画期的なアイデアが出ない。イノベーションが生まれない。そうしたとき、つい、「天才」を求めたくなるかもしれません。しかし法政大学の梅崎修教授は、「多くの企業においては、天才は不要である」といいます。「天才は不要」とはどういうことなのでしょうか。クリエイティビティの側面から見ていきます。
クリエイティビティは「天才」だけが持っている特殊能力か
これまでの連載でも何度も述べてきたキーワードはクリエイティビティ(=創造性)である。これまで考察してきた「言語化」も「休暇」も、ビジネスというフィールドではクリエイティビティという達成目標を抜きに語れない。
しかし、儲(もう)けを生み出すクリエイティビティが経営目標として認識され、そのコストパフォーマンスが意識されればされるほど、クリエイティビティの中に含まれていた「余剰」や「遊び」という本質から徐々に遠ざかってしまうというジレンマがあった。
さらに、クリエイティビティには「個人崇拝」への偏りという問題が生まれる。クリエイティビティは「個人の才能」として語られがちなのだ。
そもそも私たちには、「天才のすごい仕事」を知りたいという欲望がある。書店を眺めれば、ビジネス書のコーナーでは「天才」という言葉が乱発されている。もちろん、すごい人はいるし、その人が世界を変えるような事業を始めることもあった。
だが、一度冷静になって「我が社」の周りを眺めてほしい。本当に我が社には、天才による圧倒的な独創性が必要なのであろうか。
多くの企業では実は天才は不要であるわけ
大きな革新的なイノベーションを生み出す企業はほんの一部であって、多くの企業では新規の製品開発や事業運営のかじ取りにこそクリエイティビティは求められている。そんな積み重ねのクリエイティビティの可能性を無視して、何か想像を超えた革新的なクリエイティビティを期待するのは、当事者性もない単なる天才待望論でしかない。
そもそも、そのような世の中の業界地図を変えるほどのイノベーションを生み出すような才能が存在したとしても、そのような天才は、まず見つけにくく、仮に見つかったとして凡人にできることは「邪魔をしない」という程度ではないか。要するに、天才は放置が一番なのだ。
各社の事業内容を丁寧に検討すれば、必要とされるクリエイティブな人材のイメージは異なる。例えば、スタートアップ企業では大きな事業戦略の創出や転換が常に求められる。そして、そこで活躍するのは、かなり尖(とが)がった人材であろう。
その一方で、安定的な主要事業があり、その中で製品開発を積み重ねているような成熟企業では、むしろ集団としてのクリエイティブな人材「たち」が求められる。
大多数の企業では、個人の圧倒的な「独創」よりも集団の継続的な「共創」こそが重要だ。1人の天才よりも、多くの凡人たちの集団的活動のほうが、会社にとって価値あるクリエイティビティになるのだ。
同質性と閉鎖性へ逃げる社員たち
実際のところ、共創とも定義されている集団のクリエイティビティは、その達成が難しいのだ。
集団には、グループ・シンク(集団浅慮)という罠(わな)がある。グループ・シンクとは、集団で意思決定をすることが不合理な行動を引き出してしまうという問題である。
グループ・シンクの発生要因は身近なものだ。私たちには、意見対立を避け、円滑なコミュニケーションを最優先するという性質がある。社内の対立議論も、過度な忖度(そんたく)も、集団内のメンバーにとっては、どちらもとてもストレス過剰だ。
だからこそ、個々人を見れば、閉鎖的でみんなと同じ意見に逃げてしまう。結果として、集団のクリエイティビティもまた消えてしまうのだ。
企業人事の理想論としては、クリエイティビティのためにはダイバーシティ(多様性)と活発な議論が必要だといわれている。しかし、当事者としてダイバーシティに直面すれば、人間関係の摩擦を生むかもしれない自己主張ができるのだろうか……。
このような忖度する集団は、日本の組織の特徴だろうと思うかもしれないが、グループ・シンクが米国の心理学研究で発展した概念であることを知れば、どの国でも発生する集団の罠だとわかる。むろん、このような忖度という特徴は日本社会で特に際立つ現象なのだが……。
この問題を回避できなければ、企業がいくらダイバーシティ施策を導入して集団全体は多様になっても、その中の個人は同質性と閉鎖性の中へと逃げてしまうのである。
クリエイティブな集団の条件1 「カッコ悪いこと」を話せる
かつて私は、この集団のクリエイティビティを生み出すためのコミュニケーションスキルとその集団特性について、探索的な分析を行ったことがある※1。チーム・クリエイティビティが高いと評判のIT企業を訪問し、さらに社員の中でもコミュニケーションスキルが高い人材を紹介してもらってインタビューを行った。さらにインタビューの分析結果を反映した質問紙を作成して統計分析も行ったのだ。
共創を生み出すコミュニケーションスキルの一つとして注目したのは「自己開示力」だ。弱さも含めて同僚に開示できる人のまわりには多様な人が集まってくる。そして、自分から開示するから相手も開示する。このような自己開示の相互関係が生まれる集団の特性を「開示開放性」と名付けた。
なお、この自己開示の応答を組織論の文脈でみると、「心理的安全性」という言葉になる。これもまた心理学の用語であるが、チームの他のメンバーが自分の意見を拒絶しないという確信がある状態を意味する。
集団の心理的安全性が確保されれば、メンバーに対する反論、間違うリスクがある意見、失敗の経験談を語ることができる。そのような多様な意見が集まり、議論が生まれることで個人を超えたクリエイティビティが生まれるのだ。
心理的安全性は集団の特質なのであって、先ほど述べた自己開示力は個人の力である。つまり、個人(特に先輩や上司)が積極的に自己開示すれば、集団の心理的安全性は高まり、その結果さらにメンバー全員の自己開示が進むのだ。これでようやく、多様な意見が溢(あふ)れ、共創的な集団となる。
クリエイティブな集団の条件2「誰でも参加できる」
では、何でも自己開示して意見が言える集団をつくればすべて解決するのだろうか。
その答えはNOだ。
先の調査では、ある集団がクリエイティブになるためには、集団の外のメンバーが新たに参加しやすい集団であり続けることも発見であった。我々は、そのような集団の特性を「参加開放性」と名付けた。
次々に参加者が増えなければ(人の出入りが生まれなければ)、当然、集団内メンバーの同質性は徐々に高まってしまう。多様な集団を維持するためには、集団境界の壁は低く、新規参入者が生まれやすくしなければならない。
この連載でも、集団への新規参入を増やすための試行錯誤を紹介してきた。フリーアドレス・オフィスは、部署を越えた偶然の出会いを生み出そうとしていたし、マトリックス型組織では集団の重なりを増やすことで、集団の出入りを増やそうしていた。
「何でも話せる」「誰でも参加できる」は両立できるか
これらの試行錯誤を踏まえた上で、ここでは、2つの開放性についてもっと深く考えるべきだろう。はじめに結論を先取りすれば、この「開示開放性」と「参加開放性」は簡単には両立しないのだ。
開示開放性がある心理的安全性の場とは、たとえて言うならば、何でも話せるスナックである。いつもの常連、人生の酸いも甘いも経験してきたスナックのママ(赤の他人にすごい言葉だ)がいるから、安心して何でも話せる。
だがしかし、この常連ばかりのスナックに新規客は入り難いのも事実だ。出張先でふとお酒を飲みたくなって、地元スナックに入った時のアウェー感は大きい……常連客の「誰だ、おまえは」という目線が痛い。その常連さんたちの盛り上がりも「あいつはアレしたコレした」という話なのだが、よそ者の私は、その「あいつ」を知らないのである。
だいたいスナックの笑い話なんて登場人物を知らなければ、スベリまくりなのだ。
要するに、メンバー間の親密さ自体が新規参入の壁となる。その一方で、どんどん出入りが激しくなれば、知らない人が増えた結果、警戒心が生まれてしまう。つまり、「何でも話せる(開示開放性)」と「誰でも参加できる(参加開放性)」は両立困難なのだ。
さて、どうすればよいのか……。2つの開放性の両立は可能なのかという問いこそが、もっとも問われるべき難問だ。
我々は、この難問にたどり着いた。次回以降、この問いに答えるための考察を続けたい。
◆今日のひと言◆
「大勢の凡人」をクリエイティブに組織せよ。
