2024年にブームとなった、『罰ゲーム化する管理職』(インターナショナル新書)。同書は、収入を上げるための近道であるはずの管理職昇進が、働く人から忌避されていると指摘します。なぜ、管理職になりたい人が減るばかりでなく、「罰ゲーム」とまで言われてしまうのでしょうか。また、個人の働き方が自由になっていくなかで、よりよい組織・集団をつくっていくためには、どうしたらいいのでしょうか。今回はその問題を、「職場の力学」から考えます。

管理職は「罰ゲーム」なのか

 管理職になりたくないという人が増えてきているといわれている。収入を上げるには管理職昇進が近道なのに、なぜなのか。副業で収入を上げるという方法もあるにはあるが、まとまった金額を増やすのは、副業ではなかなか難しいだろう。

 小林祐児氏が、2024年に刊行して大きな話題となった『罰ゲーム化する管理職 バグだらけの職場の修正法』(インターナショナル新書)によれば、現在の中間管理職はさまざまな課題(バグ)の連鎖に直面している。ところが、その上司である経営陣は、過去の体験に基づいて語るだけで、現在の課題連鎖の状況をよく理解しておらず、単なる根性論になっている。
 さらに小林氏の批判は、本来、管理職の仕事を助けるはずのマネジメント本にも向かう。なぜなら、それらの本は、管理職の理想が書かれ、やるべき仕事を羅列するだけで管理職の負担を増やしているからだ。
 この本は、一冊まるごとを使って、現在の管理職におけるさまざまな問題を分析しているので、すべてを紹介することは難しいのだが、本連載で何度も言及しているチャネル過剰の職場になったことも、管理職の受難を生み出した一つの大きな要因であろう。

 従来型の管理職は、指揮命令系統が明確であり、日本企業の伝統とも言える「島型オフィス」で部下たちを一望監視できていたので、管理しやすい。さらに、固定席に加えて毎日対面出社の時代である。管理する仕事は今と比べて圧倒的に楽であった。
 だがしかし、分散型ワークになり、フレックスタイム制が導入されるようになった。さて、全部下を目視できない環境で、管理職はいかに指示を出すのか、そして評価するのか、また動機づけるのか……要するに、昔の自慢話をする経営陣には想像できないほどに、「管理」という仕事は難しくなったのだ。

職場に生まれた「権力の反転」

 私は、この管理の困難に直面した分散型ワーク×フレックスタイム制の職場を訪ね歩いてきた。例えば、とある最新オフィスの管理職3人にそれぞれインタビューをしたことがある。この職場では、部下はフレックスタイムで出社していたが、管理職は3人とも週5日、自主的に出社していた。

 毎日出社の理由を説明することは簡単である。部下の出社は個々人の最適化となるが、管理職が目指す最適化はチームという集団なのだ。そして、部下の出社はバラバラなのだから、管理職は集団の最適化のために、それら個々の行動に合わせるしかない。仮にすべての部下と週1回程度でも会おうとすれば、毎日出社という一択しかないのだ。
 島型オフィスのように1人の管理職に部下が合わせる時代から、多くの部下たちに管理職のほうが合わせる時代へと「権力の反転」が起こったのである。

 もちろん、1対1で見れば、今でも管理職の側に権力があるが、その「1対1」の関係が複数あれば、管理職は「弱い立場」になってしまう。そんな苦しい状況で、追い打ちをかけるように、人事部が導入に関心を持つのは1on1の人事面談であったりする。
 たしかに人事面談は、管理職の負担を無視すれば、部下に対しては有効かもしれない。しかし、それを行う時間はあるのだろうか。人事部が苦しむ管理職に対して「面接をかならず週1回してください」と言おうものならば、それは「善意に基づく害」でしかない。

 そんな状況を理解してか、経営側に権力をふたたび取り返そうという経営陣は多い(コロナ収束以降の反動だ)。要するに、「とにかく全員出社しろ」というわけだ。私も、「過去の職場慣行に戻れ」という気持ちも分からぬでもないのだが、一度分散してしまえば、完全に過去に戻るのは不可能だと思う。
 なぜなら、部下たちは「分散の自由の快楽」を知ってしまっているからだ。
 自由の選択は、その快楽と共に、それを知る前には感じなかった「不自由の苦痛」も生み出してしまう。強制的に戻らせることは、従業員たちの(自由になる前にはなかった)苦痛への不満に向き合うことを意味する。
 これでは、進むこともできず、戻ることもできない……そんな場所に我々はいるのだ。

認められない自由、認められる不自由

 その一方で私は、数々の分散型の職場において優れた管理職たちにも出会ってきた。さすがの実践に膝を打ち続けてきた。
 彼ら彼女らが探していたのは、部下にある程度の自由を認めつつも、管理はしやすいという「しなやかな仕組み」であった。

 例えば、ある優れた管理職は週1、2回の出社ルールを決めていた。育児や介護などを抱える部下もいるので、「絶対出社」ではなく「極力、集まってほしい」というルール化であった。
 このルール設定も、見聞きするに、細心の配慮の下で行われていた。つまり、許容される不自由は、前回紹介した、統一された「集合行為」であり、そのような集合行為は上からではなく、下からの納得でなければならない。つまり「まあ、このくらいの不自由は仕方がないよね」という合意によって生まれる集合行為を生み出す工夫があった。
 むろん、このような納得の獲得は「下からの合意」であっても渋々となりがちである。その渋々をどのように減らすか。ある優れた管理職は、英会話レッスン会やお菓子会などの対面イベントを実施していた。

 みなさん、お分かりであろう。これらのうまい工夫は、出社を促す仕組みなのである。そのように考える理由を言語化すれば、「誘因設計を行うことで強制という要素を最小化している」と定義できる。そして、そのような誘因設計は露骨な外発的動機づけではないのである。仮に英会話レッスンが人事評価に結び付けられてしまえば、外発的になってしまう。レッスン参加を評価することは、管理職は絶対やってはいけないのだ。

 すなわち、管理職の技(アート)は、次のようにまとめられる。
 集まるルール化の誘因設計を楽しさによって少しズラすこと、もっと露骨に言えば、設計の意図を隠すことによって「見えにくい誘因設計」をつくることができる。

問うと不満は顕在化する

 ところで、集まるルール化の誘因設計のために、部下たちの納得感や潜在的なやる気を把握しようと思っても、それらの「感と気(分)」は測定できないことに注意すべきである。
 おそらく本人であっても、「感と気(分)」の半分は意識しているかもしれないが、あとの半分は意識もしていないのではないか。つまり、半意識・半無意識ゆえに、アンケートによって部下の意見を集める、というやり方では通用しないのである。通用しないという以前に、アンケートによってネガティブな効果が生まれる危険もある。

 そもそも、そのような半意識の領域に対して、「意見を聞く」という行為自体が自由や不自由に対する感覚を鋭敏にしてしまう。これらの感覚なんて本人からみればあやふやだ。その半無意識には直接的に触れないことも大事である。問うてしまうと、「そういえば、この不自由は嫌だな」という不満感が強く顕在化してしまうかもしれないのだ。
 であるならば、この他者の半無意識を読み解ける、という高度な技(アート)を身に付ける必要がある。見方を変えれば、こんな技を身に付けられたのはごく一部の管理職だけであろう。
 もちろん、そんな技あり管理職が増えてほしいと思う。無意識を察知して、柔軟に合意の落としどころを探り、「見えにくい誘因設計」をつくるためにも、管理職に言いたいことは、「意見を問わずに、集合的な無意識を感じろ」になる。

◇きょうの一言◇
働きやすさの根源は、自由や強制力よりも「いいルール」。

(イラスト:PureSolution/stock.adobe.com)
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