一世を風靡した『負け犬の遠吠え』から約20年。酒井順子さんが焦点を当てたのは、今の社会に存在する「階級問題」。『 消費される階級 』(集英社)は、誰もが触れにくいと感じている部分にあえて光を当てて触れていく、ちくりと刺さるような感覚を覚えるエッセーだ。酒井さんが今、このテーマを選んだのはなぜなのか。(聞き手は宮本恵理子)
学歴、外見、年齢、お金、デジタルリテラシーの差で上に見たり、下に見たり。酒井さんの最新刊『消費される階級』(集英社)は、「平等」「公平」が求められる時代になっても、私たちの中にあり続ける階級意識をコミカルかつ鋭い筆致でつづるエッセーとして注目を浴びています。発売後に即重版となったそうですが、どんな反響が届いていますか?
ありがとうございます。読んでくださった方々からは「思っていたけれど語りづらいことを、よくぞ書いてくれた」というお声をいただきます。
時代の変化で「序列」「区別」「差別」はタブー視され、表立って言葉にするのははばかられる世の中になりましたが、人の性(さが)というのはそう簡単には変わりません。
むしろ、蓋をされることで、内側で濃縮が進んでとろみを増すといいますか。「他人と比較して上下をつける感覚を“なきもの”とされがちな風潮に対して、それでいいのだろうかとモヤモヤしていましたが、この本を読んでスッキリした」とおっしゃる方もいました。
おそらく小説のようなフィクションで書くほうが表現しやすいテーマなのかもしれませんが、あえてエッセーという現実を直接的に描く作品で表したことが、珍しいのかもしれませんね。
このテーマを知らんぷりするのは「嘘」になる
「30代、独身、子なし女性」を「負け犬」と定義し、自虐を交えたユーモアと愛情を込めてその生き方を指南した本『負け犬の遠吠え』が一世を風靡したのは、約20年前のことです。本書との連なりを、ご自身はどう感じていらっしゃいますか?
20年というのはたまたまなのですが、あらためて考えてみると、当時も今も私が書きたいもの、興味が湧く対象というのは変わらないなと思います。
自分の中で気になってしょうがなくなるものを、私は書きたくなるのでしょうね。
ただ、20年を経た今、「負け犬」という言葉はきつく響きすぎてもう使えませんし、今作の中で引用した際もそれなりの注釈が必要でした。
「ブス」「バカ」「デブ」とか、昔は平気で明るく使えていた言葉も書けないですし…いや、私は使っちゃっていますけれど(笑)。それでも「本当は使っちゃいけない言葉ですが」といった一言を添える配慮が求められる時代になりましたね。
書きづらいことをあえて書くうえでは相応のハードルがあるはずですが、酒井さんには「それでも書かねばならない」という使命感があったのでしょうか?
使命なんてそんな立派なものではありませんが…(笑)、もともと私自身がこういう話が好きでエッセーの題材にもしてきた経緯がありますので、見て見ぬふりをすることはできないといいますか。知らんぷりをするのは嘘だなと思うのです。
表現には気を付けながらも、皆さんの心の底に沈殿している「とろりとした感情」を解放してあげたほうがいいのではないかという気持ちもありました。
簡単に口にできなくなったからこそとろみが増し、蓋をされて外気にさらされないせいで発酵が進んでしまった感情を、きっと誰しもが抱えているのではないかと私は感じています。
軽快に読み進めながらも、自分の内面でふたをしているものを突き付けられる。この作品は、「本」という形で読むからこそ味わい深くなる印象がありました。
確かに、本だからこそ受け止めやすいテーマかもしれませんね。じっくりと自分の心と対話しながら吸収できるのは、読書ならではだと思いますので。
書籍化される前、集英社のウェブマガジン「よみタイ」での連載中には、SNS上で記事が話題になって拡散されることもあったんです。とてもありがたくてうれしかった半面、不慣れな世代ですのでドキドキしてしまう自分もいまして…。
ネット記事では、その引用のしやすさから読んだ瞬間に「これはいかがなものか」と反応する投稿もすぐに広がってしまいやすい。その点、本は物理的に拡散しにくいので、読者がムッとしたとしても一呼吸置いて考えてくださる。本を読む人の寛容な姿勢が、結構好きです。
『消費される階級』は、時代の変遷も学べると感じました。メディアでの表現や家庭の中での男女の役割など、現代の“常識”に至るまでの歴史を知ることができました。特に若い世代にとってはよい教材になりそうです。
例えば男女平等の環境が整っていなかった時代の話を知ると、「今はよい時代になったのだな」と思えますね。
ただ、当時の人たちが「悪」かというと決してそうではなく、その時代なりの価値観をもって真摯に生きてきたわけなので「昭和差別」をするのはどうかと思いますね。
令和の時代だって、30年後には「とんでもない時代だった」と“差別”されるかもしれないのですから。
昭和差別が行き過ぎると、「名作」の数々が消えてしまう現象も起きるでしょう。
現に、かつて日本中を感動の渦に包んだドラマ『北の国から』は、今は再放送がしづらくなったと聞いたことがあります。理由を聞けば「あんなに支配的で強権的な父親をよしとする家族像は、時代にそぐわない」だそうで…。そういわれてみれば、田中邦衛演じる父親が独断で引っ越しを決めて、子どもたちの人生を巻き込みまくるストーリー展開なんですよね。となれば、父親のちゃぶ台返しが繰り返される『寺内貫太郎一家』も、放送できなくなってしまいますね。
時代によって、何が受け入れられるかは変わっていきますが、それにいちいち対応すると、何もかもがタブーになってしまうでしょうね。
最近は、例えば、職場の同僚や後輩の男性に対して「イケメン」と表現することもタブーとされるようになってきました。
人は3人寄れば「社会」になるといいますから、2人の間で「あの子、イケメンだよね」とこそこそ言い合ううちは許されるけれど、3人になるとダメなのかも。タブーの線引きは難しいですよね。
そのうち、運動能力で順位付けするのもNGとなれば、オリンピックもタブーに。もしもそうなったら、学力の順位付けである入試もやめたほうがいいです。
「差別していない」という人へ
何かにつけて「○○格差」などと名付けてカテゴライズしがちなメディアの影響も少なからずありそうです。特にどんな人に読んでほしいと思いますか?
「自分は誰のことも下に見ていないし、差別はしていない」と思い込んでいる人に読んでほしいですね。
人が人と関わりながら生きている限り、差別する感情は絶対にあると思うんです。
「私は絶対に差別していない」と言い切る人がいるとすれば、その人は「差別している人を差別している」のでは。「私のほうが近代的で進歩しているのよ」と(笑)。
誰もがとろみのある階級意識を持ちながら、時に見上げ、時に見下ろし、生きている。この平たい事実に気づくことで、新たな視界が開けるのではないかと思います。
取材・文/宮本恵理子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/稲垣純也



