65歳以上女性・世界初のサブスリーを、67歳で達成した弓削田眞理子さんは、長年高校の教壇に立ち、生徒と一緒に走り続けてきた指導者でもある。そんな弓削田さんが、高橋尚子さんの著書『 笑顔で生きる魔法の言葉 』で得たのは、走ることと人を育てること、どちらにも共通する“やる気を伸ばす方法”だった。

弓削田眞理子(ゆげた まりこ)
埼玉県立川越女子高等学校教諭。1958年生まれ。中学から陸上競技を始め、高校ではインターハイ、大学ではインカレと日本選手権に出場。24歳で東京国際女子マラソンに初挑戦したことをきっかけに、マラソンに魅了される。結婚・出産・子育てを経て、教員生活とマラソンへの挑戦を両立してきた。2019年の下関海響マラソンで、60歳以上の女性として初のサブスリー(2時間59分15秒)を達成し、W60(60~64歳)の世界記録を樹立。2025年の神戸マラソンでは2時間59分02秒を記録し、65歳以上の女性として世界で初めてサブスリーを達成するとともに、自身が保持していたW65(65~69歳)の世界記録を更新した。「100歳まで走る」を目標に、68歳となった今も日々トレーニングを続けている。

生徒への指導にも生きる、高橋尚子の言葉

 高橋尚子さんの『 笑顔で生きる魔法の言葉 』は、何度も読み返してきた1冊です。でも、改めてじっくりこの本と向き合ったのは、62歳で出した2時間52分の自己ベストが60~64歳クラスの世界記録となり、その後その記録が更新された頃のことでした。アメリカのジェニー・ヒッチングスさんが、2023年のシカゴマラソンで2時間49分台という素晴らしい記録を出したんです。

 周りからは「悔しくないんですか」とよく聞かれるんですけど、全然悔しくないの。だって、記録ってそもそも誰かに破られるためにあるものでしょう? 自分が一つの目標をつくって、それを誰かが超えていく。それでいいじゃないですか。むしろ、うれしいくらいです。

 「次は65歳以上のカテゴリーで世界記録を狙えばいいよね!」

 そう思ったんです(笑)。そんなふうに次の目標を考えていたとき、ふと、高橋尚子さんがシドニーオリンピックに挑む姿を思い出して、もう一度この本を開いてみました。そのとき、特に心に響いたのが、「夢をもてば、また必ず光が見える」という言葉でした。

 けがを繰り返して思うような結果が出ない時期には、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」という一節を何度も思い返しました。悩んでいる時間があったら、その分、今日できることをやればいい。一日一日を積み重ねていけば、夢は目標になり、やがて現実になる。そんなことを、この本から改めて教えられた気がしたんです。

 高橋さんの言葉は、自分の競技人生だけでなく、生徒への指導にもずっと生きています。

『笑顔で生きる魔法の言葉』(高橋尚子著、角川書店)/画像クリックでAmazonページへ<br>2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダリスト・高橋尚子が、競技生活を通じて出合った言葉と、それにまつわる経験を綴った1冊。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」「疾風に勁草を知る」など、逆境の中で前を向くための言葉が並ぶ。弓削田さんが「目次が全部名言!」と語るほど、競技と指導の両面で支えになってきた本。
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2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダリスト・高橋尚子が、競技生活を通じて出合った言葉と、それにまつわる経験を綴った1冊。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」「疾風に勁草を知る」など、逆境の中で前を向くための言葉が並ぶ。弓削田さんが「目次が全部名言!」と語るほど、競技と指導の両面で支えになってきた本。

「達成できる目標」を一人ひとりに

 教員になって45年近く、大切にしてきたことがあります。それは、「生徒と一緒に動く教師」でいることです。私は体育の教員ですが、椅子に座って指示を出すだけの先生には絶対になりたくなかった。生徒と一緒に走って、一緒に泳いで、一緒にバレーをして、テニスをする。そうやって汗を流していると、「先生も一緒に頑張っているんだな」って、生徒はちゃんと感じてくれるんです。

 陸上部の指導で一番大事にしているのは、一人ひとりが達成できる目標を一緒に見つけること。例えば、800メートルで「先生、2分30秒を切りたいです」と言ってくる子がいたら、その子に合った練習メニューを考えます。スピードはあるけれど持久力が足りない子もいれば、その逆の子もいる。同じ練習を全員にやらせても、伸び方は違います。

 一人ひとりに合わせて、「今日は短い距離を全力で」「今日はペースを落として長めに走ろう」とメニューを調整する。目標を達成できるとそれが自信になって、「次は2分25秒を目指したいです」と、自然と次の目標が生まれてくる。その姿を見るのが本当にうれしいんです。

「質問が多い子」は絶対に伸びる

 私の経験則なんですけれど、強くなりたい子って必ず質問してくるんです。「先生、どうしたらもっと足が上がりますか?」「フォームはこれで合っていますか?」って。そういう子は、教えたことをすぐに試してみる。そして、また分からないことがあれば聞きに来る。その繰り返しで、どんどん力をつけていきます。

 昔、すごく印象に残っている教え子がいました。コロナ禍で中学の全国大会が中止になってしまった世代の子なのですが、1年生のときから「先生、インターハイはどこでやるんですか」と聞いてきたんです。その目を見た瞬間、「この子は本気だな」と思いました。

 その子は、本当に質問が多かった。ピッチのこと、フォームのこと、練習方法のこと……。私は質問のたびに、「ピッチはすごくいいから、そこをもっと伸ばしていこう」といったふうに、できるだけ褒めながら、伸ばすところを伝えていきました。そうやって強みを認めながらアドバイスすると、ぐんぐん伸びていくんです。その子は3年生になって、念願だったインターハイ出場を果たしました。

 これは、生徒だけじゃなくて会社でも同じですよね。自分から「どうすればいいですか」「こんなふうにやってみようと思うんですが」と相談してくる人は、やっぱり伸びます。ただ大切なのは、そういう人を育てることよりも、「自分から質問したくなる、挑戦したくなる環境をつくる」ことなんじゃないでしょうか。

生徒の異変を察知してメニューを変える

 朝、グラウンドに集まって生徒たちを見ていると、「今日はいつもと違うな」と感じることがあるんです。テストの結果がよくなかったのかな、昨日は眠れなかったのかな、そんなことが表情や声のトーン、目の様子から何となく伝わってくる。

 もちろん、「何かあったの?」なんて決めつけて聞いたりはしません。生徒にもプライバシーがありますから。その代わり、練習メニューはさりげなく調整するんです。「今日は少し休んでいいよ」「次のセットから合流しようか」と声をかける。それも、その子が置いていかれたと感じないように。そのさじ加減がとても大事です。

 走りというのは、不思議なくらい正直です。家で何かあった日や、心や体の調子がよくない日は、走りにそのまま表れる。だから私は、走りを見ればその子が今どんな状態なのか、何となく分かる。それは、生徒たちと毎日一緒に過ごしてきたからこそ身についた観察力なのだと思います。

最後まで叱って終わらせてはダメ

 私、いつも思うんです。高校って、私が教えてあげられる最後の場所なんだって。卒業した後、大学に行っても、社会に出ても、誰も手取り足取り教えてくれないでしょ。だから、陸上の技術だけじゃなくて、あいさつのこと、感謝の言葉のこと、人として大事なことも伝えるようにしてきました。

 実際、卒業した教え子が大学に進んでからも、「先生、相談があります」って連絡が来るんです。「練習がうまくいかない」「悩んでいる」って。そういうときはいつでも教えてあげる。頼ってきてくれるなら、応えたいじゃないですか。

 市民ランナーの仲間にもよく言うんですけれど、実力があっても、それを的確に見てくれる伴走者がいないと、本当にもったいないことになるんですよ。本人は実力があるのに、力んで失速してしまう。そういうとき、近くにいてアドバイスできる人がいたら、絶対に結果が違うんですよね。

 生徒を指導するとき、きついことを言う場面もあります。「これじゃダメだ!」「もっと走り込め!」って。でも、最後は絶対に褒めて終わらせる。「それがあなたの本来の姿だよ」「これでいけるからね」って。最後まで叱って終わらせてはダメ。生徒もそうだし、人を育てるって、結局そういうことだと思うんです。

 もし若い頃に戻れたら、実業団に入って、オリンピックを目指していたかもしれない。そう思うこともあります。でも、教員になって心からよかったと思っているんです。生徒たちが本当に可愛くて。45年近く生徒たちと一緒に走ってきましたが、もし生まれ変わってもまた、私は高校の教員を選ぶでしょうね。

取材・文/金澤英恵 構成/細谷和彦(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子

マラソン世界記録 弓削田眞理子 競技者、指導者、そして100歳まで走る
1回目  「67歳でサブスリー」の世界記録 市民ランナー・弓削田眞理子を走らせ続けた本
2回目  世界記録保持者・高校教諭ランナー弓削田眞理子 やる気に火をつける指導法  ←今日はここ
3回目 弓削田眞理子のコンディショニング論 「100歳まで走る」を叶えるために ←9/18公開予定