地域に根を張る「ナショナルショップ」を基盤に、強固な営業網を確立していた松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)。しかし、家電量販店の台頭とともに、そのシェアには陰りが見え始める。新しい消費者をつかむための「特殊任務」とは……。ノンフィクション『決断 パナソニックとソニー、勝負の分かれ目』(藤本秀文著)より抜粋・再構成してお届けする。(文中敬称略)

「いっさい仕事をするな」

 「明日から君の職場はここだ」

 松下電器産業から販売要員として秋葉原の電気街に出向していた石井圭介は、渡された辞令に驚いた。

 当時の営業本部長だった佐久間曻二専務(のちの副社長)付けとなった。勤務地は東京・西麻布。家電営業本部西麻布分室、通称ワークスで「特殊任務」にあたった。1987年のことだ。

 石井はその時、27歳。分室には同じ時期に配属された30歳代の上司と2人きりだった。

 「なんで自分みたいな若い平社員が会ったこともない佐久間専務に引き上げられたのだろう」

 石井は分からなかったが、出遅れていた松下製のカメラの販売で持ち前の粘りと勉強熱心さで、秋葉原のLAOXやオノデンなど量販店の幹部に気に入られ、大量の松下製カメラの販売拡大に貢献したことが本社の目にとまった。

 さっそくワークスに出向くと、専務の佐久間からこう言い渡された。

 「いいか、おまえら2人はいっさい仕事をするな。2年かけて東京の若者の実態をつかんでこい」

 石井はわけが分からない。後で聞くと、松下が弱い東京の都心部で販売を伸ばすために、「流行やトレンドに敏感な若い世代の消費行動を探ってこい」とのことだった。

地下鉄のある街でソニーに勝つ

 当時は松下の系列店である「ナショナルショップ」などが地域に根を張っていた。系列店は地方ではめっぽう強かった。家電各製品の売り上げ全体のシェアを見ると、松下はソニーや東芝、日立製作所などライバルに勝っている。

 しかし、その数字を見るだけでは重要なことを見落としてしまう。「台頭してきた量販店での松下の販売は実はソニーに劣っている」(佐久間)という事実だ。

 都心に住む顧客、なかでも若者たちは他社の製品が一堂に集まる量販店で各メーカーの商品を価格や性能、デザインなどを見比べながら気に入ったものを買う。地縁、血縁などに頼って各家庭の庭先にぶらっと出向いて、自社の製品を買ってもらう系列店のやり方とは根本的に売り方が違う。好みも違う。

 「量販店でのシェアが落ちれば、いずれ全体でも松下のシェア低下は必至だ」という佐久間の懸念を解決するために、「東京」でしかも「若者」に売れる商品は何か、それを徹底的に探れ、というのが石井ら2人の若手社員に課されたミッションだった。

 名付けて「松下・ヤング」作戦。「東京ではソニーに負けていた」(佐久間)ので、「まずは地下鉄のある街でソニーに勝つ」というスローガンを掲げた。石井らは秋元康をはじめ、芸能人やテレビのプロデューサー、広告代理店など、都心の若い世代の好みやトレンドを知る人物にことごとく会った。年間の交際費は億円単位。

 「社長よりも交際費があったと思う。もちろん使い切れなくて、冗談交じりで役員に怒られたこともあった」(石井)という。

松下幸之助も絶賛

 このワークスの「松下・ヤング」作戦は松下のトップにも知られることになる。

 1987年1月の経営研究会。会長や社長をはじめ役員や幹部らが参加するこの研究会で佐久間の「ヤング」作戦が報告された。すると、研究会の後で松下幸之助が佐久間を呼び止め「あのヤング作戦は面白い」と表情を崩しながら言う。

 特に幸之助が面白がったのは真夏の神奈川・湘南海岸での石井らの活動だ。1シーズンで100万人を超える若者でごった返す湘南海岸に出向くと、ソニーや東芝などの看板が所狭しと並ぶなか「松下の看板が一つもない」ことに石井らは気づく。

 石井らはどう巻き返すか、考えた。対抗して看板を出すだけではつまらない。「海に浮かぶ海の家を作ろう」。

 そこで湘南海岸の海の家を取り仕切る地元の漁業組合に掛け合って沖合に海の家を作った。海の女王コンテストも開催、石井はスポンサーとして20代ながら審査員席に座ることになる。

 こうした活動の一部始終を発売したばかりのポータブルビデオに収め、経営研究会でスライド上映したのが幸之助ら上層部にうけた。

 「しかし、佐久間君。あの2人の若いスタッフに給料をしっかり払っているのか」。幸之助が佐久間に問いかける。

 「なぜですか?」と佐久間が問い直すと、「あそこに映っていた2人は真夏の海岸でよろよろのスーツを着ていたぞ。せめて遊び着くらい買ってあげないと」と真剣な顔で問いただす。

 この話を佐久間が石井らに伝えると、石井は「当時、はやっていたDC(デザイナーズ&キャラクターズ)ブランドの服を着ていたんですけどね。相談役らにはそれがダボダボのスーツに見えたんですかね。着ている人間が不細工だとそう見えてしまうんでしょうか」と話した。すると「聞いていた佐久間もその場でどっと笑った」と振り返る。

欠けていた「健全な遊び」

 ワークスのヤング作戦の戦略商品の第1弾は電話機だった。このデザインなどがうけて当時若者に人気があったマガジンハウスの雑誌「ポパイ」の「デザイン・オブ・ザ・イヤー」で金賞を獲得した。その余勢を駆って「ソニーのウォークマンを追い抜け」とヘッドホンステレオの開発にも乗り出した。

 ヘッドホンステレオの色の豊富さで勝負を仕掛けたが、オーディオフェアに製品が間に合わずにモックアップ(原寸模型)を展示したところ、ソニーは実物機をずらりと並べる。

 次に「薄さ」で勝負を挑んだが、これもソニーは薄さに加え、バッテリーの持ちを売りに出してきた。松下がかろうじて勝ったのは「音漏れ防止機能」だったが、「ソニーは先の先を読んで手を打ってきて完敗だった」と佐久間は話す。

 まだ当時の松下にはこうした「遊び心があった」(佐久間)。「遊び心」といっても、それは日本の消費の中心地である東京と、そこから発信し広がっていく若者のカルチャー、トレンドを探るという真剣なマーケティング活動だった。

 いくら保守的といえども、当時の若者たちが引かれていた「DCブランド」を見て、「よろよろのスーツ」と話す松下のトップたちの感覚は、大消費地である都心部の実際の消費の現場とかけ離れていた。

 「松下は変なところでかちっとしすぎる。ある意味真面目すぎる。慎重で冒険をしない。衣食住が行き渡った日本で何が求められているか把握するためにも『健全な遊び』が松下には必要だ」と佐久間は現役を退いてからも松下=パナソニックの体質を指摘するが、ここでいう「遊び」とは無駄打ちを許す、実験や挑戦をする「ゆとり」のことを指す。

真面目すぎる松下電器の企業風土は、パナソニックになってからも受け継がれている(写真:beeboys/stock.adobe.com)
真面目すぎる松下電器の企業風土は、パナソニックになってからも受け継がれている(写真:beeboys/stock.adobe.com)
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 他社でヒットした製品を強力な販売網と豊富な資金力にものをいわせて広告宣伝で売り込むといった「マネシタ電器」と揶揄(やゆ)される他社追随型のこれまでのやり方では、新しい物好きの「東京」「若者」には響かない。逆に自分の好みや嗜好に合っていれば多少高額な商品でもためらわずに購入する。

 「消費動向へのアンテナを張ることにもっと早く気づいていれば、松下電器=パナソニックのその後は少しは変わっていたかもしれない」と佐久間は指摘する。

昭和の日本経済を牽引した松下電器産業とソニー。世界で圧倒的な強さを見せていた両社は、「失われた30年」で輝きを失う。どこで間違えたのか。再生に向けての課題はどこにあったのか。勝負を分けた「決断」の裏側を取材記者が追う迫力のノンフィクション。

藤本秀文著/日本経済新聞出版/1870円(税込み)