受けながら自身は高給を得ており、手厳しい批判を浴びた。それでもブランクファイン氏は佐藤氏に「今ではホワイトハウスにも招かれるようになった。耐えれば逆風は止まるものだ」と語ったという。
「落としどころ」は経営責任の組み合わせだった。11年のみずほ銀とコーポ銀の合併のような大仕掛けは今回は難しい。金融庁内に持ち上がったのは、組織改革の起爆剤として外部から会長を招く案だ。改革のモデルは、03年に公的資金を注入して再生させた「りそなホールディングス」だった。りそなにはJR東日本副社長だった細谷英二氏が会長として送り込まれ、「銀行の常識は世間の非常識」と喝破して大胆な営業改革を進めていた。
社外取締役が主導して首脳人事などを決める委員会設置会社への移行案も浮上する。これも、りそなが先例として取り入れていた。佐藤氏は熟考したものの、こうした外圧を使って改革の加速にカジを切っていく。佐藤氏自身も持ち株会社社長と銀行頭取を兼務する完全な「ワントップ」を返上し、持ち株会社の経営に専念することを決める。こうした改革案が急きょまとまったのはクリスマスイブの12月24日だった。
みずほは26日、14年6月をメドに委員会設置会社に移行し、取締役会議長ポストを新設して外部から人材を登用すると発表した。持ち株会社の会長を続けてきた塚本隆史氏と当時のコンプライアンス担当役員は3月末で辞任することになった。金融庁も同日、みずほ銀に対してグループ信販会社、オリコなどを通じた提携ローンの新規受付業務を1カ月間停止する業務停止命令を発令した。
だが、物事は少し複雑に動く。佐藤氏のみずほ銀頭取の辞任はそのときは伏せられた。「引責」との印象を消すためだ。佐藤氏が頭取ポストを譲って持ち株会社の社長に専念する人事を発表するのは年をまたいだ14年1月23日だ。その1週間前に佐藤氏は旧富士銀の林信秀氏を本社オフィスの自室に招いて頭取就任を打診した。林氏は国際畑のため国内の不祥事に「無傷」だったことが大きい。
佐藤氏は記者会見で頭取職を譲ることを「個人的なけじめ」と表現した。けじめを示した先の一つは政界。24日からは通常国会が始まることになっていた。もう一つは第一勧銀勢だ。経営の第一線から去るよう求められた塚本会長と法令順守担当役員は一勧出身だったからだ。
外圧任せの改革では「魂」が入らず
みずほフィナンシャルグループ(FG)は14年6月に、3メガ銀行では初めて委員会設置会社に移行した。佐藤康博社長は取締役会議長に第1次安倍晋三政権で経済財政相を務めた大田弘子氏を起用し、主要人事を選定する指名委員会のトップには日立製作所元会長兼最高経営責任者(CEO)の川村隆氏に就任を求めた。
経営の監督と執行を切り分ける仕組みで、経営の基本方針を取締役会で議論して、事業戦略の細かな決定は執行役社長が引き取ることになる。例えば16年5月に決議した「中期経営計画」は、社内8人、社外7人の取締役会で1年近くかけて議論している。ブランド戦略やコスト構造改革、人事戦略など分野別に区切って集中討議。その間、大型融資などの銀行業務は執行役だけで決定するようになった。
人事を決める指名委員会は、年間10~12回開いており、持ち株会社や銀行、証券といった事業会社の取締役の選解任を担うことになった。人事の原案は持ち株会社の社長が策定するケースが多いが、18年の佐藤氏から坂井辰史氏への社長交代は、この指名委員会が主導的な役割を果たした。
みずほにとって大きかったのは、外部経営者による新しい知見が確保できたことだろう。みずほは坂井体制となった19年3月期に5000億円もの減損処理に踏み切るが、そのアイデアを温めていたのは日立元会長の川村隆氏だったとされる。
それが21年の連続システム障害にみられる組織のひ弱さにどうしてつながったのか。一つは外部主導の改革のもろさだろう。みずほ銀とみずほコーポレート銀の合併は、佐藤氏や塚本隆史氏(当時FG社長)による内部主導による一気呵成(かせい)の改革劇だった。ただ、委員会設置会社への移行や社外からの取締役会議長の選任は、最終的には金融当局の圧力によるところが大きい。
外圧任せの改革は「魂」が入らず、主導者もないまま風化する。21年のシステム障害時にみずほを集中検査した当局担当者は「社外取締役も社長も頭取もヒアリングしてみたが、14年以降しばらくあった組織の闊達(かったつ)さが今は見事になくなっている」と嘆いた。
みずほ迷走の原因
「みずほの迷走」の要因をここで読み解いておきたい。第一の原因は、3行統合後のグランドビジョンが全くなかったことだろう。第一勧銀、富士銀、興銀が前例のない3行統合に踏み切ったのは、連載第2回「 みずほ発足の3行統合は、巨大な『B級』銀行を生んだだけ? 」でみたように「生き残ること」が目的だった。統合後も、1兆円増資のように生き残りをかけた闘いになると、みずほはその底力を発揮する。ただ、組織存続という目的が達せられると、目指すべき針路を持たないままさまようことになる。
旧3行出身の3人のトップが並立する3CEO制は、組織内の迷走も引き起こした。第2次世界大戦時の日本軍の敗戦を徹底分析した名著『失敗の本質』では「近代的な大規模作戦を計画し、準備し、実施するためには、陸・海・空の兵力を統合し、その一貫性、整合性を確保しなければならない。個々の戦闘においても、歩兵、砲兵の鉄砲火器や飛行機、戦車など大量の総合戦力を統合できる組織・システムが開発されていなければならない。この点でも米軍はすぐれた統合能力を発揮し、日本軍を圧倒した」と記す。
旧3行の統合後、個々人が持つ優れた能力を結集するのではなく、3行の縄張り争いの中で発散して無駄遣いしてしまったのがみずほの迷走の2つ目の要因だろう。3つ目の迷走の要因は、大企業が持つ「無謬(むびゅう)主義」が障壁となって、システム障害などの失敗の原因を根本から分析して生かす仕組みがないことだ。
02年のシステム障害は歴史的なトラブルとなったが、新銀行の開業前から内部で連続エラーが発生していた。にもかかわらず「なんとかなる」と見切り発車したのが失敗の原因だ。その後の11年、21年のシステム障害も、同じような思考回路で抜本策を先送りして、小さなミスが積み重なってかえってトラブルを長引かせている。
みずほの再起動は、まずは組織のグランドビジョンを描くことから始まるだろう。佐藤体制は「Oneみずほ」を標榜して銀行・信託・証券の一体化ビジネスを実現しようとしていた。坂井体制は「次世代金融への挑戦」と掲げたが、それにはDX(デジタルトランスフォーメーション)が真っ先に求められる。みずほがもたつく間に、世界の金融界はデジタルを軸にはるか先を進もうとしている。木原正裕新社長には、みずほが目指すべき指針を打ち立て、そこに人材を結集していくリーダーシップが求められる。その上で、「無謬主義」や「事なかれ主義」から脱する組織の活力を取り戻すことが必要になる。
「世界五指に入るトップバンクになる」――。そんな目標をもって船出した巨大銀行は、度重なるシステム障害、巨額の不良債権処理、厳格な「竹中プラン」の中でもがき続ける。いったい、どこから「みずほの失敗」が始まったのか。生々しい人間ドラマも交えて検証する。
河浪武史(著)/日本経済新聞出版/1760円(税込み)