第2次世界大戦でヨーロッパを席巻したドイツ軍に対し、孤立したイギリスが取り組んだのは、防空戦力の強化でした。流行から距離を取り、必要なのは爆撃機よりも戦闘機だと看破しました。そして未完成のレーダーをいち早く実用化することにこだわりました。実戦での有効性を重視したイギリス独自の「知略」に迫ります。日経ビジネス人文庫『知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利』(野中郁次郎、戸部良一、河野仁、麻田雅文著)の第2章(担当:戸部良一氏)から抜粋・編集してお届けします。

ドイツから制空権を守るために

 力の絶頂にあったドイツ軍に対して、ともに戦うべきフランスを失ったイギリスは、失意のどん底に沈んでいるはずであった。しかし、イギリスはドイツの和平の誘いに乗らず、敢然と戦い続ける姿勢を示した。1940年5月に首相に就任したばかりのウィンストン・チャーチルは、議会演説やラジオ放送で、国民の士気を鼓舞した。

 イギリスは、すでに次のドイツ軍のねらいが自国であることを覚悟し、問題の鍵が制空権の保持にあることをよく知っていた。ドイツによる制空権獲得を阻止するためには、戦闘機を主体としたイギリスの防空戦力が鍵であった。イギリスが航空優勢を保持する限り、ドイツ軍はあえて本土侵攻を試みようとはしないだろうと考えられた。また、ドイツ軍の爆撃によって国民が戦意を喪失したり継戦能力が損なわれたりするのを防止するためにも、制空権の保持が必要であった。「バトル・オブ・ブリテン」(ドイツ空軍による侵攻をイギリス空軍が阻んだ大規模な航空戦)が始まる時点で、イギリスはそうした制空権保持を可能にする防空戦力を有していたのである。

イギリス空軍戦略のジレンマ

 どのようにしてイギリスはそのような防空戦力を作ることができたのか。そもそもイギリスは、1918年に空軍省を設置し、世界で最初に陸海軍から分離した独立空軍を創設した。だが、その防空体制の整備はスムーズには進まなかった。防空システムのコンセプトはすでに第1次世界大戦の末期に生まれていたといわれているが、戦後そのコンセプトにもとづいて具体的な措置がとられるまでにはしばらく時間がかかった。

 その一つの理由は、よく知られているように、再軍備に対する国内の抵抗が強かったためであるが、もう一つ、空軍自体にも防空戦力の充実に打ち込めない理由があった。それは戦略爆撃という用兵思想、コンセプトの影響である。

 戦略爆撃は、第1次世界大戦後、イタリアの空軍戦略家ジュリオ・ドゥーエが唱えたもので、航空機によって敵国の中枢を大量爆撃することが戦争の帰趨(きすう)を決する、という理論である。これは、空軍がその独自の存在をアピールし、陸海軍から独立するのにうってつけの理論であった。

 当時最も恐れられていたのは、開戦冒頭に、敵が突如、ボクシングのノックアウト・パンチのように強力な戦略爆撃を加えてくることであった。イギリス空軍は、これに対抗するため、報復力として自らも効果的な戦略爆撃の能力を持つべきだと主張した。十分な報復能力を持てば、敵の戦略爆撃を抑止することもできるはずであった。また、戦略爆撃は、敵の飛行場や航空機生産工場を破壊することにより、その航空戦力を無力化できるので、この攻撃力こそ航空優勢を獲得する最善の方法だとも考えられた。こうして、空軍の計画ではつねに、攻撃力としての爆撃機の開発・生産が優先されたのである。

 だが、こうした戦略態勢には、やがて当然の反論が加えられることになる。もし開戦冒頭に敵の戦略爆撃機によるノックアウト・ブローを許すならば、航空機生産工場を破壊され飛行場も使用不可能となった状態で、どうすれば敵に報復を加えることが可能なのか。敵の戦略爆撃を阻止するためには、防空戦力を充実させなければならないのではないか。このような主張が、初代戦闘機軍団司令官に就任したヒュー・ダウディング大将を中心として唱えられるようになったのである。

 爆撃機か、それとも戦闘機か、という論争は、ミュンヘン危機を経た1938年秋以降に一応の決着を見た。再軍備に対する財政上の制約が取り払われ、戦闘機の増産が優先されるようになったのである。ダウディングが爆撃機を優先する空軍の大勢に抗して防空の重要性を強調したとき、防空の脆弱性に危機感を募らせていた政治指導者が彼を支持し、空軍の首脳たちの反対を押し切ったのだという。

攻撃側の優位を覆す防空システム

 イギリス防空戦力の強さは、様々な要素を有機的にシステム化していたところにある。そうした要素の端的な例がレーダーである。そもそも航空作戦では、一般に、攻撃側が本来的に有利であるといわれる。作戦の進行がきわめて速いので、攻撃側の有する主導(イニシアティブ)の利が大きいからである。つまり、攻撃側は攻撃の時機、目標、方法を自由に選択できるのに対し、防御側は、たとえ敵機を探知することができても、攻撃側の進行速度が速いので、それに対処する時間が非常に限られる。

 このような攻撃側の優位を相殺するためには、できるだけ早期に敵を探知し、警報を発して敵を待ち受け、防空戦闘機で邀撃(ようげき)しなければならない。しかし、敵の来襲を探知するためには、監視員による目視だけでは不十分であった。

 こうしてイギリス空軍は、敵の来襲をできるだけ速やかにキャッチするため、科学者の協力を得て、様々な実験を試みる。たとえば、巨大な音響板によって敵機の音をキャッチする実験も行われたが、これは不成功に終わった。敵機のエンジンが発する熱や電波を捉えようとした研究も、思わしい成果を生まなかった。「殺人光線」(現在のレーザー光線のようなものだろうか)によって、敵の爆撃機が搭載している爆弾の起爆装置を破壊するか、あるいは機内で爆弾を爆発させるか、またはパイロットを殺傷する、といったアイディアも真剣に考慮されたが、これも成功しなかった。

ロンドンにある「バトル・オブ・ブリテン記念碑」(写真:Dmitry Naumov/stock.adobe.com)
ロンドンにある「バトル・オブ・ブリテン記念碑」(写真:Dmitry Naumov/stock.adobe.com)

「3番目に良いもの」を実用化する

 こうしたなかで、電波の反射を利用して敵機の位置を探知する方法が浮上してくる。そのための装置が後にレーダーと呼ばれることになるのだが、その実験結果も当初はあまり芳しくなかった。にもかかわらず、レーダーの可能性を高く評価してその開発を推進したのは、ダウディングであった。

 空軍の研究開発部門の責任者であった彼は、レーダーによる早期警戒のネットワークと邀撃戦闘機の地上管制を連携させ、効果的な防空システムをつくり上げようとした。自ら実験用の航空機に乗って、レーダー技術の開発状況を確認しようとしたともいう。こうして、多くの技術的な問題が未解決の段階で、レーダー監視網の建設が決定され、その実験、開発、配備が重点的に推進されていった。首相になる前のチャーチルは、レーダーの開発をバックアップした政治家の一人であったといわれる。彼は、兵器に並々ならぬ関心を持っていた。

 レーダーの技術開発に従事した科学者の間では、完璧さを追求しないことがモットーとされた。すなわち、最良の完璧なものは、決して実現できない。次善のものは実現できるが、使うべきときには実現が間に合わない。したがって、3番目に良いものを採用して、できるだけ早くその実現を図るべきである。完璧さを求めないというのは、このような態度を意味した。レーダーの開発およびその実用化は、こうしたプラグマティズムの産物でもあったのである。

 もちろん当初からレーダーが十分に機能したわけではない。レーダーの到達距離には限界があり、また低空で侵攻してくる敵機を捕捉することも難しかった。レーダーは主に敵機の位置と侵攻コースに関する情報を提供したが、機数に関する情報には誤りが多かった。

 しかし、それでも、ドイツ軍の攻撃を阻むうえでは大きな役割を果たすことになる。レーダー研究に関しては、実は当初、ドイツのほうが進んでいたといわれる。イギリスは、研究を応用して実用化し、しかもシステム化したことによって、ドイツを凌駕(りょうが)したのであった。

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