コロナ禍が大きなきっかけとなって、以前より働き方が自由になった職場が増えました。しかし、個々人が自由に働けるようになったからといって、職場全体が「以前より良くなった」「働きやすい職場になった」とは言い切れない方も多いのではないでしょうか。「集中力を必要とする作業のために出社したのに、周囲がざわざわして気が散ってしまう」という悩みもよく聞きます。今回のテーマは「自由と秩序」。個々人が持つ自由によって生み出される環境と、その環境がもたらす個人への影響について考えます。
「働き方の自由化」は、職場をどんな環境に変えるのか?
前回
は、「チャネルや選択の過剰」という環境に対して、多動力を例に、そのような環境を使いこなせる能力について考察した。理想としての能力については私も理解できるのだが、そのような能力を身に付けることができるのかと問われると難しいと考える。そもそも「チャネル過剰」という環境自体が、我々の能力を弱体化させている要因かもしれないのだ。
であるならば、今回は、我々を取り巻く環境について考えるべきであろう。
このチャネルの環境というものを誰がどのように設計しているのかと考えると、その答えを出すのは難しい。例えば、小・中・高校の教室ならば簡単に答えられる。教室という環境を作っているのは、学校、具体的には先生である。学校は、空間と時間をコントロールされているからである。
携帯は持ち込まない、席は固定、決められた時間割、つまり自由が大幅に制限されているので、教室ではチャネルは最小限に絞られる。ただし、このような選択環境を作るには、大げさな言い方だが、個人の自由を制限できる「権力」が必要になる。
一方、昨今の分散型ワークプレイスはどうであろうか。副業OK、フレックスタイム制、座席もフリーアドレスにすれば、選択の自由がどんどん拡張する。結果的に「自由という環境が設計された」と言うこともできるが、私の関心は、この自由の拡張によってどのような「環境」が生まれるのか、である。
グループダイナミックスにおける集団特性
もう少し説明を追加しよう。一人ひとりが自由に行動した結果として、「集団」が生まれる。この「集団」というものは個人にとっては環境なのである。
例えば、「今日は会社オフィスで働こう」と思ったとしよう。オフィスの間取りと仕様はいつもと変わらないのだが、その日に誰が集まっているのかによって、その「環境」は変容する。「そうだ、金曜日なので、飲み会好きでお喋(しゃべ)り好きの同僚数名が出社していた」ということになれば、いつものオフィス=集団はワイワイと騒がしい環境になる。
私の知り合いに、いくつかのコワーキングスペースを目的によって使い分けている人がいる。その人は、コワーキングスペースの空間の違いよりも、知り合いが多いか、少ないか(誰もいないか)というように集団の特性で判断していた。
このような集団と個人の関係を研究する心理学の領域としてグループダイナミックス(集団力学)がある。この領域は、個人の思考や行動が集団特性(環境)に影響を与えるが、同時に集団特性は個人の思考や行動にも影響を与えることに着目する。
そして、この集団になると現れる特性は、単に個人の行動の足し算としては把握できないものだ。だからこそ、集団の「力学」の分析なのだ。要するに、どのような集団特性が現れてくるかが、事前に予測しにくい。個人から見れば、環境は簡単に設計できないのである。
「教員に見える世界」と「大学生が見ている世界」
ところで、残念なことに多くの人は、この集団力学の予測不可能性をあまり意識していない。先ほど小・中・高生の教室を例に挙げたが、まったく異なる事例として大学を紹介しよう。
私も、現在、大学で教えているから分かるのであるが、昨今の大学は様々な教育機会を提供しているし、大学生は、彼ら彼女らの親世代(バブル世代が多い)よりも勉強している(勉強しなければならない)。
教員たちは、自分の授業に一生懸命である(例外はあると思うが)。講義形式の授業はもちろんであるが、社会連携の授業、課題解決型の授業、留学を含めた語学教育、キャリア教育にも熱心である。教員は、教壇に立ち、学生を見る。ただ、その教室だけが教員が見ている世界になってしまう。
一方、学生側にはどのように見えているのだろうか。実は、授業の選択肢の多さは、数々のバッティングを生み出している。もちろん、同じ時間に授業を取ることはできないが、社会連携授業の発表会や留学などは、どうしても授業時間のみというわけにはいかず、時間調整が必要になる。さらに、ゼミ活動も授業以外の時間に行われることが多いわけだから、授業と授業がバッティングしてしまう。一教員は自分の授業のコンテンツだけを見ているが、学生は授業全体(さらにサークルやアルバイト)と調整せざるを得ない。
さらに、3年生からは学外のインターンシップが増えてくる。もちろん、個々のインターンシップの内容を見ると、大変充実しているものが増えてきている。インターンシップのキャリア選択に対するプラスの効果も研究結果が明らかにしている。
ところが、このような「選択過剰という環境」は、果たして一学生に選べるものなのだろうか。
例えば、大学3年の夏休みは、だいたい約6、7週間であると考えてみれば、5日間のインターンシップに二つ参加すれば、2週間。この他にサークル合宿やゼミ合宿があったとする。さらに、それら合宿の費用などを賄うためにアルバイトをすれば……。
まず、夏休みに自由な時間がほとんどないのである。そして、学生たちが参加するインターンシップの期間は別々なのだ。私も、ゼミの教員として夏の2泊3日の合宿の日程調整は困難を極める。毎年、この調整は一大仕事である。
厚生労働省・文部科学省・経済産業省による三省合意では、いくつか必須の条件があるが、インターンシップ・プログラムを通じて取得した学生情報を採用活動開始後に活用できることになった。どうしてもこの業界、この会社で夏のインターンシップに参加したいという学生を引き留める権限は、ゼミの教員にはない。
インターンシップでも、サークルでも、ゼミ活動でも、どれかの活動に熱中できればよいという前提の上に、私も含めた教員側は個々のコンテンツについて真剣に考えていると思う。ただし、学生側が見ているのは、学内外の様々なコンテンツが並列する選択過剰という環境(集団特性)なのである。
ゼミを数回休み、サークルを数回休み、留学後にゼミに途中参加するという状況で全てに熱中できていないということにならなければよいのだが…。
「景観」という全体の利益のために必要なのは、個人の我慢か、権力か?
先ほど、集団特性という環境は、個々人でコントロールできないと書いた。つまり、個別の授業内容はもちろん、大学の授業を高校と同じ(ほとんど選択できない)にしてしまえば、学内に限ってコントロール可能ではあるが、そんな大学に通いたい学生はいない。
このような選択過剰の問題は、経済学者のマンサー・オルソンによる「集合行為問題」と言い換えることも可能だ。善意の個人の合理性(例としては、良い授業を作る)という行動が、集合されると、全体としての合理性を失う事例と考えればよい。
例えば、街並み景観という集合行為によって成り立つものを考えてみよう。江戸時代の蔵が残る街並みの一角に、どうしてもヨーロッパ様式の新しい洋館を建てたいという個人がいたとして、それが私有地であれば、個人の希望の最適化ではある。だが、街並みという景観全体の価値が大幅に失われる。この価値は「集団特性の価値」とも「集合行為によって生まれる集合財の価値」とも言い換えられる。
さて、「選択過剰な環境」とは、このような集合行為によって生まれたもの、そしてその環境のヤバさに気づいたとしても、一個人としてはどうしようもないのではないか。もちろん、都市の美観を保つために建築物の構造や色彩、屋外広告などを規制する美観地区のように、個人の自由を制限すれば、その環境を変えることは可能かもしれない。だが、そのためには、どうしても権力が必要になる。
我々は、権力という道具なしで、選択環境を整えられるかという問題を考えねばならないのだ。
解決策はあるのか。続く連載では、この問題に対する様々な取り組みを紹介していきたい。
◇きょうの一言◇
職場環境は「コントロールしよう」とするだけ無駄…かもしれない。
