3年8カ月に及んだ日本の第2次世界大戦で、日本が敗戦に向かう転換点と位置付けられるガダルカナル島奪還作戦。名著 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』 (中公文庫)の著者の1人、野中郁次郎氏が、成功を信じて戦いを挑んだものの結果として失敗した作戦の経過をたどりながら、なぜ戦史の研究が必要なのかを語る。日経プレミアシリーズ 『「失敗の本質」を語る なぜ戦史に学ぶのか』 から抜粋してお届けする。

事例としてのガダルカナル作戦

 3年8カ月に及ぶ第2次大戦での日本の戦いぶりを振り返っても、負け戦ばかりだったわけではありません。 『戦略の本質』 (日経ビジネス人文庫)では、4つの局面に分類しています。1941年12月の開戦から42年中ごろまでの「戦略的攻勢」、42年中ごろから43年前半までの「戦略的対等」、43年前半から44年6月のマリアナ沖海戦までの「戦略的守勢」、44年6月以降、45年8月の終戦までの「絶望的抗戦」です。

 戦略的攻勢の局面では、ハワイの真珠湾攻撃に始まり、フィリピン、マレー方面の南方作戦でも日本軍は優位に立っていました。戦略的対等の局面は、日米の陸海軍がほぼ互角の戦いをした時期であり、日米がそれぞれ主導権を取れる可能性がありました。42年6月のミッドウェー海戦で日本海軍は大敗を喫しますが、空母を含めた海上兵力では、なお日本軍のほうが優位にありました。戦争全体の大きな転機となったのが、43年1月の日本軍のガダルカナル島からの撤収と、同年6月の米軍によるソロモン諸島からの反攻の開始です。

 短期決戦を望んでいた日本軍は消耗戦に引きずり込まれ、米軍との兵力の差が開く一方となりました。44年6月のマリアナ沖海戦での一方的な敗退は敗戦を決定づけました。そのあとの局面は、まったく勝てる見込みがない戦いを続けるだけで、45年6月に本土決戦の戦争指導方針を決定したものの、結局は断念して無条件降伏に至りました。

ガダルカナル作戦は日本が敗戦に向かう分岐点となった(写真:shutterstock)
ガダルカナル作戦は日本が敗戦に向かう分岐点となった(写真:shutterstock)
画像のクリックで拡大表示

 成功と失敗の分岐点は、個々の作戦の中にも表れます。『失敗の本質』では、戦史上の失敗例としてノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄の6つの事例を取り上げ、個々の失敗の内容を分析したうえで、敗因を探っています。私は事例研究ではガダルカナルを担当し、組織論の専門家として全体の理論構築を担いました。

 ガダルカナル作戦は、日本が敗戦に向かう転換点と位置づけられますが、作戦の経過をたどると、やはり起伏があります。経過をみてみましょう。

 ガダルカナル島は日本から約6000キロ南西にある南太平洋ソロモン諸島の中心に位置しています。1942年6月のミッドウェー海戦後、主導権を握った米軍は日本軍を抑え込む時期を迎えました。最初の反攻は、日本軍が飛行場を建設中であったガダルカナルに的を絞りました。米国には日本本土の直撃による戦争終結という基本戦略があり、太平洋諸島を制圧して航空機の前進基地を確保しようとしました。日本側の予想より早く、日本軍の補給線が伸びきったガダルカナルの攻略を目指したのです。

 1942年8月7日、巡洋艦と駆逐艦からなる、米軍の艦砲支援群と航空機はガダルカナル島とツラギ島を爆撃し、海兵隊を乗せた船団が沖合から接近して両島に無血上陸しました。

 連絡を受けた大本営陸軍部の情勢判断は誤りでした。米軍の上陸は一種の偵察作戦か飛行場の破壊作戦である可能性が高い。上陸した兵力は著しく劣勢であり、米陸軍は弱いから、ガダルカナル奪還の兵力は小さくても早く派遣できる部隊がよいと判断したのです。米軍が海兵隊を中心に陸・海・空の機能を統合して島から島へと逐次総反攻を進める「水陸両用作戦」という新たな戦法を開発していたとは、想像していなかったのです。

 大本営は、一木清直大佐が率いる兵力2000人の支隊に、ガダルカナル島の奪回を命じました。ガダルカナルには米軍の1万3000人が上陸していましたが、一木は2000人と誤認し、900人の先遣隊で飛行場の奪還を目指しました。

 一木支隊は8月18日午後、ガダルカナル島のタイボ岬周辺に上陸し、飛行場を目指して海岸沿いを進みました。21日未明、一木支隊が砂地の浅い川を渡ろうとしたとき、突然猛烈な砲撃と射撃を受けました。反撃を試みましたが、川の上流から回り込んできた敵に午前10時ごろ挟み撃ちにされます。敵は水陸両用車も送り込み、午後3時には戦闘が終了しました。一木大佐は自決し、部下の大多数も戦死しました。

 一木支隊は勝利を確信して突撃しましたが、圧倒的な戦力の差になすすべもなかったというのが、ガダルカナル島初戦の顚末(てんまつ)でした。

 一木支隊先遣隊の全滅を受け、日本陸軍は川口清健少将の川口支隊(約5400人)をガダルカナル島へ派遣しました。川口支隊は8月29日、ガダルカナル島に上陸し、ジャングルの中を移動しました。9月12日夜に夜襲を決行したのです。

 川口支隊はいくつかの隊に分かれ、期限までに決められた攻撃地点にそれぞれ進むことにしていましたが、ジャングルの中を、武器・弾薬を運びながら進んだため、攻撃開始に間に合わない隊も出ました。12日夜は攻撃地点に間に合った部隊だけで攻撃しました。翌13日、川口支隊長は味方の情勢をよく把握できなかったものの、再び攻撃を指示しました。午後8時に総攻撃に打って出ましたが、敵軍の反撃に対抗できず、敗れました。日本側の戦死者は約600人、負傷者は約500人にのぼりました。

 この第1回総攻撃は失敗に終わりましたが、日本軍はやはり勝利を見込んで戦いに挑んだといえます。

勝利を見込んだ第1回総攻撃は失敗に終わった(写真:shutterstock)
勝利を見込んだ第1回総攻撃は失敗に終わった(写真:shutterstock)
画像のクリックで拡大表示

問題は第2回総攻撃

 問題はその後の第2回総攻撃です。2度の突撃に失敗した陸軍は、さらに大きな戦力で10月中の飛行場奪回を計画しました。第2師団の師団長、丸山政男中将は一足先に10月3日、ガダルカナル島へ上陸。戦闘指令所を設営しました。先に上陸し、敗退していた部隊から「ガダルカナル島へ上陸した兵力は、約9000人で、そのうち戦病者2000人、健在の兵は約5000人だが、攻撃力としては期待できない」との連絡が入ります。生存していた兵も、マラリアなどの病気と飢えによって戦う体力が残っていなかったのです。

 第2師団約1万人は、24〜25日、総攻撃を敢行しました。それ以前から一部の部隊は敵と遭遇し、撃破されていました。地上の敵軍の攻撃だけではなく、飛行場から飛び立った航空機によって日本軍は爆撃と機銃掃射を浴び、作戦を断念しました。2000〜3000人の日本兵が死亡したのです。

 正面攻撃を避け、迂回作戦を実行するよう上層部に提案し、総攻撃直前に罷免された川口少将は手記で「これでは金城鉄壁に向かって卵をぶっつけるようなもので、失敗は戦わなくても一目瞭然だ」と述懐しています。川口の予想通り、日本軍は敗れたのですが、日米の兵力の差や、それまでの戦いぶりを見れば、ごく当たり前の情勢判断ではないでしょうか。

 川口の提案を封じ込め、2回目の総攻撃に走ったあたりから、日本軍は冷静な判断ができなくなりました。もっと言えば、失敗の可能性が高いのにあえて戦いに挑むという別次元の領域に入り込んでしまったのです。大本営がガダルカナル島からの撤収命令を下したのは1943年1月4日。第2回総攻撃後、奪還は難しいとの見方が第一線にも広がっていましたが、最終決定までに2カ月かかりました。

全否定では見えない本質

 ガダルカナル島の奪還作戦は、最初から最後まで失敗の連続であり、日本軍が敗戦に向かう分岐点と位置づけられています。そうした認識は間違ってはいませんが、第1回総攻撃までの日本軍は失敗を予見していたわけではありません。成功を信じて戦いを挑んだものの、結果として失敗したのです。第1回総攻撃ではあと一歩で飛行場を奪回できたとの見方も一部にあり、戦場においても成功と失敗は表裏一体なのです。

 企業間の競争に比べると国同士が戦う戦争は最終的な勝敗がはっきりする場合が多いですが、成功と失敗は、やはり地続きであり、個々の戦闘レベルでは勝者と敗者は瞬時に入れ替わります。日本軍の研究は、失敗の研究ではありますが、「何もかも失敗だった」と全否定するだけでは、失敗の本質は見えてきません。

 戦史に関わる研究はなぜ必要なのでしょうか。私の精神の奥底には米国へのリベンジの念があるのは確かですが、長く戦史に関わる研究に取り組んできた理由はそれだけではありません。

 戦後の日本に最も欠けていたのが戦略と戦争の研究ではないか、という意識があるからです。自分としては戦史に関わる研究を継続し、一定の成果を生み出してきたとの自負はありますが、日本全体でみると戦略や戦史に関わる研究が活発だった、とは言えません。日本が平和を望むのなら、過去の戦争を検証し、教訓を引き出したうえでイノベーション(革新)につなげるべきです。

 日本人は第2次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもとで新憲法を制定しました。平和主義や、「戦争はよくない」「平和を望めば平和が訪れる」という考え方が根を下ろすと同時に、戦争には目を向けない傾向が強まりました。

戦争とは人間の根源的な価値観に限りなく近づくものであるために、それを真摯に見つめることで初めて、われわれはあらゆる現実に対して謙虚な姿勢をとることができる。ほんとうに「平和」を実現したいと望むなら、戦争のなかに現れる人間の弱さや浅ましさ、愚かさなどの感情すべてを平常心をもって、リアリティーとして受け入れなければならない。これこそが真のリアリズムである。(『戦略論の名著』<中公新書>18ページ)

成功と失敗は表裏一体、何もかも否定すると本質は見えてこない(写真:shutterstock)
成功と失敗は表裏一体、何もかも否定すると本質は見えてこない(写真:shutterstock)
画像のクリックで拡大表示

 1979年、防衛大に移籍し、戦史に関わる研究に取りかかりました。といっても専門は経営組織論であり、単独で研究に取り組むのは困難です。ちょうどそのとき、戦史の研究家である杉之尾孝生が、社会科学の方法論を戦史に関わる研究に導入できないだろうかと、私と、同僚の鎌田伸一に声をかけてきました。80年秋に研究会を立ち上げ、共同研究をスタートさせました。政治過程の決定論に関心を持っていた戸部良一もメンバーに加わり、危機における国家の意思決定や情報処理をテーマに議論を重ねました。

『失敗の本質』が長く読み継がれている理由の一つは、6つの作戦の事例研究と、理論的な分析を組み合わせ、失敗の教訓を体系立てて引き出している点にある。野中は米国で学んだ組織論を武器に、戦史に関わる研究という未知の分野に切り込んでいった。

構成/橋口いずみ 写真(イメージ)/shutterstock

私の経営学になぜ戦史が必要なのか

勝者と敗者を理解しなくては成功のメカニズムは解明できない――。『失敗の本質』『アメリカ海兵隊』『戦略の本質』誕生のドラマから、研究への姿勢、知的創造理論の進化の軌跡まですべてを語る。

野中郁次郎(著)、前田裕之(聞き手)/日本経済新聞出版/990円(税込み)