昨今、身の回りのものの値上がりを実感する機会が増えました。多くの企業では賃上げが行われているものの、実質賃金は低下しているともいいます。こうした「一生懸命働いても、豊かにならない」状況は、このまま努力し続ければ、いずれは解消されるのでしょうか? 葛飾区の町工場の3代目で、2020年から毎日SNS(旧Twitter、X)などで統計データを発信し続けてきた小川真由(まさよし)氏の著書『 経済の現場から統計データで見る インフレ日本の安い賃金 誰かの犠牲に支えられた「サービス過剰」を終わらせよう 』(日経BP)から解説します。
「安くて良い」を実現するための「目に見えない犠牲」
前回、売り手にも買い手にも通底している「安い=良い」という価値観が、私たち日本人の給料水準を押し下げる原因となっているという話をしました。
もちろん、安くて良いものを提供しようとする努力を否定するわけではありません。ただ、「売り手側が犠牲になってでも、安くて良いモノやサービスを提供する」という考えが、非合理的なほど浸透してしまっているのではないか。読者の皆さんにも、一度、そう疑ってみてほしいのです。
テレビ番組では、高齢の店主が大盛りの定食を格安で提供している姿が美談のように報じられます。
自己犠牲の精神に心打たれる人も多いと思いますが、どこかに、「自分を犠牲にしてでも相手の役に立つのが商売というもの」という買い手側優位の価値観が潜んでいないでしょうか。
このような値付けが、新しい技術による画期的な生産方式や、大規模な投資による生産体制によって行われるものであれば、時代の流れに沿った正当な企業努力の結果といえるでしょう。しかし、日本の多くの場面で見られるのは単なる安値競争の我慢比べで、イノベーションとは程遠い不毛な生き残り競争です。
さらに、本来は売り手側の心持ちだったはずの「お客様は神様」という言葉が、買い手側が売り手側に要求できる「当然の権利」のように認識されているのも、このような自己犠牲の裏にあります。
日本の商売で特徴的なのは、このような「圧倒的に強い買い手」の存在と、それを前提とした取引慣行の根深さです。これは、消費者向けのビジネス(BtoC)だけではなく、企業間取引(BtoB)を含めた、取引におけるあらゆる関係性で見られます。
「失われた30年」の正体とは、顧客優位のビジネスが増え、より高い品質や満足感が求められる中、それをできるだけ安い労働力で賄(まかな)おうとしてきた結果なのではないか、というのが私の見立てです。
企業に対して労働力の売り手となる労働者も、相対的に弱い立場に置かれることで、それに応えてきたのではないでしょうか。その裏には、日本人特有の謙虚さや同調意識、封建的・儒教的精神もあるのかもしれませんが、それ以上に構造的な要因が隠れているはずです。
「安い賃金」をこのまま我慢していれば、日本経済は回復するか
少子高齢化で増え続ける高齢者、もともと専業主婦が多く労働参加率が低かった女性、(かつては)国際的に見れば給与が高すぎると見なされた男性労働者など、「より安い」労働者を確保しやすい時期が続いたことで、バブル崩壊から近年までいわゆるデフレ(デフレーション)とともに、この構造が保全され続けました。
ただし、このような安い労働力の掘り起こしにも限界が見え始めています。統計から見えてくるのは、少子高齢化が進み現役の男性労働者が減少する一方で、女性・高齢労働者も、もはや増えにくくなっているという現実です。
つまり、買い手にとって都合の良い労働者はもう増えません。
まず、女性の労働者に関しては、男女別の就業率を時系列で可視化すると、現実がよくわかります。
人口の中で、どれだけの人が仕事をしているのかを表すのが就業率です。日本の現役世代の女性の就業率(図1-8上段)は、2010年代から急激に上昇していて、2024年にはドイツを抜き主要先進国で最も「女性の働く国」になっています。これ以上は増えにくいでしょう。
ちなみに、イタリアの就業率は53%程度と、まだまだ女性が労働参加する余地がある一方で、カナダや英国、ドイツなどは以前から日本よりも高い就業率でした。
さて、男性に比べて女性の賃金がどの程度低いのかを指標化したのが、性別による賃金格差(ジェンダーギャップ)です。
日本は他の主要先進国に比べれば高い水準で、女性の待遇改善が課題とされています。具体的には、所得中央値での男女のジェンダーギャップを見ると、米国が17%、英国が13%、フランスが7%に対して、日本は21%とかなり大きな数値であることが示されています(2024年のデータ)。
日本では女性労働者が増加してきましたが、男性と比べて賃金水準が低く抑えられてきたことになります。
一方で、現役世代の男性の就業率(図1-8下段)を見てみると、日本は一貫して80~85%ほどと、相対的に高い水準が続いてきました。失業率が高いといわれるイタリアやフランスは70%前後で、日本より十数ポイントも低い値です。
学業をしている人、介護など様々な事情で就業できない人、仕事を探しているけど見つからない人などは一定数いるはずですから、今の日本の就業率は現実的な上限値ギリギリでしょう。
少子高齢化が進み現役世代の男性人口が減る中で、就業率が現実的な上限に達しているわけですから、現役世代の男性の労働者の減少は今後、ますます加速するはずです。
「高齢者パワー」の今後
次に高齢の労働者はどうでしょうか?
皆さんもご存じの通り、日本は先進国で最も高齢化が進んだ国です。加えて、働く高齢者が多いことでも知られており、65歳以上の高齢世代の就業率は26%、4人に1人が仕事をしている計算です(2024年のデータ)。
他方、他国の就業率は米国が19%、英国12%、ドイツ9%、フランスに至っては4%です。
労働者全体に占める高齢労働者の割合は、日本が突出した水準に達しています。2024年には日本で働く人の7人に1人(14%)は高齢者となり、生産年齢人口比率(15〜64歳が総人口に占める割合)が最も日本に近いフランスでは50人に1人(2%)と極端に低いことと対照的です。
今後は日本でも団塊の世代が80代を迎えリタイアしていきますので、高齢の労働者もこれ以上は増えないのではないでしょうか。現に、近年の日本の数値は頭打ちとなっています。
要するに、団塊の世代が引退し、女性の就業率も主要先進国最高水準にまで高まってきた昨今では、これ以上、顧客や雇主にとって都合の良い「安価な労働力」が確保できません。
すると、そのような労働力に依存したモノやサービスが維持できなくなっていくはずです。
このような課題に対して、より安い労働力を担う移民を増やすべきだという意見もあります。しかし、デフレマインドが根付き、安い国となった日本は、すでに新興国から見ても労働の対価が低く、移民先としても魅力に乏しいと思われているようです。
それに、そもそも、安い労働力を確保する目的で移民を増やすというのは、建設的な姿勢とはいえません。今、私たちがなすべきことは、安い労働力を新たに探すことではなく、日本固有の「安さ」を問い直すことではないでしょうか。

小川真由(著)/日経BP/1870円(税込み)


