人工知能(AI)研究を続けるコンピューター科学者のメラニー・ミッチェル氏は、AIの実力と限界をきちんと理解したうえで、その活用法を探るべきだと主張する。その意味で、ChatGPTに代表される大規模言語モデルにも冷静な姿勢を崩さない。ミッチェル氏の『 教養としてのAI講義 』(訳:尼丁千津子)からAIの脅威と可能性を示す一問一答を抜粋・編集してお届けする。その1回目。
ダグラス・ホフスタッターは1979年の著作『ゲーデル、エッシャー、バッハあるいは不思議の環』(以下『GEB』)の終盤で、人工知能(AI)の将来についての自分自身への質問とそれについての考察を行っている。「10の質問とそれについての考察」と呼ばれるこの節で彼が投げかけて答えた問いかけの範囲は、機械が思考する可能性についてのみならず、知性の一般的な性質にも及んでいた。
私は大学を出て間もないときに『GEB』を読んで、この一節に強烈に惹きつけられた。ホフスタッターの考察を読んだ私は、人間レベルの人工知能の実現が急速に近づいているというメディアの煽り(そう、それは1980年代にもあった)にもかかわらず、この分野には未解決の問題が実はまだたくさんあって、新しい発想を持った人材が強く求められていると確信した。実際、私のようにこの分野に足を踏み入れたばかりの若輩者にも、そこにはやりがいのある大きな挑戦がたくさんあった。
あの頃から30年以上の時を経て現在これを書いている私は、本書の最後に自分自身への質問と、それに対する答えと考察をつづることが、ホフスタッターの『GEB』のあの一節へのオマージュとして、そして私が本書で提示した数々の考えのまとめとしてふさわしいのではないかと思った。
質問:AIによって、大量の人間の失業者が出るのだろうか?
これは難しい質問だ。私は、少なくとも当分は出ないと思っている。「簡単なことは難しい」というAI研究の大御所マーヴィン・ミンスキーの格言は現在もまだAI分野の大半にあてはまっているし、コンピューター(またはロボット)にとって人間の仕事の多くは、実際に思われているよりもこなすのがずっと難しい可能性が高い。
AIシステムが、一部の仕事で人間に取って代わるのは間違いないだろう。そういった例はすでにあるし、しかもそれらはたいていの場合、社会にとってプラスになっている。とはいえ、将来のAI技術の可能性がまだ予測できないため、AIの雇用に対する全般的な影響は現段階では誰にもわかっていない。
推定されるAIの雇用への影響についてはすでに多くの報告書が発表されていて、とりわけ車両の運転に関連している何百万件もの職が失われる恐れがあると指摘されている。そうした仕事に就いている人間が次第に自動運転車に取って代わられる可能性はあるが、その時期については自動運転がいつ頃普及するか不透明なため予測するのが難しい。
そうした不透明さにもかかわらず、技術と雇用のテーマはAI倫理について行われている全般的な議論の一部を占めている(それは正しいことだ)。歴史的に見れば新しい技術は前のものに取って代わる過程でさらに多くの種類の新たな仕事をつくりだしてきたし、AIも例外ではないはずだ、という指摘をする人は多い。だとすれば、トラックを運転する仕事はAIに奪われるかもしれないが、AI倫理を高める必要性からこの分野で道徳哲学者向けの新たな雇用が生まれるということになるのだろうか。
私のこの指摘は、これが今後起こりうる問題の解決になりうるという意味ではなく、このテーマがいかに不確実性に満ちているかを示したものだ。アメリカの大統領経済諮問委員会による、推定されるAIの経済への影響に関する2016年の詳細な報告書も、この点を強調している。「こうした影響の大きさや、あるいはその時期については不透明な点が非常に多い……現段階で得られた根拠から判断すると、具体的な予測を立てるのは不可能である。そのため、政策立案者は起こりうるさまざまな結果を想定して備えておかなければならない(※原注1)」
質問:コンピューターは創造性豊かになれるのだろうか?
「創造性豊かなコンピューター」は矛盾した発想だと思う人も多いようだ。機械の本質とは、つまるところ「機械的」であることであり、それは日常的な言葉では「創造性」の反対を意味しているからだろう。懐疑派は、「コンピューターは、人間がそうするようプログラムしたことしかできない。ゆえに、それは創造性豊かにはなれない。創造性豊かになるには、自らの手で新しい何かを『創造する』ことが求められるのだから」と主張するかもしれない(※原注2)。
私はこの「コンピューターはその定義からして、明確にプログラムされたことしかできないのだから、創造的ではない」という見方は間違っていると思う。なぜなら、コンピュータープログラムには、プログラマーが思いもしなかったものを生み出せる方法がたくさんあるからだ。私が開発したプログラム「コピーキャット」は、私が予想すらしていなかった独特の変わった論理によるアナロジーをよく作成していた。私は基本的には、コンピューターは創造性豊かになれると思っている。しかしその一方で、創造性を発揮するということには、自分がつくりだしたものを理解して評価できるということも求められる。この創造性の意味においては、既存のどんなコンピューターも創造性豊かであるとは言えない。
これに関連した質問として、「コンピュータープログラムは、美しい芸術や音楽作品をつくれるのだろうか」というものもある。美は極めて主観的なものだが、私の答えは迷うことなく「イエス」だ。私はコンピューターが生み出した芸術作品で、美しいと思えるものをいくつも目にしてきた。その一例は、コンピューター科学者で芸術家のカール・シムズによる一連の「遺ジェネティックアート伝的芸術」作品である(※原注3)。
シムズがプログラムしたコンピューターは、ダーウィンの自然選択説から漠然とした発想を得たアルゴリズムを使ってデジタルアートを生み出す。まず、シムズのプログラムが数学関数といくつかの無作為な要素を使って、候補となる芸術作品を数点生成する。それを見た人が、自分が一番好きな作品を選ぶ。すると、プログラムは基礎をなしている数学関数に無作為性を取り入れることで、選ばれた作品の「変異版」を創造する。先ほど作品を選んだ人は、それらの「突然変異」から好きなものを再び選ぶ、ということを何度も繰り返す。この過程によって見事な抽象作品がいくつも生み出されていて、それらは多くの美術館の特別展などで展示されてきた。
シムズのプロジェクトでは、創造性は人間とコンピューターのチームワークの結果として発揮されている。コンピューターは最初の作品をまず生み出したあとに、その変化形を次々に作成する。人間はその結果として生まれた作品を、抽象美術の芸術性に対する自身の理解に基づいて「審査」する。コンピューターは何ひとつ理解できないため、コンピューター単体では創造性を発揮したとは言えない。

(第2回に続く)
メラニー・ミッチェル(著)、松原仁(解説)、尼丁千津子(訳)、日経BP、2860円(税込み)
