「情報技術で行政の今を変える、首都から未来を変える」をビジョンとして、東京都庁と都内62自治体を含めた東京の行政全体のDXを進めるのが一般財団法人GovTech東京だ。
このGovTech東京で業務執行理事 兼 CTO(最高技術責任者)を務めるのが井原正博氏。世界最大の都市圏のデジタル化を支える人物でありながら、優しげで飄々(ひょうひょう)とした物腰の井原氏は、どんな本を薦めてくれるのか?

首都から未来を変える
GovTech東京の理事長は副知事の宮坂学さん(元ヤフー取締役会長)なんですけれど、宮坂副都知事が6年前(2019年)に参与になって都庁にやって来たときは、本当に「紙とFAXの世界」だったそうです。メールじゃなくてハンコを押した書類が回ってくる世界です。それを、とにかく電話をやめてチャットにしようとか、せめてメールを使おうとか、少しずつデジタル化して、ようやく全都職員にデジタル端末が行き渡り、100%デジタルで仕事を進める下地ができあがったところです。でも、まだ紙や電話だったものをデジタル化しただけで、入り口にすぎません。ワークフロー自体をデジタルベースで考えていく必要があります。また、ご存じのように役所って組織の構造上、縦割りなんですよね。例えば、「A局で住所を聞かれたのに、B局に行っても、C局に行っても住所を聞かれる」なんてこともある。それはもうやめましょうと。

行政サービスを担う公務員は2040年に最悪の場合7割、緩く見ても4割減るといわれています。高齢化に加え、公務員のなり手が減っているんですね。それと比較すると人口はそこまで減らないので、仕事をかなり効率化しないと人手が足りなくなるんです。
そのような背景もありGovTech東京が設立され、約2年がたちました。東京都内にある62すべての区市町村と協働しそれぞれの課題に向き合いながら、成果も出はじめています。
例えばAI活用の領域では、都庁や区市町村の行政職員が生成AIを活用したアプリケーションを簡単に作成できるように「生成AIプラットフォーム」という基盤をGovTech東京が内製で開発し、試験運用を始めています。実際に多くの現場でAIの活用が進んでいます。
現在270人ぐらいの組織でやっていますが、やらなければならないことに対して、圧倒的に人が足りないので、積極的に採用を進めています。
では、そろそろ、お薦めしたい本の話に移りましょう。
「オレがオレが」ではなく、ずっと続く仕組みを作る
「夢をすてるんじゃない おれたちの夢を おれたちの手だけでかなえようというこだわりを すてるんだ」
いきなり漫画ですが、これはすべての人に読んでほしいと思っている作品です。『エースをねらえ!』は1973年に始まっているので、もう50年以上前の本です。単純に言うと、昔のスポ根マンガです。主人公の岡ひろみが、先輩のお蝶夫人、コーチの宗方仁にしごかれる……ということは皆さんご存じかと思うんですが、実は、全巻しっかり読んでいる人は少ないのではないでしょうか? スポ根なので「岡ひろみの成長物語」だと思っている人が多いと思うのですが、実は全然違います。これはお蝶夫人の成長物語なんですよ。
岡は、お蝶夫人に憧れてテニス部に入るんです。まず、高校2年生で「夫人」っていうのが意味が分からない(笑)。お蝶夫人の本名は竜崎麗香さんといって、理事長の娘ですごくテニスが上手で、容姿も端麗で、みんなの憧れの的なんです。そこに宗方仁というコーチが赴任してきて、1年生の岡を大抜てきするわけです。2年生からしたら、テニスが上手いわけでもないし、何なんだと。すごくいじめられて、しごかれるんですね。岡本人も理由が分からないし、辞めたいとも思う。でも、次第に岡は頑張って、お蝶夫人に向かっていくようになるわけです。お蝶夫人は、向かってくる岡が嫌いになれないどころか、愛らしくてしょうがないんですね。

お蝶夫人は最初、岡より全然レベルが高くてエリートなのですが、途中から岡を支える側へと変わっていくんです。世界で選手として岡とダブルスのペアを組むことも考えていたけれど、それも海外選手に持っていかれてしまう。誰もが憧れるスター選手だったお蝶夫人が、次第に「選手を支える仕組み作り」という自分の道を見つけるんですね。「岡1人じゃなくて、日本全国のレベルを上げないとダメだ」ということで、日本中を回って少年少女の組織を作ったりもする。自分が時を刻むんじゃなくて、時計を作れば時を刻み続けられる。「オレがオレが」じゃなくて、ずっと続く仕組み作りという役割を見つけるんです。

例えばエンジニアの人がマネージャーになるときは葛藤があると思います。自分もありましたが、コードを書きたい、エンジニアリングをやっていたいと。しかし、やっぱり1人でできることにはどうしても限界があって、大きなことを達成したければ、仕組みを作る側に行くのも必要だと思うんですよ。自分はクックパッドで技術部長をやっていましたが、自分が見ている組織の人がクックパッドを作っているわけです。直接のプレーヤーではないけれど、自分が採用したり、マネジメントしたりしている人たちが作っているということは、自分も作っていると言っていいと思います。
もちろん技術的な世界では、10人のまぁまぁなエンジニアより、1人のスーパーエンジニアが作ったもののほうが技術的には正しいというケースもあります。でも、その状態だと残りの10人のエンジニアは自分で考えなくなっていくんですよね。
実際、クックパッドにいるときは「スーパーエンジニアしか採用しない」と考えていました。スーパーエンジニアしかいない状態なら、それでいいんですよ。スーパーエンジニア同士でいろんな意見を出し合える。でも、1人レベルの違い過ぎる人がいて「あの人が決めることが正しいよね」となると、他の人の成長機会を奪ってしまうんですよね。
今なら、私はスーパーエンジニアではなく、10人の普通のエンジニアとやっていくことを選ぶと思います。やる気がある人たちで、今できる精いっぱいをやって、失敗したら「次は、どうやったらうまくいくんだろう?」と考える。そうしたら、みんながスーパーエンジニアにはならなくても、そこそこレベルの高いエンジニアになれるでしょう。お蝶夫人のように、自分がトッププレーヤーを目指す以外にも、そうした成長機会を作るための仕組み作りという役割もあるんだということを学べた気がします。
人はどんな環境でも学ぶことができる
「だれもが家で自分の帰りを待っている家族のこと、自分が生きながらえること、収容所内の友情でつながっているだれかれを守ることしか考えなかった。それで、ためらうことなくほかのだれかを、ほかの「番号」を、移送団に押しこもうとしたのだ。」
お薦めしたい本としては『エースをねらえ!』が圧倒的1位なんですけれど、それだけだとあんまりかなって思って、2冊目には『夜と霧』を持ってきました。この本は全人類必読だと思っています。
作者のヴィクトール・E・フランクルは心理学者なのですが、第2次世界大戦のときに、強制収容所に収容されるんですね。彼はオーストリアに住むユダヤ人だったのです。人がどんどん死んでいく状況の中で、それを淡々と綴っていくんです。全編を通してすごい話です。
冒頭、収容所に到着したら並ばされて、看守に2つの列に分けられます。夜になって収容所の房の中で「もう1つの列に並んだ友人はどうしたんだろう?」と言うと、収容所の先人から「別の列に行ったのなら、あそこだ」と離れた施設の煙突から上がる煙を指して「あそこからお友達が天に昇っていっているところだ」と言われるんです。それからあらゆる艱難(かんなん)辛苦がある。
カポーと呼ばれる看守の手先になった同輩が、自らが生き残るためにより厳しく収容者にあたり、収容者同士も自分や知人が生き残るために、他の人がガス室に送られることを望むようになる。

でもこの人は、極限の状況下で「人はどんな環境にいても学ぶことができる」と言うんですよね。収容所の中で、過酷な労働をさせられて、明日自分がガス室行きに選ばれたら死ぬという状況でも、そう言えるのがすごい。
われわれも仕事をしていて、「こんな仕事つまんない」とか「やる意味あるの?」とか思うことがありますよね。でも、それって自分次第だよな、と思うわけです。
本当に意味がないと思える仕事でも、どうやったらもっと効率的にできるかとか、より良くできるのかとか、その仕事への向き合い方は自分次第なんです。すねてしまうとそこまでなんですけど、「何かできることがあるんじゃないか?」と思うことはできるわけです。
どんな環境でも、彼が置かれた環境に比べたら、何でもないですよね。本当に、全人類が読むべき本です。
100マイル走るのに比べたら仕事なんて楽勝
「『彼らは地面と一緒に動いているように見えた』とある見物人は感嘆していた。『まるで雲、いや山間を移動する霧のように』」
この本は、走らない人には理解しにくいかもしれませんが、少しでもランニングする人には必読ですね。『BORN TO RUN』は、2010年ごろにアメリカで超ベストセラーになった本です。
エンジニアって、走るのにハマる人が多いですよね。程度の差はあれど、やはりロジカルだからでしょうか。心拍数を取ったり、VO2max(最大酸素摂取量)を測ったりすると改善していくから、エンジニア向きなのかもしれません。料理にハマる人も多いですよね。エンジニアには、そういうロジカルな趣味が向いていると思います。
メキシコにタラウマラ族という民族がいるんですよ。山岳地帯に住んでいて、走って山を下りて、水をくんで走って戻るというような生活で、誰もが途方もないスピードで、途方もない距離を走る民族だというんです。ところが、この人たちがほぼ裸足で走っている。タイヤを切って作った「ワラーチ」というサンダルで走っている。
『BORN TO RUN』の作者はランニングをしているんですけど、足の故障に悩まされているんです。現代のランナーは多かれ少なかれ、足の故障に悩まされている。でも、タラウマラ族がほぼ裸足で走っているのに驚いて、自分も裸足で走り出すんですよね。そうすると、脚が全然痛くなくなったというんです。
そこで、「このワラーチを履いたタラウマラ族と、アメリカの高機能なランニングシューズを履いたランナーが競争したらどっちが勝つんだ?」という競走をするんですが、タラウマラ族が勝つんですね。人間はもともと土踏まずのアーチがあるし、くるぶしとか、膝とか、腰とか、体全体を使って着地時の衝撃を和らげる機能があるんです。

日本でも、ワラーチのような走れるサンダルが買えまして。私もそれを履いて、100マイル(約160km)のマラソンとかを走ったんですよ。
走り始めたのは35歳の頃ですが、結構走れるようになって、ハーフマラソンに出てみたんですね。その頃にこの本を読んで、どハマりして。最初に裸足で走り始めるとつらいんですが、だんだんと走れるようになってきて。裸足だと衝撃が強くてかかとで着地できないので、自然と走り方や筋肉の付き方が全然変わってきます。特に、ふくらはぎがすごく発達します。
じゃあ次はフルマラソンに出ようとなって、次は100kmのウルトラマラソンに、そして山道を走るトレイルマラソンにも出るようになりました。トレイルは100マイル(約160km)とか走るものもあって、「3年後に挑戦しよう」と思って実現するんですが、その原点となったのが『BORN TO RUN』でした。
100マイルは、本当にすごくつらかった。もう、その頃には「42.195kmは短い」ぐらいの感覚でした。100マイルの1/4ですからね。ただ、100マイルは体力も精神力もいる。100マイル走ることに比べたら、普段の仕事なんか楽勝って思えますよ。
取材・文:村上タクタ/写真:尾関祐治(人物)、スタジオキャスパー(書籍)/構成:西 倫英=日経BOOKSユニット第2編集部


