「どんな仕事をするか」と同じかそれ以上に「誰と働くか」は重要です。では、チームとして創造性を発揮していくためには、どんな人が集まり、どのようなコミュニティをつくる必要があるのでしょうか? 成果を出し続けられるチームとそうでないチームには、どんな違いがあるのでしょうか? コミュニティづくりの設計思想について、法政大学の梅崎教授と考えます。
機能するコミュニティの条件
前回
、「何でも話せる(開示開放性)」と「誰でも参加できる(参加開放性)」は両立が難しいことについてスナックの例を挙げて説明した。親密な空間では何でも話せるが、そこでの記憶を共有した仲間たちは新規参入者にとって高い壁になる。
そして、どんなに盛り上がった集団であっても、常連ばかりになれば、新規参入が減り、徐々に全体も衰退するのである。
ウェブ上のコミュニティを論じた著書として、情報社会論が専門の濱野智史氏による『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』(ちくま文庫、2015年)がある。この本は2008年に単行本として刊行され、のちに文庫に収録されたが、現在においても有効な数々のアイデアが隠されている。
なぜなら濱野氏は、日本社会で独自に進化を遂げた2ちゃんねる、ニコニコ動画、初音ミクなどのウェブ上の情報環境を、当時の最新事例として紹介しただけではない。それら情報環境の中に隠された「設計思想」を明らかにすることで、日本社会のコミュニティづくりの基礎原理を解明しようとしたのだ。
我々がコミュニティづくりに失敗してしまうのは、コミュニティをなんとなく「自然」発生するものと考えて、「作為」的に設計するという発想がないからなのである。
ウェブ環境と聞いて、ここまでの共創的な集団づくりとは対極にあるものとは思わないでほしい。つまり、ウェブ上のコミュニティも対面のコミュニティも含め、我々はコミュニティの設計思想について考察を重ねるべきなのだ。
コミュニティに実装すべき「設計思想」とは?
なお、ここまで述べてきた「設計思想」という言葉は、アーキテクチャ(architecture)という概念に対応する。
アーキテクチャは、建築学においては建築様式を、IT用語としてはシステムやソフトウェアの設計と構造を意味する言葉であったが、現代社会を理解する上での重要概念となった。
その直接的な契機は、米国の憲法学者であるローレス・レッシングによる『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社、2001年)であった。この本では、法律・規範(慣習)・市場に並ぶ、人びとの行動や集団秩序を制約するもの(=権力)としてアーキテクチャを挙げている。
法律は取り締まりと刑罰によって、規範は道徳教育によって、市場は課税や補助金などを使った価格調整によって人の行動を制約するが、社会環境を操作することによって人の行動を誘導することも可能だ。
例えば、飲酒運転に対しては、罰則(法律)、禁酒教育(規範)、罰金の金額調整(市場)などによって制約されるのだが、自動車自体にアルコール検査機能を設置して飲酒していたらエンジンがかからないようにするというアーキテクチャも考えられる。つまり、アーキテクチャとは、選択環境の実装までを視野に入れた設計思想なのだ。
日本の哲学者、東浩紀氏は、既存の権力論と比較しながら「環境管理型権力」と概念化している。なお、この環境管理型権力には、法律や規範と比較すると権力の所在が見えにくいという特質がある。
コミュニティのための「常連排除」という設計 2ちゃんねるのアーキテクチャ
例えば、1999年に開設された日本最大級の電子・匿名掲示板サイトであった2ちゃんねるが挙げられる。西村博之(ひろゆき)氏が個人サイトとして開設した。
先述した濱野氏によれば、2ちゃんねるは「常連を排除する」というひろゆき氏の設計思想によってつくられた。それは、他の常連を大切にするコミュニティづくりとは真逆だ。
2ちゃんねるのコミュニケーション・メカニズムの特性は「フロー」(流動する)であった。具体例を挙げると、2ちゃんねるには、書き込みを行うスレッドには最大投稿数制限という「寿命」が設けられている。つまり、常連者が、過去の記憶(≒ログ)を共有しろ、というような高圧的な発言ができない仕組みになっている。これこそが隠されたアーキテクチャなのだ。
もちろん、新しいスレッドを立ち上げることもできるが、その時は匿名で新規参入できるチャンスである。とするならば、「匿名」が可能だというルールも開放的なコミュニティづくりのアーキテクチャなのである。
そのようなアーキテクチャの下では、盛り上がれば盛り上がるほど、書き込みが増えて「終わり」に早く近づく。この「近づく終わり」を意識しながらの参加の高揚感こそが一体感を高める「祭」の感覚になる。
このような、あえて流動性をつくり出そうとするアーキテクチャは、職場コミュニティでも意識すべきことだ。
成功したプロジェクトメンバーをそのまま惰性で次のプロジェクトでも編成することがある。要するに、選抜基準を説明するのが楽なのだ。
スポーツ選手のように個人能力の現在価値がはっきり分かるような仕事は会社では稀(まれ)だ。だから成功チームをそのまま惰性で、という決定になる。
しかし、常連率が上がれば、続く不活発を必ず招く。この場合、個々人を説得して継続か非継続を決めるのではなく、任期(インターバル)を設けることや必ずメンバーを〇%替えるというような事前のルール決めという設計思想の実装(アーキテクチャ)が有効なのだ。
これって公開? 非公開? 内輪が外輪になる時代
その一方で2ちゃんねるは、誹謗(ひぼう)中傷が膨大に書き込まれる場所として批判されてきた。すなわち、匿名性の書き込みには公共性がないという批判である。
しかし、匿名でなければ、そもそも書き込み数が激減し、開放性も盛り上がりも生まれないのだ。一般公開された場における自由な書き込みには炎上の危険があることは、ここ20年のインターネット史を振り返れば理解できる。
なぜ、炎上してしまうのか。それは、「私的空間」もしくは知り合い同士の「仲間空間」での発言を一般に公開してしまったこと、公開されることを意識しなかったことが原因である。
「バカ」と「Twitter(現X)」を組み合わせた造語である「バカッター」は、アルバイト店員や客が不適切な行為をSNSに投稿し、企業が炎上することを意味する。この炎上は、内輪のノリを公開した結果だ。
また政治家の炎上も、地元選挙区に帰ったときなどに支持者(仲間)へのサービスのつもりで話したことがマスコミを通じて流れることが多い。要するに、内輪と外向け(外輪へ)の発信は違うのだ。
議論を深めるPUBLICの再生は可能なのか?
その一方で、内と外の空間を完全に一致させることは息苦しいことである。特に最近の企業は、コンプライアンス重視に一所懸命だ。
本来は「法令順守」を意味するコンプライアンスが、社会的なルールやモラルを守って公正・公平に行動すること全般を意味するようになった。何でも公開される可能性があり、一発アウト(炎上)になる可能性があるならば、合理的な選択は「閉じこもり、なにもしないこと」ではないか。
ウェブ環境の進化は、私的空間や仲間空間の拡大にも見えるのだが、その空間が一瞬にして「公共のようなもの」になり得るという意味において「公・私・仲間」の境界線が曖昧化しているのだ。
さらに、その境界線が何度も引き直されてしまう。今の言葉が未来に公開され、裁かれてしまう可能性は個人的には予測不可能だ。我々はそのような「内輪≒外輪」の巨大な空間に息苦しさを感じているからこそ、安全で閉鎖的な私的空間に逃げ込むか、もしくは自由で開放的な「匿名者たちの祭」を求めている。
しかし、この祭には熱狂はあっても継続性がなく、一過性のものである。ネット上コミュニティで扱われる話題も祭の燃料になるものがほとんどだ。特にネット上の非倫理的な暴走には、確かにある種の創造性はあると思う。だが、会社や職場における場では許されないことが多い。我々は、この弱点を克服することができるのだろうか。
公開されたものは「公開されてしまった内輪」でしかないとするならば、今、私 (private) や個 (individual) に対置される「開かれた議論」が行われる「共創的な公共」(co-creative public)はどこにあるのか。いや、すでに消滅しているのか。
続く連載は、もう少し現代版の新しい公共性を考えてみたい。
◆今日のひと言◆
仕事上のコミュニティに、「祭」の盛り上がりを取り入れよ。
